身代わりと体育






 連休はあっという間に過ぎ去っていった。

 わたしは、『湊』として、一筋足りとも気を抜いてはいけない学校生活に戻った。


 一度家に帰ると、学校生活が少しやりにくく感じた。やりにくく、と言うより、これは苦痛か。

 家に帰って、京介さんや修さんと過ごして、ほっとした。体と気持ちが緩んだ実感があった。


「……」


 不安だった。

 学校生活に戻り、一週間。

 毎日夜も勉強をする。瞼は重いが、眠くはない。

 ひたすらに、問題を解き続ける。復習はもう何度もした。理解もした。普通に臨めば、わたしは試験で満点も狙える。


 問題は、狙える、では駄目なことだった。


 中学までの湊の成績を見た。彼の成績は、優秀の一言に尽きるものだった。

 試験は当然のように毎回満点。小テストも、何もかも、一点足りとも落としたことがない。


 そして、湊を演じるということは、つまり、私もそうしなければならないということだった。

 満点が狙える状態ではなく、満点が確実に取れなければならない。

 どれだけ勉強しても、不安が消えなかった。

 果たしてわたしは試験で満点が取れるのか。勉強出来る時間に勉強しない間に、一つ知識を取り零してしまうと、取り損ねてしまうのではないか、と。


「……大丈夫」


 わたしは大丈夫。やれる。普通にやれば、出来る。心配ない。




 *




 体育は、週に一度のみある。

 授業内容は、全員共通のものもあれば、選択制でスポーツを行うときもある。


 カキーン


 高い音が鳴り、わたしは空を見上げた。空はよく晴れ、太陽が眩しい。

 太陽の光にくらりとなりそうになりながらも、目を凝らす。微妙に位置を調整し、左手を挙げる。

 乾いた音を立てて、ボールがグローブの中に収まった。


 遠く、別の種目をしているはずだが、時間が空いているのか見学している女子の声が聞こえた。


「水鳥様ナイスっす!」


 はっきり聞こえた声は横からで、センターを守っている鳴上なるかみ千里が、太陽顔負けの眩しい笑顔で、ぐっと親指を立てた。


 それにとりあえずの標準装備の笑顔を向けて、ちょうど交代となったため、自陣へ戻っていく。

 わたしの選択体育は、現在野球だった。

 どういった経緯でそう決めてしまったのかは覚えていないが、経験したことがないものよりはましだろう。


「それにしても、水鳥様、意外と上手いですね。スポーツも万能ですか」


 戻ってベンチに座り、試合の流れを見守る最中、隣に座った鳴上千里に話しかけられる。

 彼は、大変明るい人柄で、よく喋る。


「特別得意というわけではないけれど」

「まったまたー謙遜ですよ。捕るし、打っても意外と飛ばしますよね」

「捕ると言っても、さっきのフライだけだ。意外と飛ぶのは、意外と飛ばせるときにバットにボールを当てているだけだ」


 謙弥に差し出されたペットボトルを受け取り、水分を摂りながら答えておく。

 野球は少しだけやったことがある。京介さんや、修さんを始め京介さんに仕えている人たちとした。

 十分な敷地はあった。野球だけでなく、テニスとか。


「……それ、結構な技術っすよ。どっちにしても、天才なんだなぁ……」


 鳴上千里が、はきはきした声ではなく、小さな声でぼそぼそ何か言った。

 独り言だろう。拾わなくても良いものだと判断した。


 それより、話が途切れたタイミングで少し気になっていたことがあって、何となく尋ねる。


「鳴上君」

「お、どうぞ千里で」

「……千里君は」

「どうぞ呼び捨てで」


 「聡士様が呼び捨てなのに、おれが『君』は気が引けるんでー」と言われて、そうか、と頷いておく。

 そして、やっと尋ねる。


「千里は、聡士と一緒じゃないのか」


 なぜここに鳴上千里がいるのか、という理由の一つは、選択体育が複数クラスの合同だからだ。

 それで、わたしのクラスと、月城聡士と彼の従者である鳴上千里のクラスが同じ体育の時間なのだ。今さらだが、やはり故意にだろう、月城聡士も従者と同じクラスだった。


 しかし、現在のわたしの素朴な疑問はというと。

 わたしと同じ選択に、湊の従者である謙弥が当然のようについてきたのに対し、鳴上千里がいる野球に月城聡士はいない。


「聡士は」

「聡士様、サッカー選択なんです」


 まさか欠席かとでも思っていたら、違った。違う選択らしい。


「……一緒の選択じゃないのか?」


 従者ってそういうものではないのか。

 と、言うと、鳴上千里は肩をすくめる動作をする。


「サッカーってずっと走りっぱなしじゃないですか。絶対他のスポーツより、倍疲れると思うんですよ」


 確かに。


「おれ、嫌だったんです。野球の方が好きだし。本当はどこでもいつでも一緒っていうのが理想で望ましいんでしょうけど。でもですね、聡士様がただでさえ勉強っていう堅苦しくて嫌な時間の方が多いんだから、体育くらい好きなことやれって」

