身代わりと不安






 誰かに、抱き締められていた。

 柔らかく、優しく、落ち着けるような抱擁は京介さんを思い出した。

 そのせいか、止まれと思っているのに、涙がますます出てくる。

 押し込めていた苦しさが、全て、吹き出してしまうように。


 ……やがて涙が収まりを見せても、ぼんやりしていた。

 ここに京介さんがいるはずもなかったため、わたしを抱き締めていたのは、一旦見た気がした月城聡士だった。

 先ほど、その体勢は解かれたのだが、前で泣いてしまったことと今も名残がある顔を見られたくなくて、ろくに顔が見られない。


 ここは、どこだ。

 顔が隠れるほど髪は長くないため、視線を下気味にして辺りを確認すると、室内にはわたし以外に三人いた。

 謙弥、月城聡士、鳴上千里、だ。

 どういう状況から謙弥以外がいるのか分からず、また、場所も分からないことで戸惑いしかない。


「ここは……」

「医務室に隣接してる、上位貴族用の部屋──の、月城家専用の部屋だ。お前が廊下で倒れそうだったから、連れてきた」


 廊下で。

 そうだ、急に気分が悪くなって、視界がぐるぐると回って、とてもではないが立っていられそうになかった。……それからの記憶がない。

 まさか、気絶した?

 それで、運んでくれた?


「それは、迷惑をかけた」


 と言ってから、あることに気がつき呟いた。


「……授業は」

「安心しろ、まだ昼休み中だ。……真っ先に気にするところがそこか」


 そうか、昼休みか。

 無気力だった。普通なら焦っただろうが、ぼんやりとしているせいで、全ての感覚が鈍かった。


「……昼休みを削って、ごめん。私は大丈夫だから──」

「やめろ、そういう風に言うな」


 言葉を遮られた。


「迷惑だって思ったりするなら、俺はそうしない。そうじゃなくて──そんなになるまで、無理するなよ」


 月城聡士に言われるとは思ってもみないことを言われ、わたしは、のろのろと視線を上げた。


「今、ここで見聞きしたことは俺は全部見なかったことにも、聞かなかったことにもする。だから、全部一緒に吐き出しとけよ」

「なにを」

「何が不安だ、何がそんなにお前を追い詰めてる」


 不安なんかじゃない、と即座に否定しようとして、出来なかった。


「そんなこと、聞いて、どうする」

「俺がどうにか出来ることじゃないとしても、話くらいは聞ける。不安は溜め込むべきものじゃない。どうせ泣いたあとだと思って、言っとけよ。約束する、全部まとめて見聞きしなかったことにして、一生口にしない」


 だからこそ、聞いてどうする。どうして聞こうとする。


「一回、湊の振りは全部無しにしてみろよ」

「……湊の振りも何も、ここにいるのは、湊でしかない」


 志乃はいない。入学したのは、湊だ。


「お前は湊じゃない」


 真っ向からの否定だった。

 ここにいるのは、水鳥湊。志乃はいない。わたしが口には出せなかったことへの、否定。


「どれほど湊であろうと思っても、完璧に完全に他の誰かになんて、誰もなれない。お前は湊じゃない。──完全にまでそうであろうとしているから、お前は倒れるところまで来たんじゃないのか」


 思い当たる節が、一気に頭の中で甦り、押し寄せてきた。

 ぎゅっとシーツを握る。


「わたしは──」


 わたしは。

 湊として、彼のではなく、彼と同じく完璧な成績を取らなければならない。絶対に、絶対に。


 ──無理だ、と、どこかが叫んだ


 そう、無理だ。ぼんやり、思った。

 ぎゅっと握った拳を眺め、途方に暮れる。

 無理だ。こんなにプレッシャーに押しつぶれそうなわたしが、出来るはずがない。


 ぽたり、と涙が落ちた。

 なぜ、涙が出てくるのか分かった。わたしは、限界だったのだ。湊でいることは予想を遥かに越えた重圧を共にして、そんな重圧とは無縁の生活にあったわたしは、情けなくも限界だった。


 家に帰ったときもぶちまけなかったことが、自分が言うまでもなく的確に示され、わたしはとうとう口を開いた。


「……聞きたいことが、ある」

「うん」


 湊の友人だと言う彼。対して、身代わりとして入学してからの付き合いのわたし。

 それなのに、月城聡士はとても柔らかく、促しの相づちを打った。


「湊は、どんな風に見えていた?」

「……」

「わたしは、ちゃんと湊に見える?」

「……」

「わたしは──わたしは、湊でいられているのか、」


 不安で堪らない。

 さすがにこれは、声には出来なかった。


「聡士が言ったのは、わたしは湊に見えないっていうこと?」


 そんなはずがないことは、分かっていた。

 彼以外に湊ではないと指摘されたことはなく、クラスメイトも教師も疑問を持った様子など一欠片もないのだ。

 だけれど、不安まみれの今のわたしは、問わずにはいられなかった。

 知りたいこと、言ってもらいたいことはそれだけだ。わたしは湊じゃない、だけど、湊に見えると。


 月城聡士は問いを聞き、首を振った。


「お前の行動に関して言うなら、見える。外見に関しても、見える。最初に俺が指摘したことで自信をなくさせたのなら、悪かった」


 謝る必要はないのに、月城聡士は謝り、それに対して鳴上千里が「聡士様はちょっと洞察力が鋭すぎるんですよ」と言った。


「それなら、いい」

「それだけか?」


 わたしは無言で頷いた。


「それで無理することは、やめられるのか?」

「……聡士、どうして聡士がそんなに気にするんだ」

「心配だからだろ」


 心配?


