第7話

 ユリウス様が連れて来てくださった場所は彼の領地でした。私がユリウス様との仮の婚約が解消されるまで、ユリウス様のご両親が「避暑にいらしてください」と何度も誘っていただいてお邪魔した場所です。

 もちろん、我が家もユリウス様のご家族をご招待したことがあります。

 そしてユリウス様が降り立った場所は、彼と二人で散歩に出かけて見つけた秘密の場所でした。


「まあ……変わっていませんのね」

「そうでしょう?」


 竜体を解いて竜人になったユリウス様は、私に被せていた毛布を取りながら嬉しそうに話してくださいます。


 木々と岩の間から落ちる滝と、落ちた先にある滝壺、滝壺から流れる水は小川となって森の中へと消えています。滝壺の周りには花が咲き誇り、その蜜を吸うのか蝶や蜂が飛び交っていました。

 浅瀬では小鳥が水浴びをしながら鳴き、滝壺の中の水と一緒に何かが跳ねていることから、魚がいるのかも知れません。

 そういえば、怪我をして蹲っていた白い犬形の子どもの獣に近付き、威嚇されて腕を噛まれたにも拘わらず治療術を施したこともありました。怪我が治った獣は私を見つめたあと、噛んだ場所と私の頬を舐めて森の奥へと駆けて行ったのを、なんとなく覚えています。

 それを見送って自分の怪我を治していると、ユリウス様はあの獣は魔獣だと教えてくださったうえで『子供とは言え魔獣に近付くなんて、なんと危ないことをしたのです!』と、いかに魔獣が危険なのか叱られたのは、懐かしい思い出です。


 あの魔獣はどうしているのでしょうか。魔獣の寿命は知りませんが、あれから元気でいてくれるといいですし、悪さをせずにいたのならば今も元気でいるのかも知れません。


 ユリウス様が毛布を片付けている間に私は平らな場所を探し、持って来た荷物からピクニック用の敷物を出して四隅に少し大きめの石を乗せました。敷物の他には大きなタオルが数枚入っています。

 これは「水に浸かるのだから」と、ユリウス様のぶんも一緒にタニアが用意してくれたものです。

 更にその中からバスケットを取り出し、バスケットの中から紅茶が入っている容器を取り出して真ん中に置きます。毛布を畳んだユリウス様はそれとご自分が持っていた荷物を敷物の上に置き、まぜか森の中へと入って行きました。

 それを不思議に思いしばらく待っておりましたら、両手いっぱいに枯れた木の枝を持って帰って来ました。


「ユリウス様、その枯れた木の枝はどうなさるのですか?」

「水の中に入るから、冷えた身体を温めるために火を熾すのに使うのです。まだ足りないから、あと二、三回行くことになりますが」

「ユリウス様が火を熾すのですか?」

「ええ。一応やり方は教わって来ましたが、うまく行くかどうか……」


 不安そうにそう仰ったユリウス様に、それはそうだと思いました。貴族であるユリウス様が焚き火をしたことなどあるはずがないのです。

 でしたら彼が枯れ木を拾っている間に、火を熾すことに慣れている私がやればいいだけの話なのですが、そもそも公爵家の嫡男であるユリウス様が枯れ木を拾うのも大変だと思うのです。


「ひとまずそれはあとにして、お昼を先に食べませんか?」

「そうですね。私もお腹が空きましたので、泉で手を洗ってから食べましょう」


 差し出された手に恐る恐る自分の手を重ねます。やはり痛みが来ないことに安堵しつつユリウス様と並んで手を洗うと、敷物がある場所に戻ってユリウス様に小さなタオルを渡しました。

 私も小さなタオルを出して水気を拭くと、バスケットの中から紅茶を入れるカップと料理長が詰めてくれた昼食、その昼食を取り分ける食器類を並べます。


 昼食はサラダ、サイラング家の料理長が焼いた柔らかい白パンに、私が作った香ばしく炒った木の実が練り込まれたパンと蜂蜜が練り込まれたパン。食べやすいように薄く切られている焼いた鶏肉、茹でた卵、数種類の腸詰め肉、果物。

 さすがに白パンは市井にはないのですが、他は市井に暮らす者が食べているものです。但し、貴族が食べるものよりも味が数段劣るのは仕方がありません。

 正直に言って、白パン以外は私が作ったものですから、今更ながら貴族が食するような料理ではないことに気付いてしまったのです。しかも、サイラング家の料理長や家族に残りを渡してしまっているのです。

 市井に暮らす者ならば誰でも作れるレベルの料理ですが、今更ながらそんな物をユリウス様に食べさせてしまっていいのか心配になり、バスケットにしまおうとした時には遅かったのです。ユリウス様は木の実入りのパンを手に取り、それをちぎって口に入れたあとでした。


