身代わりと休暇初日
四連休初日、他の生徒が嬉しそうな会話をしている横を通りすぎ、車に乗り込んだ。
静かに走り出した車が走り、首都を離れていく。
水鳥家の本家は、首都の外にある。首都内にも邸を持っているようだが、領地として与えられている広大な土地は、王族直轄の首都とは別にあるからだ。
他の最上位貴族もそうで、ゆえに、中学まではその地にある学校に通うことになっている。
そして、着いた。
塀で囲まれ、ただ一つの門から入ることのできる敷地内の最奥にそびえ立つ邸。
来るのは、それほどぶりではない。
湊と身代わりとなるとき、連れて来られた。湊として過ごすためのわたしの準備は、全てここですることになったのだから。
思えば、わたしの戦いは、学園に入学してから始まったのではなかったのかもしれない。
足を踏み入れるだけで重い気分がのし掛かってくるこの場所で、それを無視しながらも準備していたあの期間も、同様に戦っていたのかも。
そう思うのは、学園ではなく、完全に水鳥家の領域である本家に入ってもなお、気持ちが緩むことがないからだろう。
学園から出て来て、湊の格好のまま本家に入ると、一人でとある一室に通された。
息苦しくなりそうになった。
その部屋は、わたしが湊に成り代わるための準備期間にずっといた部屋であり──。
机と椅子、今は何も入っていない棚。そんな簡素な部屋の椅子に、一人座る。謙弥はいない。
案内をしてきた男性が去れば、一人、静寂の中に取り残される。
何をしろとも言われず、座り、ぼんやりとする。見た扉に、鍵がかかっているのだろうか、と思った。
時計はなくて、どれほど時間が経った頃か。
わたしはずっと座って、何を待つでもなく、ただ座っていた。
四連休、こうなのだろうか。それなら、せめて勉強道具でも……。
「志乃」
名を、呼ばれた。
わたしの名前。ここのところは、電話越しで聞いていた声で呼ばれた。
はっと顔を上げると、気がつかない内に扉が開いていて、
「……京介さん」
わたしの最も信用する人が立っていた。
黒い髪に紺碧色の眼を持つ人。仕事に外に出かけるときのように隙のないスーツ姿の彼は、すらりと背が高い。
「京介様、失礼ですがここではその名をお出しになされませんよう。今、この邸には」
「『湊』だろ。そのわりに湊の部屋を使わずに、こんな部屋を使う時点で矛盾している。やるなら完璧にしてから言え。──この先は勝手にさせてもらう、出ろ」
京介さんは、本家仕えを示す記章をした男性を、有無を言わせない口調で追い出した。
扉が閉まってから、彼はわたしに向き直り、距離を縮めてくる。
そして、わたしを抱き締めた。
「久しぶりだな」
「……うん」
抱き締められて、すごくほっとした。
どれだけ自分が気を張っていたか、分かった気がした。自分からも顔を埋めて、何でかもうどこにも行きたくない心地がしたから。
でも、顔を押し付けるだけに留めておいた。抱きついたら、すがりついて、子どものように離れなくなりそうだったから。
明確な理由は自分でも分からないけど、そんな気がした。
「京介さん、
顔を押し付けたスーツから、煙のにおいがして、ちょっと上を見て尋ねた。
すると京介さんが、「あー……」と、少し苦笑いした。
「愛娘が家からいなくなって寂しくて、再発しちまった」
「わたしを言い訳にするの?」
「悪い悪い。そういうつもりじゃない。ただ、寂しくなったのは本当だ」
煙草が再発したらしい京介さんは、大きな手でわたしの頭を撫でた。優しく、ゆっくりと。
「だから、さっさと帰るぞ」
帰るぞ、という言葉が驚くほど身に染みた。
「わたし、帰っていいの?」
「当たり前だ。四連休だろ?」
「うん」
京介さんは、当然のように言った。最後に頭を一撫でし、彼は背後を見やった。
「とりあえず、着替えろ。
京介さんの後ろに静かに控えていたらしい修さんが、進み出てきた。
「
「お久しぶりでございます」
