第6話

 意識が浮上して目が覚めました。うっすらと目を開けたら母の顔が目に入り、心配そうな顔から嬉しそうな顔に変わったのです。


「アイリス! 目が覚めたのね!」


 嬉しそうにそう言った母に、私はどうしてここにいるのでしょうと考え、そういえばユリウス様に掴まれた腕の痛みに耐えきれず、気を失ったことを思い出しました。


「アイリス、喉は渇いていないかしら? 美味しいお水があるのだけれど、どう?」


 そう話しかけてくださった母にひどく喉が渇いている感じがして素直に頷けば、それを見た母は近寄って来たナナイ様と場所を代わり、私の身体を起こしてくださいました。手に持っていたグラスの中身は透明で、水だとわかります。

 それをナナイ様は私の唇に当てるとゆっくりと飲ませてくださいました。その水がとても美味しくて、一口飲むごとになんだか身体が軽くなって行く気がするのはどうしてなのでしょうと首を傾げます。


「お母様の仰る通り、本当に美味しい水ね。なんだか身体が軽くなって行くみたい……」

「もう一杯どうかしら?」

「いただきます」


 ナナイ様がまた水を勧めてくれましたので、頷いてまた飲み干し、さすがにもう飲みきれなかったので「もういいです。ありがとうございます」と断るとまた寝かせてくださいました。一体どんな魔法を使ったのでしょう……水を飲んだだけだというのに、ここ数年つらくて怠かった身体がとても軽くなった気がします。


(ここはどこなのかしら……)


 そう思って部屋の中を見回せば、記憶の片隅に引っかかるものがありました。それは、私が侯爵家にいたころ過ごしていた私の部屋で、それを確認しながら部屋の中を見れば、家族たちと私付きのメイドだったタニアと執事のオリバーと……そしてユリウス様を見つけて驚きました。母とタニア、オリバーに至っては泣いていました。


「ユ、リウス、様……?」


 どうして彼がここにいるのでしょう? それがわからなくて呆然と彼を見ていたら、ユリウス様は嬉しそうな切なそうな顔をして私に近づいて来ました。


「すまなかった、アイリス嬢。痛かったでしょう? それにひどい言葉も……」


 それは遥か昔に聞いた、ユリウス様の優しいお声。痛ましそうに、そして後悔するように顔を顰めたユリウス様は、腕に巻かれている包帯に指先を伸ばして撫でました。

 彼の優しさは今も変わらないのだと思うと、彼を安心させたくてつい「大丈夫ですよ」と頬を緩め、許してしまいます。


 ユリウス様は昔からそうでした。

 マナーを勉強中だった時も、ダンスのレッスンの時も、家庭教師に勉強を教わっている時も。

 どんな時も、失敗しても、間違えても、答えがわからなくても。

 落ち込んでいる私にユリウス様はそれを叱ることなく、何が悪かったのか、どこが悪かったのか、わかりやすく説明してくださったうえで一緒に勉強などをしてくださいました。

 私を膝の上に乗せ、「文字の勉強だよ」と仰って絵本を読んでくださったこともあります。

 だからこそ、ユリウス様に恥をかかせないよう、彼の隣に立つことが相応しくあるよう努力して来たのです。


「……素手で触ってもいいでしょうか。痛かったらすぐに離しますから……」


 唐突にそう仰ったユリウス様に内心驚きながらも「……ええ、どうぞ」と返します。

 本当はまた腕と同じ痛みが来るのではないかと恐ろしかったのです。けれど、ユリウス様にそんな内面を見せたくなくて目を瞑りました。


 そっと触れられた指先は少し冷えていました。すぐに痛みが来るかも知れないと身構えていたのですが、いつまでたってもその痛みは来ません。


「……あら? 痛く、ない? どうして……?」


 倒れる前の腕のように痛みが来ることはなく、なぜか部屋中から安堵の溜息が漏れました。どうして家族や使用人たちが安堵するのか、私にはわかりません。


「ふふ……よかった。それはこの場にいる方たちに聞いてください。……アイリス嬢、明日、私と二人きりで出かけませんか?」


 先ほどの悲痛とも呼べる声とは違い、本当に嬉しそうな声で話すユリウス様。私が眠っている間に何かあったのでしょうか。


「よくわかりませんが、それはナナイ様やお母様たちに聞きますわ。ええと……明日、ですか? 腕の傷もありますし、ナナイ様と家族がいいと仰るならば」


 今のところそれしか言えず、けれど本当はユリウス様と二人で出かけられると思うと、それが嬉しかったのです。老い先短い私の、お慕いしているユリウス様との最期の思い出になるだろうからと。