「あ、あのっ、ユリウス様?!」

「どうかしましたか? うん……木の実が香ばしくて美味しいパンですね。料理長の新作ですか?」

「いえ、その……白パン以外は料理長に手伝ってもらいながら私……わたくしが作り、ました……。市井で暮らしている時に、ナナイ様やご近所に住んでいたお婆様たちやおば様たちに教わったんですの。ですから、あの……お口に合わなければ……」

「アイリス嬢の手作りですか! そんなことはありません……とても美味しいですよ」


 目を細めて嬉しそうに笑い、食事を頬張るユリウス様に鼓動が跳ねます。また一つ思い出が増えたことがとても嬉しいのです。

 このパンの中身は、焼いた鶏肉の味は、サラダのドレッシングは、腸詰めの中身はと、質問しながら食べてくださるユリウス様の優しさが嬉しくて、思い出が降り積もってゆきます。

 胸がいっぱいで木の実のパンと果物しか食べられませんでしたが、ユリウス様はそのほとんどを食べてくださったのです。


 満足そうに笑うユリウス様。その素敵な笑顔を見られた……それだけで私は嬉しかったのですから。


 紅茶を飲んでゆっくりしたあと、ユリウス様は火をつける道具を枯れ木の傍に置くと、「集めに行ってくる」と仰ってまた森の中へと入って行きました。その間に私は滝壺の近くや川になり始めの場所から同じ大きさの石を集め、敷物から少し離れた場所に浅い穴を掘って周りを石で囲みます。

 枯れ木が燃えやすいように森の入口付近で枯葉と小枝を拾って来て穴の中に入れると、枯れ木を燃えやすいよう数本並べて火を熾しました。息を吹き掛ければ、あっという間に枯葉や小枝に燃え広がり、少しずつ枯れ木へと燃え移っていきます。

 あとは火を絶やさないように枯れ木をくべるだけです。

 ちょうどそこにユリウス様が戻ってこられて火がついていることに驚かれたましたが、市井に住む者ならば火を熾すことも含めて何もかも自分でやらなければならず、その全てをナナイ様に教わったのだと言えば「そうですか」とポツリと呟いて目を伏せました。


 元は貴族の令嬢とはいえ、ユリウス様に呆れられてしまったのでしょうか。けれど、令嬢でいた時間よりも市井で暮らしていた時間のほうが長いのですから、今更取り繕っても仕方がありません。


「あの……ユリウス様……?」

「ああ、不安にさせてしまいましたね。少々思うことがありまして」

「思うことですか?」

「ええ。ですが、アイリス嬢に対して怒っているわけではありませんよ?」

「それならばよろしいのですが……」

「ふふ、大丈夫ですよ。もう一度枯れ木を集めて来ます。そうしたら一緒に泉に入りましょう」

「……はい」


 ユリウス様に言われて思い出しました。お昼を食べたり火を熾したりしているうちに忘れてしまっていましたが、ここにはピクニックに来たのではなく、私の身体が元に戻るかどうかを確かめに来たのでした。

 年を取ると、物忘れが激しくて困ります。

 頷きはしましたが、本当に私の身体は元に戻るのでしょうか。

 セガル兄様は大丈夫だと仰ってくださった。

 出掛ける直前、父も大丈夫だと仰ってくださった。


 それでも、元に戻らないかも知れないという不安がないわけではないのです。


 荷物からタニアに持たされたタオルを全部出して敷物の上に置くと、その横に座ります。今日は髪は結わかれておらず、そのままの状態です。私が見える範囲では、髪はまだ白いのです。

 服もドレスではなく、昨日私が着ていた市井の者が着る服と同じようなデザインで、前にボタンが沢山ついているクリーム色のゆったりとしたワンピースです。袖は肘までしか無く、肩からショールをかけています。

 ただ、先ほど手を洗ったからなのか、しみはあるけれどほんの少し肌にハリが出てきたように感じるのですが……?

 そんなことを考えているうちにユリウス様が戻っていらして、枯れ木を火の傍に置いて何本か火にくべると、手を洗ってから座っていた私を抱き上げ、そのまま滝壺のほうへと歩き出してしまいました。


「きゃっ!」


 いきなりの浮遊感に襲われて、それが怖くてユリウス様の首に抱き付いてしまい、顔に熱が集まります。


「おや。可愛いですね。……本当に貴女は可愛い。……さあ、これから水に浸かります。怖ければそのまま私にしがみついていなさい」

「しがみ……?! 冷たい!」


 なんてことを仰るのですかと言う暇もなく、ユリウス様はそのまま泉の中へと入ってしまい、あっという間に首まで浸かってしまいました。その冷たさに驚くものの、しばらくそのままでいたら冷たさもあまり気にならなくなります。


「一度頭まで浸かってみましょうか。……息を止めて」


 ユリウス様にそう言われて息を止めて目を瞑ると、冷たい水が頭の先まで伝わって来ます。すぐに水面に出たかと思えば、彼は「ああ……」と安堵したように息を吐くと、抱き上げていた私を離して抱き締めたのです。


