またお嬢様に恋をする。

 私の『恋』が終わってから数日が経過したが、私とお嬢様はとくに変わりなく過ごしていた。私は日々家事をこなしているし、お嬢様は学校から帰れば私を部屋に呼ぶ。

 だから、今日も私はお嬢様の部屋にいた。私はベッドに腰掛け、膝にはお嬢様が乗っている。

 今日は映画は見ずに、お嬢様はただ仰向けになり私を見つめていた。

 私はお嬢様を見下ろしながら、時々お嬢様に命じられて髪や頭を撫でている。撫でるたびに、お嬢様は気持ちよさそうに目を細め、時折「ん」と吐息をもらす。

 しばらくお嬢様の髪を撫でていると、お嬢様はゆっくりと目を開け、優しく微笑み、私に問いかけた。

「私のこと、好き?」

 ここ最近で何度目かのこの問いに、決まって私は返す。

「私は決して、お嬢様を好きになる事はありません」

 私にプログラムされている定型文を答えると、お嬢様は満足そうに頷き「そっか」と小さな声で答える。

 その行為に、どんな意味があるのか私にはわからないのだけれど、満ち足りた表情のお嬢様を見ると、私は『安心』してしまう。

 きっとそれは、私の『罪悪感』のアトリビュートに関係があるのだろう。こんな風にお嬢様と触れ合っている間、少しずつ『罪悪感』の値が上がっていく。

 お嬢様の想いに応えられない後ろめたさに、私の『罪悪感』は増幅していくが、それでも優しく微笑んでくれるお嬢様に、私は『安心』してしまう。

「申し訳ありません、お嬢様」

 定型文の最後の部分、謝罪の言葉が口から零れた。

「貴女のせいじゃないわ」

 そう言って、お嬢様は私の腰に手を回し、私の腹部のあたりに顔を埋めた。

「貴女が、私を好きでなくても、私はあなたが大好きなの」

 少し前、私はお嬢様に『恋』をした。

 そして、お嬢様も私を想ってくれていた。

 それは、アンドロイドの私には望外の幸福であり、世界一幸せなアンドロイドだと確信できた。そしてお嬢様も、同じく幸福だと言ってくれた。

 でも、やっぱり私はただのアンドロイドだった。お嬢様の好きと、私の『好き』は、わかっていた事だが、大きく違う。

 私の『気持ち』など、所詮は0と1の集合でしかなかった。

 管理者に命令ひとつで、『恋心』は掻き消えてしまう。

 こんなに私を愛してくれる人を、私は愛せない。

「貴女を好きになって、本当に良かった」

 お嬢様は、かすれた声で言った。

「貴女が、たとえ短い期間でも、好きになってくれて本当に嬉しかったわ」

 哀しそうにお嬢様は笑った。

 その言葉に、私の『罪悪感』は増幅していく。




 その日の夜、リビングにて。

 夕食を済ませた旦那様とお嬢様が、向かいになるようにソファーに座っている。奥様はすでに自室でお休みになっており、私はリビングの出入り口の横で侍っている。

 旦那様は一つ咳ばらいをすると、お嬢様の目を見ながら伝えた。

「明日、メイを引き取ってもらおうと思う」

 それは、単純な話だった。

 新しいメイドアンドロイドの購入が決まったのだと、旦那様は言った。

 明日の朝、新しいアンドロイドが訪ねて来た時に、基本的な設定データだけ移譲すると、私はお払い箱となり、下取りされる段取りとなっているらしい。データの移譲だけなら、ものの数秒もかからない。