 そんなことを思っていたらユリウス様が私の手を持ち上げ「約束ですよ」と指先に口付けを落としました。まさか手荒れや皺やしみがあり、骨ばった老婆の手にそんなことをされるとは思わず、顔が熱くなるのがわかります。


 まだユリウス様に愛されていると思ってもいいのでしょうか。


 先に逝くことになる私はユリウス様に対して罪悪感がありますが、それでも私はずっとユリウス様だけを思って来ました。

 市井にいた時も、町にいるヒト族の男性から婚姻しようと言われたこともあります。けれど、いくら身体がヒト族になったとはいえ私はもともと竜人ですし、心の中に番と認識したユリウス様がいる以上、婚姻に頷くことはできませんでした。

 その男性は別の方と婚姻して幸せに暮らし、今では孫もたくさんいて二年前に家族に見守られながら儚くなったと聞いています。

 愛する人と幸せに暮らせることを羨ましく思ったこともありますけれど、これまでのことを思い返せば幸せでした。今日の出来事も、明日ユリウス様と出かけられるかも知れないことも、死ぬ時はきっと幸せに思うことができるのだろうと思うと、心が温かくなったのです。


 私の手をベッドへと置いてその場を離れるユリウス様を見つめます。父と何か話をしていましたが、ユリウス様は第二執事と一緒に出て行ってしまいました。そのことが少し、寂しく感じます。


「さあ、ここはナナイ殿に任せ、我らは我らの仕事をしよう。オリバー、食事はここで食べることにする。アイリスがいるから、久しぶりに皆で食べたい。アイリスには身体に優しいものを頼むと料理長に言ってくれ」

「畏まりました」


 父の言葉を皮切りに、この部屋にいた人が慌ただしく動いて行きます。ですが、私の部屋で食事をするとなると、家族や給仕をする使用人を入れたら狭すぎるのも事実です。


「お待ちください、お父様。私が食堂に行きますわ。いくらなんでも、この部屋では狭すぎます」

「私はアイリスの身体が心配なんだよ。……本当に起き上がれるかい?」

「大丈夫ですわ」

「そうか。オリバー、食事は食堂に変更してくれ」

「畏まりました」


 今度こそ父やオリバーを含めた使用人たちが動き出します。私の部屋に残ったのはナナイ様とお母様と一番上の兄のセガル兄様とタニアです。

 タニアは「奥様、お嬢様のお洋服はどれにしましょう」と母に聞いていますし、母は母で「そうね……」と言いながらクローゼットを開け放って考えています。

 クローゼットにまだ私の服があることに驚きましたが、そんな暇などなくセガル兄様が私の傍に来ました。その顔はとても真剣で、何かあったのだと思わせるものです。そしてナナイ様は私の腕をとり、包帯をほどき始めていました。


「アイリス、お前に話さなければならないことがある」


 そう前置きして話してくださったのは、私が小さいころから呪われていたこと、そのせいで小さいころから竜の力も魔力も弱かったこと、呪いのせいで完全に力と魔力を奪われてヒト族になってしまったこと、その呪いが今まで継続していたことを告げられました。

 呪いは先ほど飲んだ水によって呪った相手に還され、不当に奪われた力や魔力、肉体の時間は、明日ユリウス様と出かける予定の場所の滝壺にユリウス様と一緒に浸れば、年齢に見合った身体に戻ると言われたのです。


「……元に、戻るのですか……? この老いた身体が……?」

「ナナイ殿が教えてくれた伝承ではそう言われいるらしい。実際、アイリスは先ほどユリウスに触れられても平気だったじゃないか。それはつまり、まだ充分とはいえないがアイリスの竜の力と魔力が戻って来た証拠じゃないのかい?」