「ユリウス様……?」

「よかった……。まだ完全ではありませんが」


 抱き締めていた腕を緩め、そう仰って見せてくれたのは。


 濡れた髪と、私の腕、でした。


 白かった髪が栗色に戻っています。

 しみだらけで皺だらけだった腕は、皺が全く無くなり肌はハリも艶も戻って来ていました。


「ああ……ユリウス様……夢ではありませんの? こんな……こんな……っ」


 本当に戻るなんて思っていませんでした。戻らなくても、素敵な思い出を胸に抱いて逝くつもりでした。

 だから嬉しくて……涙が滲むのがわかります。


「……もう一度、頭から浸かりましょう」

「はい……っ」


 震える声でそう仰ったユリウス様に頷くと、彼の顔が近付いて来て唇をぴったり塞がれました。驚いて息を止めている間にまた頭まで浸かり、水面に戻ってもユリウス様の唇は私の唇を塞いだままです。

 それが苦しくて口を開ければ、ユリウス様の舌が私の口の中をなぞります。


「ん……ふ、ぅ……」

「アイリス嬢……アイリス……私の愛しい番……」

「ユリウス、様、ん……」


 ちゅっ、ちゅっ、と音を立てて口付けをするユリウス様に、私はただしがみつくことしかできなくて……。軽い口付けだったものがどんどん深くなり、角度を変えながらユリウス様の唇が、舌が、私の唇と口の中をなぞっていきます。


「……これ以上は危険ですね。自制がきかなくなります。水気を飛ばしてから火にあたり、身体が温まったら帰りましょう」


 名残惜しいと謂わんばかりに口付けをといたユリウス様に頷くと、彼は抱き締めていた腕を離してまた私を抱き上げ、風の術を使ったのか私とユリウス様に付いていた水気を飛ばしました。

 火の傍まで来て私を下ろすと敷物があるほうへ歩いて行き、タオルや毛布、ご自分の荷物から何かを持って私のそばへ来ると、持っていた物を敷いてそこに座るように言い、敷物に座るとタオルを渡されました。

 タオルを膝にかけて私の隣に座ったユリウス様は私を抱き寄せると、毛布を広げて私ごとご自分の背中に被せたのです。


 嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが沸き上がって動こうとしましたが、ユリウス様の腕はしっかりと私を捕らえていて動けません。ですが、そのおかげもあってか、冷えていた身体が、火と毛布とユリウス様の腕の中で徐々に温まって行くのがわかります。


「完全に戻りましたね……あの時よりも少しだけ大人になったアイリスがいます」

「本当……ですか?」

「ええ。サイラング家に帰ったら確かめてみるといいですよ。アイリスのことだから、鏡を見ていないのでしょう?」


 ユリウス様の優しい声が、私の中にスッと入って来ます。どうして私が鏡を見ていないことを知っているのでしょうか?

 ユリウス様が私に触れ、使用人たちや母が素手で私を触っていても、自分の髪や顔……特に目を見るのが怖かったのです。目の真ん中がまだ丸かったらと思うと、鏡を見れなかったのです。

 頷いた私に、ユリウス様の手が私の頭を優しく撫でてくださいました。


「大丈夫、アイリスは元に戻りましたよ。自信を持ってください」

「……はい。いろいろとありがとうございます、ユリウス様」

「……私のせいでもあるのですから、気にしないようにしてください」


 私のせいと仰るユリウス様に首を傾げましたが、ユリウス様はそれ以上のことは教えてくださいませんでした。

 身体も温まったしちょうど枯れ木も無くなりましたので、滝壺の水を使って火の始末をします。完全に火が消えたのを確認して帰り仕度も全て終え、「試しに竜体となってみませんか?」と仰ったユリウス様に頷き、恐る恐る試してみるときちんと竜体になることができました。


 とても嬉しかったのです。ユリウス様と一緒に、また空を飛ぶことができますから。


「私の番ですから、私の腕に抱かれたまま帰りましょう……アイリスが私の番だと知らしめるために」


 そう仰ったユリウス様も竜体になりました。男性の竜人は、番を見つけると腕に抱いて「自分には番がいる」と知らせるように空を飛ぶのです。

 私よりもずっとずっと大きなユリウス様は、私を腕に抱いて空へと飛び立つと、領地の方たちに教えるようにしばらく上空を飛び回り、そのままサイラング家へと飛んで行きました。

 サイラング家に着けば私の竜体を見たオリバーを筆頭に使用人たち全員が、そして両親も二人の兄もその番も妹も喜んでくださいました。

 ユリウス様は「明日また来ます」と仰ってからお帰りになり、私は竜人になると部屋に戻って恐る恐る鏡を見れば、確かに私の目は竜人の特徴である瞳が縦になっており、髪も栗色でした。そして身体も顔も、ヒトになってしまった時よりも少しだけ大人になった私がこちらを見つめていました。


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