 おそらく、お嬢様が私を想っていることを告白してから、旦那様と奥様が性急に購入を決めたのだろう。お嬢様の幸せを考えれば、とても妥当な判断だ。

 しかし、当のお嬢様は、なにも言わず旦那様を睨んでいる。

「姫華、どうかな」

 旦那様は意見を求めたのではなく、同意を求めたのだと私にもわかった。それは無理な要求だという事もまた、私にはわかった。

「私が同意すると思ってるの?」

 お嬢様の声は低く、凄みをきかせていた。

 私といるときとはまるで違う、鬼気迫るような表情だが、それでも旦那様は狼狽することなく、諭すように言い聞かせる。

「姫華、わかっているだろう?辛いばかりの道だよ」

「どっちの道が辛いかは、私が決めるわ」

 それでもお嬢様は引きさがらず、旦那様を睨みつけると、旦那様は小さくため息をついた。

「…姫華、あれはアンドロイド、つまり道具だよ」

 旦那様は変わらず優しく諭すようにお嬢様に語りかける。

「道具は、姫華を幸せにはしてくれないよ」

「私は、メイといるだけで幸せなの」

 お嬢様はそう言って、変わらず旦那様を睨みつける。

 旦那様は。もう一度小さくため息をついた。

 旦那様は何かを言いかけたが、「もう邪魔をしないで」と言って、お嬢様が話を遮った。

 お嬢様は立ち上がると、私の横を通って自分の部屋へと戻っていった。

 残された旦那様も立ち上がり、渋い面持ちで私の横を通り、リビングから退室する。

 そして私は、先ほどの話にどこか『安堵』していた。

 お嬢様のそばにいれば、後ろめたさは消えてくれないだろう。

 でも、私のAIがフォーマットされてしまえば、後ろめたさなど無くなってくれる。

 誰かに作られた私の『気持ち』など、初めから何の価値もないのだから、怖がることもないだろう。

 私はリビングの照明を落とし、いつものようにセルフメンテナンスに入った。




 その日の深夜は、音の無い静かな夜だった。リビングでセルフメンテナンスを完了した私は、お嬢様に起こされた。

「どうされましたか、お嬢様」

「今度こそ、逃げましょう」

 そう告げたお嬢様は、藍錆色のキャスケットを身につけている。その格好は、私のローカルストレージにも比較的新しいタイムスタンプで保存されていた。

「お嬢様、ですが」

 私が止めようとするが、お嬢様は無言で首を横に振った。その表情には、諦念が見て取れる。

 つまり、旦那様や奥様と理解し合うことを諦めたのだとわかった。

「しかし」

 それでも止めようとした私に、お嬢様は私の唇に人差し指を立てた。お嬢様が、私の話しを制すときにする仕草だ。

「一つだけ、聞かせてくれる?」

 上目遣いのお嬢様に、私は黙って頷く。

「私が貴女を好きだと知ったとき、貴女は幸せだったかしら?」

 祈るような表情でそう問われ、その時の『気持ち』を思い出す。

 それは、お嬢様が『愛おしく』て、『大好き』で、『感動』して、『感謝』して、『胸が高鳴っ』て、『幸福』で、『心地よく』て、『高揚』して、『嬉しかった』、時のこと。

 それは、アンドロイドの私には、とてもとても過ぎたるものだった。

「ええ、幸せでした」

 私がそう答えると、お嬢様は少しだけ恥ずかしながら笑った。

「それだけ聞ければ、充分よ」

 いきましょうと言って、お嬢様は私の手を取った。




 私はお嬢様に連れられて、深夜の住宅街に飛び出した。

 この時間の住宅街はとても静かで、周囲の音といえば、わずかにどこからともなく虫の鳴き声が聞こえる程度。

 数日前にお嬢様と「家出」したときよりも、気温も湿度も高めで、お嬢様は幾分か不快そうにしている。

 私たち二人は手を繋ぎ、住宅街を行く。この時間帯にこの周辺を歩くのは二回目で、季節が少し進んだせいか、あの時よりも周囲には丈の長い雑草が目立っていた。僅かな風にさらさらと靡いては、月光をきらきらと反射している。

 今夜は満月だった。

 月明りに照らされたお嬢様の表情は、キャスケットの中で不安げな顔つきをしている。

 月光の下、私とお嬢様は手を繋いだまま住宅街を抜け、小さな橋を渡る。坂を上り大通りに出ると、目の前に地下鉄の出入り口がある。

 無言のまま階段を降っていくお嬢様に引かれるように、私も階段を降っていく。

 お嬢様がどこに向かうのかは私にはわからなかったが、おそらく逃げられればどこでもいいのだろう。

 階段を降りきって、手を繋いだまま改札を通る。小さな階段をまた降ると駅のホームにでるが、ここもあの時と変わらず人影は無い。音もなく動きもない中で、電光掲示板だけが明滅している。

