『父』と過去
白い煙が、ゆらゆらと宙に漂う。
「京介様、吸いすぎですよ」
「……ああ」
指摘されて、京介は煙草を灰皿に押しつけた。
代わりに、たった今テーブルに置かれたお茶に口をつける。
「志乃様がお帰りになってきたのにも関わらず、煙草の量は減りませんでしたね」
「そうだな」
「折角ずっと休みなのに、構ってもらえないからですか」
ちらりと見ると、長い付き合いの男は微笑む。
「『構ってもらえない』なんて、子どもじゃあるまい。……そうじゃない」
四連休。寮に入り、学校に通っている
ゆっくり休ませるつもりだったが、志乃は完全には休み切れていないようだった。
教科書類を持って帰って来たのはいい。勉強をするのも、分かる。
だが、根を詰めすぎているように思える。
単なる、これまでと環境の変化によるもののみでなく、雰囲気から、何かに追われているような様子を感じる。
「休ませられないものか」
「以前までも、勉強の時間はございましたよ?」
「問題は必要以上にやりすぎだってことだ。志乃は頭がいい。あんなにしなくとも、試験は余裕、成績もトップを取れる」
贔屓目なしの事実だ。
今、志乃は自分の部屋に篭っている。
せめて勉強するなら昼間にしろと言ったためだが……果たして、夜中、素直に寝ているかどうか。
「不安、か」
大丈夫だと言われたときのことを思い出し、京介は目を閉じた。
約二ヶ月前、京介は、突如兄──水鳥家当主から用事を言いつけられ、家を空けた。
その間に、『娘』が本家の人間により、連れて行かれた。
本家に駆けつけ、強行突破して志乃の元へ行くことができたが、志乃は。
大丈夫、湊が帰ってくるまで代わりをしてくる、と言ったのだ。
怯え、声が出せないようなら、問答無用で連れ出してくるつもりで行った。
だが、そうではなかった。
弟が意識不明だと聞いて、下がろうとする娘ではなかった。
湊のために、と、『身代わり』という役目を請け負った。
確かに、本家の命令であれば、最終的に従わなければならなかったことかもしれない。
本気で逆らう気がなければ。
──水鳥京介は、水鳥家のものではなく自分の会社を経営しているが、水鳥家の名字を使用しているように、水鳥家と袂を別っているわけではない。
だが。
今より十五年ほど前、水鳥家に双子が生まれた。
一人は男子、一人は女子。
湊と志乃だ。
しかし、双子という特性上により、異能を継がなかった方の赤子は『無能』として、いない者とされた。
戸籍もなかった。生まれなかった者とされたのだから。
弟と同じ環境を与えられず、名前さえ与えられなかった。
育成は放棄されなかったが、離れの部屋に閉じ込められ、必要最低限に育てられた状態。光ある未来は、ないに等しかった。
当時、京介はあまりのことに兄に反発した。なぜ赤子に名前も与えず、いない者とし、閉じ込める。人としての最低限さえ与えてやらない。
あれではあの子は、誰と言葉を交わすこともなく、何をするために生きればいい。
そんな京介に、兄はこう言った。──「捨てないだけでも、温情だと思わんか。役に立たないと分かる子どもを」
京介は、絶句した。
それはそちらの言い分だ。子どもには関係がない、理不尽な言い分だ。それなら、自分が引き取る。
しかし、ここでも兄は、子どもを自分の子だとも思わず、役立たずだと言うくせに、言った。
──「お前は、あれを『お前の子』として育てるつもりだろう。それはあってはならない。水鳥家にあのような子どもがあってはならない。その名を背負わせることは許さぬ」と。
それでも、五年の粘りの結果、幾つかの条件により引き取ることができた。
あの日のことを忘れることはない。
いつも、食事のとき以外は鍵がかけられた部屋の中、真っ暗な中、年のわりに小さな子どもがいた。
よれた衣服を身に付けた子どもは、隅の方にうずくまっていた。
京介が側に行って、声をかけて、やっと上げられた顔は伸びっぱなしの髪でろくに見えなかった。
辛うじて、髪の間から京介を見上げた瞳は水鳥家の紺碧色を継いでいたが、光はなくやけに暗い色味に見えた。
