第5話

 目指したのは、我がアーヴィング家の領地内にある山の中だった。ここは昔から竜人の手が入っておらず、領民も山裾に生える薬草や果物、自然に落ちた木の枝を採りはしても、奥に入ろうとしない場所だった。

 まあ、領主一家が避暑に来る場所でもあるからかも知れないが。そんな山の中腹に、私が目指した場所があった。


 突然開けた視界に、懐かしさに目を細める。この場所は我が領地に避暑目的でサイラング侯爵一家を招待した際、アイリス嬢と二人で散歩に出た時に見つけた場所だった。そこで怪我をして蹲っていた白い犬形の魔獣の仔に恐れを抱くことなく近付き、威嚇されて腕まで噛まれたにも拘わらず、当時十歳だったアイリス嬢は魔獣に治療術を施していた。

 怪我が治った魔獣は彼女を見つめたあと、噛んだことを詫びるかのように彼女の傷と頬を舐めて森の奥へと駆けて行った。自分の怪我は自分で治してはいたが、子供の魔獣といえど、いかに魔獣が危険なのかその場で叱ったのは懐かしい思い出だ。


(変わっていないな……)


 竜体を解きながら何も変わっていないその場所に降り立つ。木々と岩の間から落ちる滝と、落ちた先にある滝壺。滝壺から流れる水は森の中を通り、やがて領地を流れる川へと合流する。

 滝壺の周りには花が咲き誇り、その蜜を吸うためか蝶や蜂が飛び交い、滝壺の水を求めて森に棲む獣や魔獣がやって来ることから、滝壺の水は真実の番以外を拒むだけで、他の動物や魔獣は受け入れているのだろう。このあたりはまたエルフの女性に聞かねばならないが。

 浅瀬では小鳥が水浴びをしながら鳴き、滝壺の中には魚が泳いでいる。

 水を飲んでいた白い大きな魔獣が私の気配に気付いて警戒するも「何もしない、水をもらいに来ただけだ」と告げれば、しばらく私を見たあとでまた水を飲み始めた。それを横目に見つつも入れ物に水を入れ、川に行くほうに近い場所に移動すると持っていた布を広げた。そこにはまだ呪方陣が浮かんでいる。

 そして、布についている血を洗うように入れ物から水をかけた途端に呪方陣が下のほうから崩れ出したので、目を瞠る。


「……!」


 崩れた呪方陣がその姿を消し去って丸い塊となるとふわりと浮かび、私が飛んで来た方角――王都のほうへと飛んで行った。


「ああ……っ、エルフの伝承は本当だったのですね……っ!」


 多分あれが、『呪いを還す』という状態なのだろう。そこはエルフの女性に聞かねばならないが、おそらく間違ってはいまい。

 びしょ濡れになった布をギュッと握り、もう一度滝壺へ行って水を汲む。それを持って竜体に変化し、一路王都にあるサイラング侯爵家を目指した。急いで行けば、晩餐の時間の前後に着くだろう。

 ただ、アイリス嬢があの状態では家族や使用人たちの食事が喉を通らない可能性があるので、できるだけ早くサイラング侯爵家の者たちを安心させてやりたかった。


 そして侯爵家に着けば、まるで待ち構えていたかのように執事が出迎えてくれる。期待したようなその目に笑顔で頷けば、執事は目を潤ませながら「ありがとうございます」と頭を下げたあと、「こちらへどうぞ」と案内をしてくれた。侯爵家に来るのも本当に久しぶりで、アイリス嬢やセガルと過ごしたことが思い出される。


「ユリウス様がご到着なさいました」


 執事が開かれた扉をノックしてそう告げれば、中にいた侯爵一家とエルフの女性が一斉に私を見る。そのことに内心焦りつつも滝壺で起こったことと私の推測を話せば、エルフの女性は「そうです、それが呪いを還した状態です」と頷きながらも嬉しそうに話してくれた。


 動物や魔獣たちが滝壺にいたことを話したうえで私の推測を話せば「ええ。拒むのは真実の番以外の方だけで、動物や魔獣は拒みません。そうでないと、生命の営みも生活もできませんから」と教えてもらったのは余談だ。


「これを。場所はお教えできませんが、これがその滝壺の水です」

「アイリス! 目が覚めたのね!」


 滝壺の水をエルフの女性に渡している時だった。侯爵夫人が嬉しそうな声をあげた。どうやらアイリス嬢が目覚めたらしい。

 本当ならば今すぐ近付いてアイリス嬢の手を取り、昼間のことを謝りたかった。だが、呪方陣を還していない状態で近付けば、また彼女に怪我をさせてしまう。だからこそそちらに近付くことなく、夫人とアイリス嬢の二人を見守った。


