身代わりと最後の先輩
完全に不意を突かれた。
弾かれたように顔を上げると、一人の女性がいた。長い、艶やかな黒髪に、緑の目をした美しい女性。
制服を身につけているからには、生徒だ。
いや、わたしはこの人を知っている。
「環奈、さん」
最上位貴族、森園家の若き当主。
写真より、数倍美しく見える彼女は、緑の目を見開いた。
「湊君」
わたしが俯いていたから、そうだとは思わなかったのだろうか。驚いたようだった。
互いに予想外のことに、数秒、固まっていた。
「あ、あの、ぐ、具合でも悪いの……? これ、良ければ使って」
「え、あぁ……ありがとうございます」
彼女はハンカチを差し出してくれた。反射的に受けとる。
薄いピンク色の、肌触りの良いハンカチだった。
「体育、外だったの、かしら。熱中症にでも、なった?」
「いえ……」
やけに具合悪い説を確信しているのは、なぜなのか。
……顔を上げる前の自分の体勢を、思い至った。
このハンカチは、汗をかいているように見えたのか、吐きそうに見えたのか。具合が悪そうに見えたことは間違いない。
わたしとて、完全に誰もいないと思っていて、今もいまいち状況が読めていない。
「そうですね、少し。誰もいないと思っていたので、恥ずかしいところを見られてしまいました」
読めていないながらも、笑顔を作る。
本当に、誰もいないと思っていたのに。
「わたし、ベッドの方にいたのだけれど、さっき……ごめんなさい」
森園環奈は、俯きがちに、微かな声で言った。
どうして謝るのか。気がつかなかったのは、わたしだ。
「ベッドに……って、環奈さんの方こそ具合が悪いんですか?」
「す、少し気分が悪くなって……それ、だけ……」
声は、最後には消えていった。
何か、いけないことでも聞いてしまった感じがした。けれど、それ以上何を言えばいいか言葉が見つからなかった。
目の前にいる彼女も、合いかけた目を逸らし、沈黙が流れる。
森園環奈は、この学園に通う三年生だ。
湊、月城聡士、白羽悠と、ここに通う最上位貴族の内の、最後の一人。
高校三年生、十七歳にして当主をしている。だが、彼女が当主になったのは最近ではない。
──「現在も残る
月城聡士も言っていた七年前、森園家の直系の血筋は彼女以外絶えた。絶えさせられた。
今の王が玉座につくことを手伝い、現在最も大きな力を持つ白羽家と、何がきっかけだっかは知らないが、表立って森園家は対立した。
その後、森園家夫妻は暗殺され、亡くなった。出来事自体は、暗殺者の行方は今も知れず、何者の仕業か分かっていないとされている。
七年前、わずか十歳にして、目の前にいる彼女は実質当主となった。本来成人しなければ当主権はないようだから、正式な書類上は今も誰かが代理となっているだろうが……。
わたしが立って並べば、わたしより少し高いくらいの背丈だろう。
それなのに、彼女はとても小さく見えた。目線は下がり、長い髪が顔に陰を作る。存在が、小さく見えた。
「湊様」
謙弥が出ていってから数分。
彼が戻ってきた。扉が開いた音に、森園環奈がびくりとした。
「──森園様」
「わ、わたし、戻るわ」
彼女は、ぱたぱたと医務室から出ていってしまった。
「何か、ありましたか」
「いや、全く、何も」
黒髪が消えていった先から、視線を、手元に落とす。
「……ハンカチ……」
ハンカチ、受け取ったままだった。
「先生はすぐに来ます。頭の痛みはどうですか?」
「ましになってきた気がする」
たぶん。
「あの様子ではそれなりの威力があったかと思います。病院に行きましょう」
「いや、そこまでじゃ」
「念のためです」
病院行きが決まり、こういう些細なことで病院行きにならないためにも、気をつけなければならないと思い直した。
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