身代わりと限界
くまは出来ていない。毎朝、鏡で確認する日課が出来た。
鏡の中、湊とは異なる情けない顔を、ゆっくりとした瞬きと同時に微笑に変える。
大丈夫、わたしは、湊だ。
──試験まであと二日。
「試験までの授業は今日で終わりだから、分からないところを聞きたい生徒は、早めに来ておくように」
授業が終わった。
移動教室だったため、教室から出て廊下を歩いていると、廊下の壁に生徒会選挙の掲示が見えた。
来月から立候補者受付、その後選挙期間に入り、投票。生徒会長と生徒会役員が決まる。
現在の生徒会は、どうも白羽家とその分家、派閥の人間のみで構成されているようだった。
水鳥家も選挙の時期を知らないはずはなく、謙弥を通して連絡がきた。今回はじっとしておくように、と。
どうせ一年生だ。普通そういうのは二年生だかが出るものだろう、と思っていたら、よく考えると現生徒会長の白羽悠は今二年生だ。
白羽悠は、一年生のときから生徒会長をしていたそうだ。
三年生に森園環奈がいるが……彼女は白羽が入ってくるからと退いたのだろうか、そもそもする気はなかったのか。
あの気弱そうな様子を思い出して、まだ返すことが出来ていないハンカチの存在を思った。いつ、返せるか。
「もう試験っすよね、あー……嫌だな」
嘆く声が聞こえた。
「千里、出来る限りのことやれよ」
「聡士様、おれはいつでも全力ですよ。何しろ月城家に仕える身ですからね」
すっと横目に見ると、廊下の向こう側から歩いてくる月城主従が姿があった。
他にも生徒がたくさんいるが、その中で声を捉えられたのは、他より聞き慣れてきた声だからだろう。
「よく言った」
「ははは、でも正直国語は相変わらず自信ないです」
「なんでよりによって国語なんだよ」
本当に仲がいい主従だ。敬語に目を瞑れば、もはや友人同士の会話だ。
そういえば、月城聡士や鳴上千里の学力はどれくらいなのだろう。いつかも考えたことだったか。
それに、謙弥も。
ちらり、と謙弥を見ると、「どうかしましたか?」と聞かれて、首を振りながら前に向き直ることになる。
湊の成績は見て実感しておく必要があったが、謙弥の中学までの成績は知らない。この学園に入学してからの成績も、知らない。
小テストの類いがあっても、そういった会話をしないからだ。
では、月城聡士は。
「よお、湊。ちょうどいいところに会った」
「──聡士」
向こう側から彼が歩いて来ていることを、忘れていた。
すれ違う頃になり、声をかけられた。
「昼、行こうぜ」
「……昼休みだったな。私は一度教室に戻ってから行くよ」
もう当たり前の習慣となりつつある昼食を共にする流れに、そんな返事をして、月城聡士とすれ違う。
──彼が不安に襲われることなど、あるのだろうか
試験が近づくにつれ、余裕がなくなってくるわたしから見ると、月城聡士が眩しくて仕方なかった。
月城聡士は変わらない。他愛もないことを軽く話し、笑うこともあれば、真剣な顔になったり、様々に表情が変わる。作っているものではないからだ。
自然体で、変わらない。
湊がいつ戻ってくるかは分からないけれど、白羽悠が卒業する年となり、生徒会が代替わりするとき、今度は湊と月城聡士がその座を巡ることになるのだろうか。
──そこまで考えて、あることに気がついた。改めて気がつくには、遅すぎることに。
「最上位貴族同士って意外と仲が良いんだな」
「そうだな、何か意外だよな。もう少し、互いに張り合ってギスギスしているものだと思ってた」
でも、と誰かが言った。
「今回の試験、水鳥様と月城様、どちらが上にいくんだろうな」
──少なくとも今、わたしが湊で、彼に張り合わなければならないのはわたしだ
入学式で、初めて実際に彼を目にして思ったことを思い出した。
月城聡士は、同学年として、これからわたしが張り合っていかなければいけない人間で、さぞ優秀なのだろうと思うと、少し心配になった。
月城聡士。月城家の次男で、月城家の教育を受けてきた生粋の貴族。
「同位なんてあり得ないだろ?」
「いや、どちらも一位っていうのがあり得ると思う」
「なるほどな。……お二方共、中学でずっと満点かつ一位独走状態だったそうだからな」
わたしが演じている「湊」ではない、本物の湊と、当然偽物なんかではない月城聡士の話を、耳が拾った。
試験まで二日。
前日でもなければ、当日でもない。
だが、たったそれだけの会話を拾い、その会話は「たったそれだけ」で流れてくれなかった。
「──っ」
急に、吐き気に襲われた。
「湊様?」
「何でも、な、」
目眩がした。
唐突だった。
わたしの目の前が、揺らぐ。
「湊様」
期待、羨望、圧力、重圧、重圧、重圧。
全てが奔流となり、思い出された。ここまで、向けられるそれらを知りながらも、すぐに箱の中に放り込み、無理矢理閉じてきた。
一々まともに感じてしまっては、もたない。そう無意識が判断したのだ。
しかし、最近、蓋は壊れてきていた。
入学してから、最初の、全員の前に結果を示される機会を前に。
誰もが、湊が満点、完全なる成績を取って当然だと思っている。さすがだと感嘆しながらも、「それはそうか」と思う。
生徒のみではない、教師も。
こんなにも期待をかけられる中、湊は失敗の出来ない「完璧」を演じていたのだ。
信じられない。
今まで何とか誤魔化して、大丈夫だと言い聞かせてきたが──。
無理だ。
わたしには、無理だ。
わたしは、そんな大層な人間じゃない。
湊ではないのだから。人目につかない場所で生きてきた人間に過ぎない。
本家も本家だ。わたしは、わたしは、
「おい、どうした──湊」
「……ちが」
わたしは湊じゃない。
吐き気が邪魔をして、誰かへ否定しようとした言葉は出てこなかった。
「歩けますか。ひとまず移動します」
視界がぐるぐるする中、腕を引かれ、歩かなくてはならなくなる。
歩いて、歩いて。
「ここなら、運んだ方が早い。人もいない」
誰かに、体に腕を回され、持ち上げられそうになった。
「問題、ない、から」
「問題ありまくりだろ、いいから大人しく──」
わたしは「湊」で、湊じゃなくて。今、どんなことがあっても完璧な「湊」でなくてはならなくて。
「湊──じゃなくて、──ああ、くそ」
離れようとする体を、引き寄せられた。
誰かの気配が近くなる。
「『大人しくしろ』」
声が聞こえた瞬間、力が抜けた。
「……な、」
わけが分からず、重力に従い床に崩れ落ちる。立たなければ、
「『しばらく眠れ』」
だけど、意識は、飲み込まれていった。
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