縄持つ女王

音水薫

第1話

 縄を持っている女がいた。

 学生がディスカッションしたり、昼食を楽しんだりしているなかで、その女、今邑葉留先輩の存在は明らかに浮いていた。机に腰掛け、縄を波打たせる。その縄の先は僕の首に巻きつけられていた。先輩が何かをするたび、喉が擦れて熱い痛みが走った。

 僕たちは先輩の卒業制作に協力していた。映画のワンシーンに使うという話だが、ゲリラ撮影ということもあって、事情を知らないギャラリーの視線が刺さる。期末レポートで忙しい時期ということもあり、学生の姿が少ないことがせめてもの救いだった。

 僕は痛みを我慢して、先輩と背格好がよく似たクラスメイトの手を引いてゆっくり歩いた。彼女は目隠しされており、及び腰で慎重に歩を進めていた。大学構内のカフェはテーブルの配置に規則性がないため、視覚を遮られているとなにかと不安なはずだ。僕と彼女は普段から会話を交わすほど仲がいいわけではない。彼女からしてみれば、僕は身体を預けられるほど信用できる人間ではないのだろう。何度やりなおしても、彼女の歩みが改善されることはなかった。

 こんなにも頑張っているというのに、映画の中では顔を上書きされ、CG処理されて彼女の存在は抹消される。役名さえもらえない、哀れな少女。

 彼女が前傾姿勢になるたび、涼しげな格好のせいで胸元がちらつく。シャツの丸襟から見える範囲は限られており、谷間があるということが確認できる程度だった。

背の高さも胸の大きさも先輩によく似ているけれど、彼女の顔は劣化品。白く整った先輩と違い、彼女は歯並びが悪い。もし、彼女の一重まぶたが目隠しによって隠されていなければ、僕は不愉快で撮影を投げ出していたと思う。

 とはいえ、僕の本心がどうであろうと先輩は、鼻の下を伸ばしていた、みたいなことを言って僕を責めるだろう。

「カット」

 僕はその声を耳にしたのと同時に、首の縄を強く引っ張られて尻もちをついた。突然手を離された少女は戸惑ったように空中に手を這わせ、僕を探していた。一応当てにはしてくれていたようだ。

 先輩はこちらに近づいてきて、持っていた縄の端で少女の手を鋭く叩き、目隠しを上にずらした。

「少し休憩」

 そう言って少女を椅子に突き飛ばした。少女は叩かれて赤くなった右手の甲を触り、椅子に座って先輩を見上げていた。不満を訴えているというよりは、いきなり痛みを与えた理由を求めている、といった目つきだった。

「来なさい、明」

 縄を手放した先輩は僕の手を引き、少し離れた席に向かった。そのテーブルにはメイクボックスと鏡が置かれていた。どれも先輩の私物であり、何度も目にしたことがあるものだった。

 先輩が鏡の白いふたを開いて立てると、そこに僕がうつった。

「さっきから、あいつの胸ばかり見ていたでしょう」

 先輩は僕の肩を手で押さえ、鏡の中を覗きこんだ。僕たちは鏡越しに見つめあう。

「あいつの肌は皮膚炎で荒れてるから、見ちゃ駄目。わかった?」

 片手を僕の頭に置いた先輩は、もう片方の手でメイクボックスを引き寄せた。

「やっぱり、女の子同士のほうが映えるかもね」

 彼女は口紅の表面をリップブラシで撫で、それを僕の唇に塗った。

「間接キスね。私とよ」

 淡い色のルージュを乗せた僕が鏡にうつる。色を落としてしまわないように軽く指で触れてみると、僕の頬にも微かに赤みが差した。先輩は片腕を僕に絡めて手を握り、肩に顎を乗せるようにして鏡を見た。

