身代わりと重圧






 明かりがない部屋、真っ暗な部屋。

 光は一筋も入らなくて、わたしはそこから出ていく術を知らない。

 扉から時折出入りする人はいたけれど、わたしには、そこから出ていくという発想はなかった。

 ずっと、ずっと、隅で丸くなって、じっとしていた。

 ぼんやりとして、一日が二十四時間という概念も知らず、曖昧な時の流れの中いた。

 何も知らないまま、何もない部屋の中、何のために生きて、息をしているのかさえ分からず、身動きできずただ生きていただけの日々だった。

 息苦しい日々だった。漠然と、何かに怯えていた日々だった。



 *






 ──目を開いた。


 何も見えない。暗い。ここは。

 心臓がどくどくと打つ。煩く、騒ぐ。ここは、ここは、ここは──。

 混乱の渦の中、肌に触れたさらりとした感触に、心臓が僅かに落ち着く。ほんの、わずか。

 柔らかなベッドで横たわっていると自覚して、初めて瞬き出来た。


 そうだ、わたしは、もう随分と昔にあの部屋から出た。

 それは夢ではなくて、わたしには『父』があり、家がある。

 今は、湊の代わりに学校に通っていて、ここは寮だ。


 順に思い出して、大きく息を吐き出した。

 鼓動も、穏やかになっていた。

 ごろりと寝返りを打って、手探りで手に取った携帯電話の画面をつける。

 明るすぎる画面に示された時刻は、午前四時。眠りについてから、一時間しか経っていない。

 明るい画面を遮るように、目を閉じる。


 久しく見ていなかった夢だった。

 あれは、夢だ。物心ついたときには一つの部屋に閉じ込められ、出たことがなかった頃の夢。あの部屋以外の世界を知らず、あるとも思っていなかった頃の。

 今思うと、無意味で、どれほど続くか分からない時間が過ぎていくばかりで、とても苦しかったときだった。


 ──閉められるドア、鍵をかけられる音、わたしの世界と向こうを隔てるもの


 どうして、今になってこんな夢を見る。

 別に、当時を想起させる出来事が起こったわけではない。わたしは閉じ込められていない。


「……あぁ、もしかして……」


 わたしの精神が、参っている証拠だとでも言うのか。そうなると心当たりがないわけでは、なかった。

 ストレスには心当たりがある。心当たりしかない。


「……とんでもない、ストレスだなぁ」


 正直、ここまでとは思っていなかったのだ。

 湊の代わりに、学校に通うこと。

 もちろん、慣れないことで緊張はするだろうし、ばれてはいけない常に油断できない状態になるだろうとは予想していた。

 だが、蓋を開ければそれだけではなかった。


 初めて水鳥の名を背負った。その名についてくるものを知った。

 失敗できない重圧、完璧な成績を取らなければならないがゆえの授業一つ一つの緊張、迫る試験はやり直しが効かない最たるものだ。


 今まで自分がいかに甘い環境にあったのか、実感しているようだった。


「湊……」


 湊は、ずっと、どのような心境でこなしてきたのだろう。

 慣れたもの? 余裕で?

 いや、きっと違う。湊に聞いたわけでもないし、謙弥がそう言ったわけでもない。

 だけど、おそらく、違う。

 彼も何らかの重圧を感じ、それでも過ごしていたはずだ。


 わたしにとって、湊は儚げで、可愛い弟にしか見えなかった。ふんわりとした笑顔の、可愛い弟。

 だから、あの彼の外での振る舞い方を聞き、写真を見て、驚いた。

 まるで、彼は仮面を被っているようだった。

 わたしが湊の振りで笑顔を浮かべているように、写真の中の彼は微笑んでいたけれど、外に向けているその笑顔は柔らかなれども、貼り付けられたようだった。

 湊は、作った微笑みを崩さずに浮かべながら、完璧であり続けた。それが当たり前であるように完璧に振る舞い、完璧な成績を取り続けていた。


 彼は、その重圧を感じることを避けられないながら、つきあい方を身につけたのだろうか。笑顔の仮面は、その方法だろうか。

 水鳥家の跡取りである彼は、これからどれほどの視線と、期待と、重圧を受け、生きていくのだろう。

 わたしは今、その途中を体験しているに過ぎないのに、いっぱいいっぱいだ。


 本家の命令に、最後に自分の声に出して従うと決めたのは、逆らえないと感じ、京介さんに迷惑がかかると思ったこともある。

 でも、湊が戻ってくるまで頑張ろうと思ったのだ。彼が帰ってきたときに、何事もなかったように戻る場所があるように。隙も穴もないままに。

 そう考えた。


 けれども、真っ暗な部屋の中、一人のわたしは、京介さんの声を聞きたくて仕方がなかった。

 そんな思いとは反対に、携帯電話の画面を切り、真っ暗にした。





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