「湊の友人として、と、もう個人的にお前とも友人くらいだと思ってるんだけどな」

「……友人……?」


 わたしと?

 友人というものに縁がなく、それがどういうものかいまいち分からないわたしは、そのまま聞き返してしまう。


 月城聡士は少し苦笑した。


「全く思ってなかったって顔だな。傷つくぜ。──まあ、その友人からの言葉だ。倒れたら元も子もない。『やらなければならない』と思うことは俺にだってあるし、誰にだってあるだろうが、どこかで線引きして付き合っていくのは大事だと俺は思う」


 真剣な声音で言った彼は、続ける。


「せめて自信持てよ。お前は湊じゃないが、十分『湊』であれている」

「聡士、」

「自信が持てなくても、今お前が全力でやる以上の結果はどれほど無理をしたって出ないだろう。それでも、湊なら、どんな行動しても後から大丈夫だって言うだろうよ。あいつ、いっつも涼しい顔してるからな、そういうのは本人に任せればいい」


 そう言う月城聡士は、自分のことではないのに自信たっぷりだった。


「湊が?」

「ああ」


 そうだろうか。……そうかもしれない。

 湊は、わたしが自分の不在中に何か失敗しても、責めない。

 周囲の評価ではなく、初めて、湊がどう反応するかを考えて、確かにと腑に落ちた感じがした。


 そして、それを言い切った月城聡士に、「湊」であるはずのわたしは敵わないと思ってしまうはずだと感じた。

 やはり、眩しかった。自分を疑わない彼が。

 彼とわたしでは、雲泥の差がある。


「……そうだね。……わたしは、全力を出してしまっている。たぶん、これ以上に力は出せないし、これ以上足掻いても、今日みたいに倒れるだけ」

「何だよ、分かってるな」


 一度倒れたから分かったのだろう。

 わたしは全力を出している。それどころか、出し続けて、そして、限界を越えてしまった。

 それでは、そう、月城聡士が言ったように元も子もない。


「そうだね……」


 今だけは、一時的にかもしれないが、プレッシャーを忘れていた。何もかも、一度全て流れ出してしまった空っぽの場所に、納得が一番に入ってきた感じ。


「これを」


 そっと、横からタオルが出てきた。見上げると、謙弥が差し出してくれていた。


「ありがとう。謙弥も、ごめん、取り乱したところ見せた」

「いいえ。……俺は気がついていて、どうにも出来ませんでした」

「気がついて、たの。あぁ、そ、か」


 彼は、休めているかと聞いてきたり、休暇の前にもしっかり休んできてくれるようにと言ってくれていた。


「謙弥は言ってくれてたよ。わたしが、それを聞かなかった」

「これからは、お休みになってくれますか」

「努力する」

「……休む努力というのは、少し矛盾しているような気がしますが」


 そうかな。

 とりあえず、まずは今回のようなことは起こさないようにしようと思う。


「ここからしばらく出られないだろうから、昼食、運んで来てやろうか?」

「そこまでしてもらうわけにはいかない」


 月城聡士がそんなことを軽く言い出した。

 月城家の子息が何を言っているのか。そうでなくとも、ここまでで世話になりすぎた感じがある。


「でも、とりあえず、わたしはまだここから出られそうにないから、気にせず昼食に行ってほしい。昼休みを削ったことに関しては本当に──」

「謝るのは無しだって言ってるだろうが」


 月城聡士は立ち上がった。


「俺がここにいても他に出来ることは無し。お前が申し訳なく思うだけっていうのはよく分かったから、出ていくことにする。これ、鍵な」


 ベッド横のテーブルに鍵を置き、言葉通り月城聡士は扉の方に向かう。


「月城様」


 謙弥が呼び掛けたことで、歩みが止まった。

 早速蒸しタオルを目に当てていたわたしは、タオルを離した。

 謙弥から、月城聡士に話しかけることは、見たことがなかった。


「謙弥君、それ、忘れてもらうわけにはいかないかな」


 応じたのは鳴上千里だった。緩い笑顔の鳴上千里は、気のせいか押しの強めの言い方をした。


「いいや、千里、俺は言うべきだと思ってる」

「聡士様、馬鹿言わないでください」

「どうせ見られた」

「口止めは意外と簡単っすよ」

「千里、俺のせいで起こっていることがあるだろ」

「……分かりましたよ。責任は聡士様持ちでよろしくお願いします」

「当然だ」


 鳴上千里がこれ見よがしにため息をついたところで、月城聡士がなぜかわたしを見る。


「話があるんだが、試験後でいいか」

「話……って?」

「色々。俺のことだったり、白羽のことだったり、お前が置かれている状況──湊のことも」


 湊のことも。

 とっさに出てくる心当たりがなく、わたしはうんとも何とも言えない。


「今は忘れておいてくれていい。ひとまず、互いに学生の本分に全力出そうぜ」

「……うん……?」



 *




 二人が出ていったあと、わたしは謙弥を見た。


「謙弥、話について何か知ってるの?」

「……月城様の目が……いえ、ここに来る前、廊下で聞き間違えでなければ、月城様があなたを眠らせたように見えました」

「聡士が?」

「力ある声で、相手を従わせる異能があるんです」

「……? でも、確か、月城の異能は……」


 そんな異能ではない。


「それでも、可能性としては違う異能を発現することもある、よね?」

「はい。ですが、その異能だけは、現在誰も持つはずがないんです」


 謙弥は何か信じられない目で、扉の方を見た。


「約十六年前、途切れたはず、なんです」








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