「なるほど……」


 言いそうだな、と、かなりしっくりきた。


 連休明けからも、月城聡士に会う日々が戻ってきていた。

 連休前からの付き合いだ。そろそろ彼の人となりが分かってきていた。


 こんな形もあるのか、と彼ら主従を見ていると、思うことがある。

 主従と言うには、どこか親しげで遠慮のない関係。彼らの付き合いの長さと、性格によるのだろうか。

 京介さんと修さんも、息がぴったりで、遠慮のないやり取りを見ることがある。


 ちら、と傍らにいる謙弥を見てみた。

 真面目な横顔。笑ったところはそれほど見たことがない、口調も行動も生真面目な従者。

 湊と彼がどうであったかは知らないが、自分が親しげになれることはないのだろう。二ヶ月経つか、経たないかくらいの付き合いだ。


 目をグラウンドに戻すと、チームの攻撃はそこそこ順調のようだった。

 ワンアウト、二塁。

 ああ、次の次、わたしか。


「行ってくる」

「はい」


 打者が三振して、アウト追加。

 回ってくるかどうかは分からないが、次の打者がバッターボックスに入ったのを見ながら、ベンチから立ち上がる。

 立った瞬間、わずかに立ちくらみがした。

 とっさに足を止め、収まってから、歩きはじめる。


 バットとヘルメットを持ち、屋根のある場所から、出る。


「あ!」


 と、同じとき、声がした。


 そして、わたしが地面を見た頭を上げる前だった。

 衝撃が、頭に襲いかかった。


「──!」


 地面にうずくまりそうになったところを、バットをついて、持ちこたえた。


「──湊様! 大丈夫ですか!」


 謙弥だ。

 膝をつき、わたしの様子を窺う彼が見え、答えようとする前に、周りがあっという間に騒がしくなる。


「水鳥様!」

「こ、氷、何か冷やすもの!!」


 わたしが顔を上げたときには、周りに人が集まっていた。

 ベンチから出てきた同じチームの生徒、守りにグラウンドに出ていた相手チームの生徒。

 全員焦った表情をしていたが、


「み、水鳥様、すみません!!」


 一番青ざめた顔をしていた生徒は、バッターボックスに立っていたはずの、わたしの前の打順の生徒だ。

 なぜ、彼が謝るのか。


 ガンガンとある一部分が異様に痛む頭部を感じながら思っていると、転がるボールを見つけた。

 ……もしかして、ファウルボールが当たったのか?


「問題ない。大したことはないから、そんなに謝らないでくれないか」


 湊がいつでも浮かべていたという微笑みを唇に乗せ、わたしは笑う。

 けれど、わたしに当たったボールを打ったらしき生徒は深く頭を下げ、謝る。


 既視感がする。

 新入生歓迎パーティーのとき、一階に落ちたあとも、こうして謝られた。どれほど、この頭を見ただろう。


「湊様、大丈夫ですか」


 囁くような抑えめの声がした。

 はっとすると、いつもの倍真剣な顔の謙弥がわたしを覗き込んでいた。


「大丈夫だ」

「ひ、ひとまず医務室に行きましょう」


 審判の一人をしていた教師までもが側にきていた。血相を変えている。

 気がつけば、完全に試合は止まっていた。


 ……まったく、迷惑な生徒だろう。

 自分のことながら、ため息が出そうになった。もちろん、出すことはない。

 代わりに微笑んで、教師に言う。


「試合を続けていてください。私が抜けてしまって申し訳ありませんが、一度医務室にだけ行ってきます」


 頭が依然ガンガンする。続行するのは、キツそうだった。


 微笑みで通し、その場を後にした。謙弥がついてきて、二人抜けたが、試合は大丈夫か。


 授業中、歩く校舎内は静まり返っていた。

 教室の近くであれば、教師の声やチョークの音が聞こえたかもしれないが、あいにく医務室があるのは全く異なる場所だ。


「おかしいですね、先生が一人もいません」


 ノックして、先に医務室の中を目にした謙弥が振り返った。


「職員室を見てきます。湊様は、中でお座りになって待っていてください。すぐに戻ります」

「ありがとう、謙弥」


 一礼し、謙弥は走って職員室の方へ向かって行った。廊下は走ってはいけない。

 言葉に甘え残ったわたしは、のろのろと医務室に入り、椅子に座る。

 頭が痛い。ズキズキと、一定のリズムを刻んで痛みを与えてくる。


「……どれくらいのことに気をつけていればいいんだろう……」


 ボールがぶつかっただけで、あの騒ぎ。

 誰もが血相を変えていた。


 普段最上位貴族としての振る舞いをし、良い成績を取る。それだけに注意していればいいかと思えば、不慮の事故にも気をつけなければ、こうなるときた。


 ふう、とため息をついた。

 心なしか、体が重い。怠い。頭が痛い。瞼が重い。このまま目を閉じれば、眠れてしまうのではないのだろうか。

 ふっ、と体の力を抜き、前のめりに項垂れた。謙弥が戻ってくるまで、ほんの少しだけと、顔を覆う。


「……大丈夫?」


 透明感のある綺麗な声は、とても、とても小さかった。








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