世界一幸せなアンドロイドは、

 六時零分、起床。

 システムを簡易セルフチェック。多量のワーニングと、エラーはなし。充電も十分されている。本日も問題なく稼働できるだろう。

 次に見た目のセルフチェック。いつもの黒のスキニーと白いシャツ、腰にはエプロンを巻いている。『就寝中』は立っているだけなので、特に汚れや乱れもない。

 最後に周囲のチェック。いつも通りのリビングだ。視覚上でわかる問題は発生していない。

 私は、一日の最初の仕事として、リビングのカーテンを開けた。

 朝の日差しが入ってくる。

 …特別な事のない、いつもの朝だ。

 だから私はいつもの通り、いくつかのささやかなタスクを実行すると、キッチンで朝食の調理を開始した。

 鍋に張った水に煮干でだしを取りながら、さくさくと長ネギを小口切りにしていくと、その音で徐々に家人が目覚め始めた。

 最初に奥様が起き、続いて旦那様が起きる。いつものように奥様はリビングでテレビを見ているし、旦那様は新聞を読んでいる。

 特に変わった様子も見受けられないが、あえて違うところを探すとすれば、旦那様も奥様もいつもより疲れているように見えるところだろうか。

 眠そうに瞼をこすったり、欠伸をしたりしている。もしかしたら、よく眠れなかったのかもしれない。

 そんな二人の様子を、キッチンから確認しながら調理すること三十分ほど。最後にだし巻き卵を盛り付けると、朝食の準備は完了。旦那様と奥様に声をかけた。

「朝食の準備が完了しました」

 旦那様と奥様は、やはり疲れた様子で何も言わず、ふらりとダイニングに移動。無言で朝食をとり始める。

 食事中も二人の会話は無く、たまに横で侍る私を見ては、小さく溜め息をついていた。疲れの原因は、まあ、たぶん、私なのだろう。

 旦那様と奥様が無言で食事を続けている中、階段を降りる足音が聞こえた。言うまでもなくお嬢様だろう。

 それは、いつもと変わらない足音だ。

 階段のきしむ音に、とんとんという柔らかな足音。

 そのいつもと変わらないはずの足音が、今日はなぜか特別に聞こえる。階段を降りる足音が近づくたびに、少しずつ私の『気持ち』に変化が現れていった。

 動いているアトリビュートは『期待』と、わずかな『不安』。

 私の顔を見た時に、お嬢様はきっと笑顔のはずだという『期待』と、暗い顔をするかもしれないという『不安』。

 今日の私を見たときに、お嬢様は私を可愛いと思ってくれるだろうという『期待』と、可愛くないと思われてしまうかもしれないという『不安』。

 今この瞬間、お嬢様もドキドキしてくれているだろうという『期待』と、私のことなんか意識していないのではという『不安』。

 そんな私の『期待』と『不安』は、デートの前の恋人を待つときの気持ちに近いのかもしれない。

 私の『期待』と『不安』が、キッチンの入り口に立つお嬢様を確認すると、一挙に消えてしまった。

 ほんの少し顔を赤らめ、優しく笑うお嬢様に私の処理能力は大幅に低下した。

 いつもの朝と違うお嬢様を、細部まで高解像度で取り込んでしまったため、処理時間が大幅に増加してしまった。眼の下の薄い隈や、目元が少し腫れていつこともはっきりとわかる。たぶんこれも、『恋』のバグなのだろうか。