「似合ってるわ、アキちゃん」

 彼女は愉快そうな声で、にやつきながら僕を蔑んでいた。

「嬉しいんでしょう? 女装させられて。変態ね」

 僕の首筋に顔を寄せ、深く息を吸い込んだ。それからため息のように吐き出された吐息が焼けるように熱い。何度かその行為が繰り返される。

「汗臭い。興奮してるの?」

 先輩は顔を離し、鏡越しに僕の目を捉え、うしろに回って僕の肩を指でなぞった。その指が頸動脈をつたって耳の裏を通る。上まで登り切った先輩の手が頭皮マッサージでもするかのように、僕の頭を挟みこんだ。

「そういうあなたの性癖を知っているのは私だけ」

 頭をわしづかみにした手に力がこめられる。頭蓋骨がきりきりと締めつけられて、滲みだすように痛みが生まれる。

「変態のあなたを受け入れてくれる人も私だけ。それは理解できてる?」

 僕が首肯すると、先輩の力が弱くなってきた。

「だったら、私の言うことをちゃんと聞きなさい」

 僕がうなずくと、先輩の手は頭から首に位置を変えた。

「今邑。早く終わらせないと事務員来るって」

「わかってる。少し待って」

 先輩はカメラマンの呼び掛けに苛立たしげな返事で応え、僕から手を離した。

「痛くしてごめんね」

 彼女は僕にそう耳打ちすると、目隠し少女のほうに歩いていった。

 先輩が触れていたところに手を置いた。ほかの部位に比べて温度が高い。彼女の熱がうつったのかもしれない。

 いまさら、女装だけで興奮しない。もし、僕が欲情していたのだとしたら、それは先輩が僕の思ったとおりの反応をしてくれたからだろう。

 先輩は明らかに僕を支配しようとしている。まわりの人から見ても、僕たちの上下関係は明白だ。

 けれど、少なくとも僕は先輩に支配されているつもりはない。むしろ、僕のほうが上の立場にいるつもりだ。

 先輩はサディストだし、僕はマゾヒストで間違いない。しかし、必ずしもサディストが支配者ではない。

暴力を振るうことで相手をいいなりにするのではない。殴らせることで繋ぎとめるのだ。彼女に、僕を痛めつけて言うことを聞かせよう、折檻をしなくては、と思わせる状況を僕が作りだす。

 ことを終えた彼女は罪悪感に苛まれているだろう。その感情こそ僕が支配者である証。僕に申し訳ないと思えば思うほど、彼女は僕から離れられない。先輩自身はそんなことに気づいてもいないだろうけれど。

 さて、僕はもっと先輩を怒らせてみたくなった。公衆の面前で、みっともなく喚き散らして掴みかかってくるほどの怒りが見たい。きっと、スタッフたちが先輩を羽交絞めにして止めるだろう。それでも暴れ続けてくれたら、なおいい。

「設定変更。手を拘束するから、うしろにまわして」

 先輩は少女に有無を言わさず、持っていた自身のハンカチで少女の両手を束ねた。

「すいか割りするみたいに、明の声を頼りに歩きなさい」

 先輩は少女に目隠しを着けた。去り際に彼女のつま先を踵で踏み、僕のほうに戻ってきた。

「行きなさい。撮影再開よ」

 彼女は僕の首に縄をかけ、背中を押した。

 僕は歩きながら、通行の邪魔になっている椅子を片づけ、少女に声をかけた。

「伊吹くん? 大丈夫だけれど、少し怖いかな」

 胸にかかっていた少女の横髪に触れ、それをうしろにまわした。

 先輩を怒らせるのは簡単だ。ただこの劣化品に優しくすればいい。それだけで十分だった。先輩の好みは、自分にだけ優しい人、だから。

 離れたテーブルに座っていた先輩は縄を波打たせ、僕の背中を叩いた。余計なことはしなくていい、と言いたいらしい。

 僕は少女の耳元に手を持っていって、吐息がかかるほど近づいてから囁いた。

「怖がらなくていいよ。僕の声を聞いて、ゆっくり歩くんだ」

 喉が強く絞められ、僕はまた尻もちをつきそうになった。けれど、僕はそれに抵抗して、少女から離れなかった。

 もう少し、もう少し。

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縄持つ女王 音水薫 @k-otomiju

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