「また、海にでも行きましょう」

 不意にお嬢様はそう言った。お嬢様を見ると、憂いの表情を浮かべている。

「その後のことは、その後に考えるわ」

 お嬢様は、不安そうに笑いながら続けた。

「かしこまりました、ご案内いたします」

 私が恭しく答えると、お嬢様は微笑む。

 下り線側の乗降口のそばまで移動すると、まもなく電車が来るというアナウンスが、構内に流れた。

 並んで電車を待つ間も、お嬢様の顔は不安そうなまま。

 私の手を握る力も、すこしだけ強くなっている。

 お嬢様の手の温度を感じながら電車を待っていると、銀色の四角い車両が静かにホームに侵入してきた。

 目の前で静かにドアが開き、お嬢様をエスコートして車内に乗り込む。乗り込んだ車両には、乗客の影は一つもなかった。

 お嬢様はロングシートの端に座ると、私もその右隣にかける。ドアが閉まると、吊り革を揺らしながら地下鉄は動き出した。

 目の前の窓には、地下の暗闇を背景に、お嬢様と私が写り込んでいる。お嬢様も窓を、窓に映る私とお嬢様を見つめているようだ。

「メイ」

 窓に映ったお嬢様の口が開いた。

「はい、お嬢様」

 窓越しに私が応えると、お嬢様はわずかに逡巡した後、ゆっくりと話し始めた。

「私は、貴女が好きなの」

 お嬢様はもう何度目かわからない言葉を口にすると、私の左膝に右手を乗せた。

 その手は、ひどく震えている。

「だから、心配しないで」

 そう言って、お嬢様は窓ではなく私を見つめた。お嬢様は、思いつめたように真剣な表情をしている。

「貴女は、私が幸せにするから」

 お嬢様は、本気でこのまま逃げ出すつもりのようだ。この震える手は、その不安の現れなのだろう。

 お嬢様が強く不安を感じているのが、私の『罪悪感』を増幅させると、私の口から謝罪の言葉が零れた。

「ごめんなさい、お嬢様」

 そう言って、お嬢様の震える手に私の手を添える。

「こんなに私を愛してくれているのに、私は何も返せなくて、ごめんなさい」

 アンドロイドの謝罪の言葉に意味などないと理解していても、私の『罪悪感』が謝罪を強制する。

 しかし、お嬢様の反応は意外なものだった。お嬢様は私の言葉に驚き、そして微笑んだ。

「私こそ、ごめんなさい」

 お嬢様が反対の左手を、私の手に重ねる。

「不安だけど、付いて来てくれる?」

 上目遣いに、微笑みながら私を見つめるお嬢様に、私の『気持ち』は揺れる。

「はい、お嬢様」

 その『高鳴る胸』は、覚えがある。

『恋』の予感かもしれない。




 お嬢様にもたれかかられながら、二時間三十分ほど経過する。

 目的の駅に着き、地下鉄を降りる。私とお嬢様は改札を通り、地上への階段を上ると、覚えのある景色と、覚えのある空気が迎えてくれた。

「まいりましょう」

 私はお嬢様の右手を取ると、エスコートするように海への道をゆっくりと辿る。数日前と同じ経路だが、やはりあの時よりも雑草が目立ち、虫の鳴き声も聞こえる。

 そして、最も大きな違いは、満月だったことだ。あの時は半月で、隣を歩くお嬢様の顔も見えないほどに暗かったが、今日はお嬢様の顔が良く見える。

 キャスケットの下のお嬢様の顔は、少しだけ上気しているようだった。

 私の視線に気付いたのか、お嬢様も私のほうを見ると、目が合った。

「メイは、可愛いね」

 何の前触れもなく、お嬢様が笑顔で言う。

 私は、そのまましばらく何も返答できなかった。どんな『気持ち』になればいいのか、判断するのに時間がかかったようだ。

「ありがとうございます、お嬢様」