全身きっちりと完璧な装いの修さんの姿も、随分久しぶりに見た感じがした。
「早速ですが、こちらにお着替え下さい」
一礼した彼は、わたしに何かを差し出した。
着替える、ということは服のようだ。
「一応、ここにいる限り『湊』だからな。ここから家に帰るには注意する必要がある」
ああ、なるほど。
理解したわたしは、京介さんと修さんが出ていった部屋で、着替えることした。
制服を脱ぎ、渡された衣服を身に付ける。修さんが着ているような、白いシャツに黒い上下の、シンプルなデザインのスーツだった。
なるほど、カモフラージュにはぴったりだ。
作り的には制服と変わらないため、難なく着替え、部屋を出る。
「帰るか」
壁にもたれていた京介さんに促され、わたしは頷いて彼と一緒に歩き始める。
隣を歩くことが、嬉しく感じた。
歩く廊下は、人気がない。
「あ」
「どうした」
わたしが思ったことがあって立ち止まると、京介さんも止まって、覗き込むように首を傾げる。
「荷物──教科書とか、持って帰れるかな?」
「教科書? 折角の連休だ、勉強なんて忘れておけばいい」
京介さんはそう言ったけれど。
「連休が明けると、試験が近いから」
わたしは微かに微笑んで、こう言うしかない。
京介さんは何か言いたげにして、でも、わたしには何も言わずに修さんを見た。
「承知致しました。先に車にお乗りになっておいて下さい。すぐに追いつきます」
修さんは一礼し、先に廊下を進んでいった。
それを見送っていると、頭に手を乗せられ、「行くぞ」と歩みを促された。
それからも人のいない廊下を進むと、玄関に来てようやく人と会った。
本家の人間だ。記章ですぐに分かる。
わたしは京介さんと歩いていることで、思わず彼に隠れるようにしてしまったけれど、京介さんは彼らがいないような素振りで悠々と扉に歩いていく。
すれ違い、扉から外に出る、直前。
「くれぐれも、その子どもを連れて姿を眩ませるなどとはお考えのないよう」
そんな言葉が向けられたと同時、京介さんが足を止めた。
背を押され、先に外に出されたわたしが振り返ると、
「いい加減にしておけよ」
低い声が、言った。
わたしに背を向け、邸の中に向いている彼がどのような顔をしているかは窺うことができない。
「誰に言ってる」
ただ、その背中と声、雰囲気だけで、怒りが伝わってきた。
彼の周囲から、どこからともなく、風が巻き起こる。ぶわっ、と。邸の中にいる者の間を駆け巡り、威嚇するような鋭い風。
──これこそが、水鳥家の異能だった
京介さんの声音と、異能を感じ取った本家の人々はさすがに表情を強張らせた。
「ご、誤解なきよう。これは、当主からの伝言でございます」
「それでも同じ言葉を返してやる。念押しが過ぎると、飽きる」
京介さんが、風の刃で何かするのではないかという危機感を抱いたその空気だっだが、いとも簡単に破る者が現れた。
「おや、京介様。何をなさっておられますか」
「修」
一旦別れた修さんが、本家の人々の後ろから歩いてきた。
「帰り際に一度言い方を注意しておこうと思っただけだ」
「そうですか。それは仕方がないですね。私が先に車にお連れした方が良いですか?」
「いいや。済んだ。それで、教科書類は?」
こちらに、と修さんが横に退いて、わたしは目を丸くする。
「謙弥」
謙弥が、立っていたのである。
わたしの──いや、『湊』の鞄を持ち、進み出てきた。
鞄を渡してくれるのだろうか。わたしは手を伸ばした。
「どうか、しっかり休んでください」
けれど、鞄は手には渡って来ず、小さな言葉だけが伝わってきた。
そのまま謙弥は離れて、鞄は結局修さんの手に渡された。
「……謙弥」
修さんと違って、真面目な顔からめったに表情を動かさない彼は、やはりその顔のままで下がっていった。
そうしてわたしは、水鳥家本家を後にした。
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