「それは……」


 そんなことが本当にあるのでしょうか。できるのでしょうか。もしそれが本当ならば嬉しいけれど、もし駄目だったらと思うと、素直に喜ぶことができません。


「アイリスが不安になるのはわかるよ。だから明日、ユリウスと出かけておいで。本当かどうか、確かめるために」


 大丈夫だと思うよと仰ったセガル兄様に頷いていると、父が私の部屋へ来ました。


「アイリス、セガルから話は聞いたかい? それを聞いたうえで、明日どうするか決めたかい?」

「はい。ユリウス様と出かけることにしました」

「そうか。ユリウス殿はお昼前にアイリスを迎えに来るそうだ。……二人で楽しんでおいで」

「はい」


 父もセガル兄様もタニアも母も、この場にいない家族や使用人たちも、長年私を心配してくれていたことを知っています。

 オリバーが足しげく私の家に様子を見に来ていたのは、自分が心配していることも含め、父や母に言われて来ていたことも何となくわかっていました。本人は『お休みでしたから』なんて言っておりましたけれど、くれば必ずお菓子を大量に買って行くのですから、オリバーの独断ということはないと思うのです。

 実際、両親に「オリバーや他の使用人に様子を見に行かせていた」と、かなり時間がたってから言われましたし。


「セガル、話があるから私の執務室へ来てくれ」

「わかりました。ナナイ殿、アイリスをお願いします。母上、アイリス、夕食の時に」

「はい」


 父と一緒に出て行くセガル兄様を見送ると、私の腕の状態を見ていたナナイ様が安堵の溜息を漏らしました。腕は多少引きつれたような跡があったものの、怪我をした時の状態ほどひどくはなかったようです。


「これなら大丈夫ね。あそこに野生のエロアがあって助かったわ。野生のエロアは栽培したものよりも効力が強いから……。あとは水を飲んだからかしらね。滝壺の水に浸ればこの傷も治るはずだから、安心してね」


 それを聞いた母は、笑顔を浮かべてナナイ様に確認しています。


「ナナイ様、アイリスを湯浴みさせてもいいかしら?」

「もちろんです。ただ、傷がある場所は優しく丁寧に洗ってください。湯浴みのあと、念のためにエロアの軟膏を塗りますから」

「わかったわ。さあ、タニア、張り切っていきましょうね!」

「はい、奥様!」

「お母様?! タニアまで!」


 チリリンと使用人を呼ぶベルの音に女性の使用人たちが三人現れます。母から指示を受けた三人とタニアはさっと動き、別室にある湯浴みの場所へと連れて行くと私が着ていたものを全て剥ぎ取ってしまいました。服はタニアへと渡されて、それを持って湯浴みの場所から出て行ってしまいました。


「お、お母様……?」

「さあ、アイリス。覚悟なさい?」


 にっこり笑った母になにも言えず、三人のメイドは母の指定したもので私の全身を洗いあげます。老人の身体を洗わせることを申し訳なく思う反面、抗うほどの体力がない老体の身体ではどうしようもなく……。

 呆然としている間になにもかも終わり、いつの間にサイズを合わせたのか下着やドレスを着せられ、髪も結わかれていました。

 久しぶりに着たドレスは重かったですし食堂まで行くのは大変でしたけれど、迎えに来た父がエスコートしながら支えてくださいましたし、その姿で食堂に現れた私を見た他の家族は喜んでくださいました。

 家族とたくさん話をして、話を聞いて。一人の食事はどれほど寂しかったことか、一人ではない食事がどれほど嬉しかったことかと、今になって思い知らされました。

 ユリウス様がお昼前に来るなら昼食は私が作りたいと父にお願いすれば、家族のぶんも作ることを条件に頷いてくれました。


 ユリウス様がどこに連れて行ってくださるのかわかりませんが、もしも身体が元に戻らなかった時のために、ユリウス様との思い出がほしかったのです。


 食事が終わって部屋に戻ると、タニアが夜着を着せてくれました。痛みが出ないよう、念のために飲みなさいとナナイ様からお薬を渡されてそれを飲みます。

 久しぶりに本でも読もうと思っていたのですが、よほど疲れていたのか数ページ読んだところで眠くなってしまい、ベッドに潜り込むと朝までぐっすり眠ってしまいました。

 起きたらタニアに動きやすい服を着せられ、食堂で食事をしました。そのあとは厨房の隅を借りて昼食を作りはじめます。

 「白パンとバスケットに詰めるだけでも」と手伝ってくださった料理長にお礼を言い、私が作ったパンの残りを家族用と使用人たち用に分けて渡すと、なぜか感動されました。その時に店で出しているお菓子のレシピを聞かれましたので、それを教えました。


 そして約束通りユリウス様はお昼前に迎えに来てくださり、荷物を持っていた私に「少しの距離と術を使うとはいえ、飛んでいると寒いですから」と仰って毛布を頭から被せてくるむと私を抱き上げ、竜体となって空へと飛び上がったのです。


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