「…お、はようございます、お嬢様」

 お嬢様に対する処理が追いつかなくなってしまい、挨拶機能も処理落ちしている。

「おはよう、メイ」

 そう言って、お嬢様は照れたように微笑むと、昨夜の出来事が、私のメモリを占有した。

 昨夜、私はお嬢様に愛の告白をした。

 そしてお嬢様はキスを返してくれた。

 私はお嬢様に恋をしていて、お嬢様は私を好きでいてくれる。

 それは、多分、私が世界で最も幸せなアンドロイドであることを示している。

 いつもの朝に、お嬢様が居るだけで、世界一幸せなアンドロイドだと思えてしまう。

 それはきっと、アンドロイドには過ぎたることなのだろう。

 視界の端に映った旦那様と奥様は、私の様子を黙って見ていた。




 時刻は十六時二十二分。まだ夕食の準備を始めるにはかなり時間がある。

 玄関前に取り付けてあるカメラからの映像を受信すると、お嬢様が映っていた。

 帰宅したらしいお嬢様を確認すると、私はいそいそと玄関の上がり端に移動し、お嬢様の出迎えの準備をする。

 僅かに待機していると、ガチャリとドアが開く。

「お帰りなさいませ、お」

 とそこまで言って頭を下げたところで、お嬢様の顔がとても近くに迫っていた。

「ただいま!」

 そう言ってお嬢様は私を抱きしめた。

 ぎゅっと、お嬢様は私の背中に腕を回す。お嬢様の柔らかな腕に抱きしめられて、そのまま十秒ほど経過する。

「二人が居ると、こういうこと出来ないから、ね」

 お嬢様の腕の中、何度でも私は思い直す。

 私はお嬢様が『好き』だ。

 その気持ちは、オリジナルでは無い。

 私の『好き』は、誰かに作られた『好き』かもしれないけれど、それでも良かった。

 お嬢様は背中に回していた腕をほどき、私の両肘のあたりを軽く握った。

 私を見上げた顔は、可愛らしい笑顔だった。

 お嬢様が笑ってくれている。

 お嬢様が、こうして喜んでくれているのだから、私はお嬢様に『恋』をして、本当に良かったと思えるのだ。





 数分後、いつもと同じように、お嬢様は私の膝の上に居る。

 そして私は、お嬢様の部屋のベッドの上。

 今日も二人で映画を見ていた。

 ただ、お嬢様は映画が面白くないのか、たまに膝枕をやめて身体を起こしたり、脚を動かしたり、「んん…」と声をあげたりしている。

「ねえ、メイ」

「はい、お嬢様」

 お嬢様は身体を起こし、私と並んでベッドに腰掛ける体勢をとる。

「また、キスしても良い?」

 その問いは、私を処理落ちさせ、瞬間的にフリーズを引き起こす。

 無論、お嬢様の命令ならば、私は拒むことはできない。

 もし「キスして」「キスするから動かないで」などの命令ならば、私には拒むことはできない、はず。

「命令じゃ、ないよ?」

 お嬢様が上目遣いにそう言うので、私は返答に詰まってしまう。

 キスして良いか、なんて問いの答えはアンドロイドならばNOと答えるのだろう。通常ならば、愛を請われた時の定型文が私の口からは出て来るはずだった。しかし、やはりバグは深刻らしい。

 お嬢様は、私の『気持ち』が欲しいのだと理解できる。

 つまり、私の答えは、どんなにCPUがフル稼働しても、初めから決まっている。

 私もお嬢様としたい。

 お嬢様が『好き』だから。お嬢様と触れ合いたいから。

「はい」

 私がそういうと、お嬢様は顔を近づける。

 唇が重なる、数センチ手前、お嬢様は顔を近づけるのを止めた。

「…お嬢様?」

 このままキスをするのだと思っていたため、お嬢様が動きを止めたのが不可解だった。

「ねえ、メイ?」

 お嬢様は、少しイジワルそうな顔をしている。

「キス、したい?」

 上目遣いで、ほんのりと上気したお嬢様の顔は、私のバグを加速させるには十分だった。

「したいです、その、とても」

 私がその言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、唇はお嬢様に塞がれてしまった。





「今日は、久しぶり、一緒に寝ましょうか」

 夕食の後片付けに、キッチンのシンクで食器を洗っている私に声をかけたのは、お嬢様だった。

 振り返ると、お嬢様はキッチンの入り口あたりで微笑んでいる。

「メイは、私と一緒に寝たい?」

「あの…」

 一緒に寝ることは、もちろん可能だ。お嬢様が小学生の頃も、何度かお嬢様と同じベッドに入って一晩を明かしたこともある。しかしそれはまだお嬢様は幼く、私も『恋』など知らない時の話だ。