「アイリス、喉は渇いていないかしら? 美味しいお水があるのだけれど、どう?」


 そう問いかける夫人にアイリス嬢は素直に頷いている。それを見た夫人は近寄っていったエルフの女性と場所を代わり、彼女の身体を起こしてから近付く前にグラスに移していた泉の水をゆっくりと飲ませた。今この部屋にいる者で、素手でアイリス嬢に触れるのは彼女だけだったからだ。


 水を飲むアイリス嬢を、この部屋にいる者全員が緊張を孕んだ気持ちで固唾を呑み、見つめる。


「お母様の仰る通り、本当に美味しい水ね。なんだか身体が軽くなっていくみたい……」

「もう一杯どうかしら?」

「いただきます」


 美味しそうに飲み干したアイリス嬢に、エルフの女性がまた水を勧めると、彼女は頷いて飲み始める。それを飲み干した彼女は「もういいです。ありがとうございます」と伝えるとまた寝かされていた。そして部屋の中を見回し、私を見つけて目を見開いた。


「ユ、リウス、様……?」


 その声は、老齢した者特有の穏やかな声。だが、昔聞いたアイリス嬢によく似た声だった。その声に想いが募り、思わず近付く。呆然と私を見上げるアイリス嬢の瞳は。


 丸い瞳孔ではなく、竜人のように縦に細長くなっていた。よくよく髪を見れば、竜の力が戻って来ているのか、うっすらとではあるが根元が栗色に戻って来ていた。


(ああ……!)


 内心で安堵の溜息を溢した。……アイリス嬢のその状態から、呪いを還すことができたのだとわかる。エルフの女性もそれに気付いたのか、安堵の溜息を吐いている。あとはあの滝壺に連れて行き、彼女を水に浸して時間を戻すけだ。


「すまなかった、アイリス嬢。痛かったでしょう? それにひどい言葉も……」


 腕に巻かれている包帯に指先を伸ばして撫でると、アイリス嬢は「大丈夫ですよ」と頬を緩める。だから確かめたかった。布についていた血のように、本当に呪方陣が還されたのかを。


「……素手で触ってもいいでしょうか。痛かったらすぐに離しますから……」

「……ええ、どうぞ」


 恐る恐るそう聞けば、アイリス嬢は頷いてギュッと目を瞑った。素早く室内にいる者たちに目を向ければ、彼らも頷いている。そのことに頷き返してそっと手に触れば、ちょうど最後の段階だったのか呪方陣が丸い塊となり、窓が閉められていたにも拘わらずそこをすり抜け、王宮があるほうへと飛んで行った。

 それを見たこの場にいた者たちは息を呑んだあと、一様に嬉しそうにしていた。夫人や執事、アイリス嬢のメイドをしていた女性は涙を流している。


「……あら? 痛く、ない? どうして……?」

「ふふ……よかった。それはこの場にいる方たちに聞いてください。……アイリス嬢、明日、私と二人きりで出かけませんか?」

「よくわかりませんが、それはナナイ様やお母様たちに聞きますわ。ええと……明日、ですか? 腕の傷もありますし、ナナイ様と家族がいいと仰るならば」


 不思議そうに首を傾げながら許可が出ればとアイリス嬢は言う。呪いはまだ完全に解けたわけではないのだから、エルフの女性かセガルが話をしたならば、侯爵殿も出かけることを了承するだろう。

 ようやく怪我をさせることなく触れた愛しき番であるアイリス嬢の手を持ち上げ、「約束ですよ」と指先に口付けを落とせば、アイリス嬢は驚き目を丸くしながらもどこか嬉しそうに目を煌めかせ、顔が見る間に赤く染まってゆく。その様子を見て思う。


 彼女も私と同じように、ずっと慕っていてくれていたと自惚れてもいいだろうか、と。


 その手をベッドへと置いてその場を離れると、当主であるサイラング侯爵にお昼前にアイリス嬢を迎えに来ること、あとで元凶がどうなったのか手紙を魔術で転送するということ、アイリス嬢と番になりたいということを話し、番に関しては後日お互いに時間を取って話を改めるということを決め、侯爵家をあとにした。