顔立ちは、弟である湊に似ていた。痩せすぎて、やつれていても、それは分かった。
だからこそ、やりきれなくなった。
なぜ、こんなにも違わなければならないのか。異能など、日常生活に必要なものではない。それなのに。
小さくて、今にも消えてしまいそうな子を、抱き締めた。抱き締めると、よりその小ささを感じた。
志乃、と名をつけた子どもは、最初は喋ることもままらなかった。言葉を知らなかったのだ。
最低限に彼女の世話をしてきた使用人すら、子どもに話しかけることはなかったからだ。
弟とは五年遅れでようやく秘密裏に戸籍を作り、自分の娘とした。
これは意地だった。どこからか耳に入れられたらしく、咎めてきた兄には、表に出さなければいいのだろうと、決して譲らなかった。
元々の条件の中に、決して表に出さないというものがあったのだ。
一生、表に出すな。決して水鳥家の子どもだと外部の者に知られるな。無能だと知られるな。
その誓いの元、表には出さないまま育ててきた。戸籍を作れど、表に出ず姿を見なければ、外部の人間は誰も「その子ども」がいることさえ知る機会もない。
それで良いのかもしれないと、時が経つにつれ思うようになった。
水鳥家の者であるのに、能力がないまま外に出て知られれば、世の中の視線に晒されることになる。
そうであれば、この家で笑っている姿を見ていると、これで良いのだと、京介は思うようになっていた。
この穏やかさと、平和があれば──。
あれば。
「志乃が戻ってきた今なら、全力逃亡出来るな」
何気なく、京介は呟いた。
──「くれぐれも、その子どもを連れて姿を眩ませるなどとはお考えのないよう」
本家を出る際、言われたことだ。
あの瞬間、やってやろうかと怒りが芽生えた。
都合のいいように志乃を使い、何のつもりだ。志乃は道具ではない。双子だと認めなかったのにも関わらず、双子ゆえの容姿を今さら引っ張り出して。
「致しますか」
「やるなと言われると、やりたくなるな」
いいや、嘘だ。やるなと言われたからではない。
「……いっそ、嫌だって言ってくれたらな」
こんなことはやりたくないと、志乃が言えば、京介は迷いなく行動に出るだろう。
次男として、水鳥家の一員としているのが当然で、兄との考えのずれがあっても従ってきた。
だが、約十年前、京介には守るべきものが出来た。京介は水鳥と決別することも出来るだろう。
ただ、今、足を踏み出すわけにはいかず、立ち止まり見ていることしか出来ないのは。
「言わせられないのも、俺の力量か」
志乃が自分で声にして、引き受けると言ったのは、湊のため。
最初はそうだとしても、今、無理をしているように見えて、それでも弱音を吐かないのも湊のためか。
あるいは、どうせ止めるわけにはいかないことだと思っているのか。
ここで、京介が水鳥家を捨て、娘と逃げることは出来る。
だが、その先に幸福があるかどうかは分からないのだ。娘が、幸福と思うか。
志乃は、水鳥家を離れたのは、自分のせいだと思うだろう。そういう性格だ。それに、水鳥家を離れれば、湊の状況を案じるだろう。
だからこそ、心配だ。
「こんなことになるとはな……」
娘に限界が来ないように。そうなる前に事が終わるか、悟ってほしいと願うのみ。
今、どうすれば一番いいのか、京介には分からなかった。
「出来ることを、やるしかない、か」
なぜ、ひっそりとした暮らしを築いていたのに、その平穏さえ許されず、壊されなければならないのか。
逆らえない理不尽に、京介は無意識に煙草を取り出した。
「京介様」
「禁煙は諦める。無理だ」
学校で襲われた件など本家に話を入れているが、こちらに直接の対応を許さないくせに、何の対応もする気配がない。
苛立ちが燻る。久々に新たな不振感が生じ、増幅していく。
「……兄さん、あんた、何を考えているんだ」
いつまで黙りを通す。
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