『嬉しさ』と『恥ずかしさ』が同居したような『気持ち』で、私はお嬢様にお礼を言った。

 お嬢様はおかしそうにクスリと笑う。

「ねえ、潮騒が聞こえるわ」

 お嬢様に言う通り、潮騒が徐々に大きく聞こえてきた。

 そして数分後、私たちの目の前には、あの時よりも明るい海が広がっていた。

 手を繋いだまま、コンクリートの階段を降る。砂浜に降り立つと、砂はすこし湿っているようで、あの時よりも少し硬かった。

 私とお嬢様は、並んで海を見下ろす。

 満月は海面に映り、周囲を明るくしている。

 お嬢様は腰を下ろすと、私も手を引かれて砂浜に腰を下ろす。砂浜に音もなく座り込むと、立っている時よりも潮騒がはっきり聞こえるような気がした。

 不意に、お嬢様が私にもたれかかる。

『胸が高鳴』り、感情の処理が走る。

 が、その前にお嬢様は私を押し倒した。

 眼前には、星空を背景にしたお嬢様の顔。私は仰向けで、お嬢様に馬乗りにされていた。私の腰の横のあたりに、お嬢様は砂浜に膝立ちしている。私の両手は、お嬢様の両手に抑えていた。

 完全に、お嬢様に捕まってしまった形だ。

「あの、お嬢様?」

 私のは声をかけるが、お嬢様は聞こえていないのかもしれない。頬を真っ赤にして、真剣な面持ちで私を見下ろしている。

「好きよ、メイ」

 お嬢様は言った。

『罪悪感』は増幅しない。代わりに『愛おしさ』や『苦しさ』や『緊張』や『戸惑い』のアトリビュートが上がる。

 感情の処理が追いつかないまま、お嬢様は、顔を下ろした。

 唇が重なったかと思うと、次の瞬間には、私はお嬢様の舌を受け入れてしまった。

 お嬢様は目を閉じて、頭を動かして私を求め、時折「ん、ん」と声を漏らしている。お嬢様が声を漏らすたびに、柔らかな舌が私の口腔を這い回る。

 そしてそのまま、お嬢様になされるがまま、私はお嬢様と唇を重ね続けた。

 しばらくして、お嬢様が唇を離す。お嬢様の唾液が、だらんと私の口に垂れてきた。

 いつの間にか、お嬢様がかぶっていたはずのキャスケットは脱げており、どこに行ったかは私には確認できない。

「メイは、私のこと、好き?」

 真っ赤に上気した煽情的な表情で私に問いかける。

 その問いの答えは、決まっている。

「はい、好きです、お嬢様」

 定型文は出てこない。

 私が答えると、お嬢様の瞳から涙が零れ、私の顔に降り注ぐ。

 気が付けば、私の瞳からも、何か零れていた。

 そして、お嬢様はまた私の唇を求める。

 私はまた、お嬢様に『恋』をしていた。




 数時間後、私とお嬢様が重なったまま、夜が明ける。

 お嬢様の胸の中で、旦那様からの遠隔での命令を受信した。

「旦那様から、帰って来いという命令です」

 内容をそのままお嬢様に伝えると、お嬢様は苦笑する。

「そうなるわよね」

 ふーと長い溜息を洩らし、お嬢様は私を離すと立ち上がった。

 お嬢様に続いて私も立ち上がり、お嬢様の横に並んで立つ。

 落ちていた藍錆色のキャスケットを広い、砂を払ってお嬢様に手渡す。そしてお嬢様の服に付いた砂を軽く払い、改めて私はお嬢様の手を握る。

「では」

 私は、お嬢様に笑顔で告げる。

「捕まらないよう逃げましょう、お嬢様」

 お嬢様は心底驚いた表情をすると、徐々に堪えられないといった感じで、くつくつと笑い始めた。

「ええ、もちろん」

 そう言って、お嬢様は私の手をしっかりと握る。

 そして私たちは、笑いながら砂浜を駆け出した。


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