 そして明日は執務を休みにするべく、ある程度仕事の割り振りと残っている仕事を終わらせるために王宮へと向かう。執務室に行けばちょうど私の秘書官と宰相補佐官がおり、明日は休みたいから仕事を振り分けると言ったら二人して顔を見合せたあとで私を見ると、二人同時にニヤリと笑った。


「どうしました?」

「聞きましたよ、ユリウス様」

「何をですか?」

「アイリス嬢のことですよ」

「よかったですねぇ」


 ロクサーヌに聞いたのか、ニヤニヤしながらからかう二人に苛つく。


「……ほう、そうですか。では、明日から二日間はお休みしても大丈夫ですよね?」

「え?」

「は?」

「そして婚姻後の休日は通常七日間ですが、今までの年月分も含め、二月ふたつきいただいてもいいですよね?」

「いや、その」

「それは」

「一番忙しい時期に二人一緒に婚姻して休んだ挙げ句、七日間のところを『今まで碌に休みがなかった』『そのぶんも休みがほしい』とごねて、無理矢理一月ひとつきまで休みを引き伸ばしたのはどなたでしたか? 私は二人が休んでいる間、一日たりとも休んでいないのですが。それも踏まえて私が休んでいる間の貴方たちのお休みは、私と同じように休み無しでもいいということでしょう? しかも私の時と違って二人いるわけですから、交代で休むこともできますしね」


 彼らが婚姻したのはもう二十年も前の話だが、ちょうど降竜祭の最終日に行われる収穫祭の準備に忙しく、降竜祭期間中で人数が少なくなる直前に婚姻をしたせいで、王宮は人手不足で忙しかったのだ。七日間で戻ってくれば大したことではなかったのだが、戻るどころかごねて休みを引き伸ばしたのだから、同じことをされても文句は言えないのだ、この二人は。


「あの当時、人手不足で本当に大変でした。通常の仕事と外交に加え、王家主催の収穫祭の準備もしなければなりませんでしたからねえ。睡眠不足も相まって、倒れるかと思いましたよ」

「「……」」

「規則を破り一月ひとつきも休んだのです。一人一月、二人分で二月ふたつきですね。一人あたり二月で合計四月よつきと言わないのです、上司の私が二月休んで貴方たちが二月の間休みが無くとも、問題ないですよね?」


 私の時と違って二人いますし楽ですよね、とにっこり笑いながらそう言えば、二人はようやく私を怒らせていたことに気付き、青ざめた。その二人に仕事を割り振り、部屋から追い出してからサイラング侯爵宛に手紙を書いて送る準備をする。

 そのまましばらく一人で仕事をしていると、呪方陣に書かれていた女性の番たち三人が私を訪ねて来た。

 話を聞くと、やはり全員に二人だけの秘密の場所があり、ロクサーヌから全ての話を聞いたあとは半信半疑でその場所へ向かった。そして水を飲ませてから水に浸ったところ、私が見たのと同じような現象が起きて王宮がある方向へ飛び去り、そのあと生きた年数に見合った肉体年齢に戻ったという。

 特に侯爵家のうちの一人は死に至る直前だったらしく、本当に嬉しそうだったし、秘密の泉の場所がなかったらと思うとゾッとすると話していた。

 しばらく雑談や外交面の話をしたが、最後はそれぞれが感謝の言葉を述べて帰って行った。

 死に至る前で良かったと思う反面、もし今日アイリス嬢に触れなければ、エルフの女性が呪方陣と気付かなければ、私はアイリス嬢を、彼らは番を永遠に失っていたことだろう。


 アイリス嬢の時間を取り戻し、もう一度婚約者となり、彼女と婚姻できるのであれば――


 そう思うだけで、明日アイリス嬢に会うのが楽しみで仕方がない……そう思いながら全ての仕事を終わらせ、元凶はリリアーナ王女であることとその状態の確認はまだできていないこと、そして被害にあった三人の様子を手紙に書いてサイラング侯爵家に送る。そのまま王宮を辞して帰宅すれば、セガルから手紙が届いていた。

 その内容はというと、アイリス嬢には誰が呪っていたのかを告げることなくそれ以外は全て話したから彼女には言うなということ、明日私と一緒に出かけることを了承したということ、お昼前に来るならば昼食はサイラング家で用意することが書かれていた。昼食のことに思い至らなかったのは抜けているとしか思えなかったが、その気遣いに感謝した。

 もう一度その手紙を読み返して折り畳むと、引き出しにしまって領地の報告書を読む。


 そんなことをしながらも、明日が楽しみで仕方がなかった。


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