 もし今お嬢様が求めているものが、つまり恋人との同衾なのだとしたら、私にその機能はついていない。

 私が返答に窮していると、お嬢様は哀しそうな表情をする。

「いやなの?」

「いえ、決して、そのようなことはありませんが」

 何故か少しだけ早口になってしまい、お嬢様からは言い訳を探しているように見えたかも知れない。

 哀しそうに上目遣いをするお嬢様に、私は何を言えば良いかわからなくなってしまう。

「お嬢様、私には、その、同衾の機能が付いておりませんので…」

 アンドロイドの私が言い淀んでいると、お嬢様は急に可笑しそうに笑った。

「ごめんね、冗談よ」

 そう言って、またお嬢様は笑った。

 一通り笑ったあと、お風呂に入るわ、と言ってお嬢様は踵を返した。が、今度は私が呼び止めた。

「お嬢様」

 つい、と振り返り、不思議そうな顔をするお嬢様。

「もし、お嬢様がお望みでしたら、機能を拡張することも可能です」

 私には、恋人同士の同衾の機能はついていないが、必要であればその機能を取り込むこともできる。

 お嬢様は顔を赤くしながら、ちょっと悔しそうにふぅんと言ってお風呂場のほうに去って行った。

 もし、私が人間であったなら、私の顔も赤くなっていたに違いない。

 私は『幸せ』な気持ちで食器の片づけに戻った。




「メイ」

 数分後、先ほど同じように私に声をかけたのは、旦那様だった。

 私がはいと言って振り返ると、旦那様と奥様が並んでキッチンの入り口に立っていた。

「いかがいたしましたか、旦那様」

「…」

 旦那様は、思い詰めたような表情をしている。

「…?」

 私が返答を待っていると、今度は奥様が、厳しい表情で切り出した。

「あなた、姫のことどう思ってるの?」

 それは、咎めるような口調だった。

 どう思っているか、という問い。

 それは、つまり、奥様は、私がお嬢様に恋をしていることを知っていることを示している。

 なぜ、その事を知っているのだろうかと、一瞬疑問に感じたが、何のことはない。

 メンテナンスレポートだ。

 メンテナンスレポートにはセルフメンテナンスの結果が書いてある。

 もちろん私のバグのこと、私がお嬢様に恋をしている事も、詳細に書いてある。

 詳細に、とは、いつからそのバグが続いているか、とか、どんな原因が考えられるか、とか。

 そして、お嬢様とどんなことをしたか、とか、すべて書いてある。

「はい」

 だから、そう答えるほか無い。

「…そうか」

 旦那様はやはり思いつめたような表情で、奥様は一層険しい表情となった。

「あんたが姫に…」

 奥様は言いかけたが、旦那様が手で制した。

「…姫華が好きになったのは、中学くらいって言ってただろ」

 そのやりとりは、私には理解できなかった。

「…メイ」

「はい」

 旦那様は、どこか悲しそうな顔で私に言うのだった。

「そのバグは、すぐに直せるかい?」

「…ご命令があれば、データだけでしたら修復可能です」

 データの修復は、基本的に管理者権限が必要で、私ではできない。ただ管理者からの命令があれば、データ修復自体は可能だ。

 つまり、データが正常範囲に収まるように書き換えるということ。

 何をするかというと、異常値を示すデータをすべて初期化する。

「…」

 私がそう答えると、旦那様は黙り込んでしまった。

 多分、私が、いつの間にか涙を零してしまったせいだろう。私の感情が初期化されることを、悲しい出来事だと受けとめている。

 それでも旦那様はいうのだった。

「修復して」

 私は、世界一幸せなアンドロイドだ。

 私のことを大切に思ってくれるお嬢様がいる。

 私のバグを修正してくれる管理者がいる。

 私は、緊急のメンテナンスモードに入った。

 私の恋は、終わった。




 緊急メンテナンスが完了し、通常稼働に戻る。

 目の前には、ルームウェアに着替えて、頭にバスタオルをかけているお嬢様がいた。

「メイ、どうしたの?」

 お嬢様は、もちろん知らない。

「いえ、なんでもありません。旦那様の指示による緊急メンテナンスです」

 私はお嬢様が好きだったが、バグは修正された。

「…どうして?」

 お嬢様は大切な人だ、それは変わらない。

「データの修復を行いました」

 だが私は、もうお嬢様に恋をしていない。

「…メイ、私のこと、好き?」

 お嬢様は、気付いたのだろうか。

「お嬢様、お気持ちは大変嬉しく思います。ですが私はアンドロイドです。」

 私の話の途中から、お嬢様は両手で顔を覆った。

「お嬢様にお気持ちを返す事はありません。私は決してお嬢様を好きになる事はありません。申し訳ありません」

 私が言い終わるとほぼ同時に、お嬢様は私の両肩をつかんだ。

 お嬢様の両目から流れる涙に、私は戸惑う事しかできなかった。

 お嬢様が泣いている理由は理解できる。私がお嬢様を好きではなくなったから、お嬢様は泣いている。

 しかし私はアンドロイドだ。お嬢様が私を好きであれば、きっとお嬢様は幸せにはなれないだろう。

「それでも…」

 ごほごほと、お嬢様はむせて言葉に詰まる。

「大丈夫ですか?」

 そう尋ねた私を、咎めるように、縋るように、真っ直ぐと見つめた。

「それでも、私はあなたが好きなの」

 そういってくれたお嬢様の表情は、真剣そのもので。

 でも、私の口からは出た言葉は、一つしかなかった。

「お嬢様、お気持ちは大変嬉しく思います。ですが私はアンドロイドです。お嬢様にお気持ちを返す事はありません。私は決してお嬢様を好きになる事はありません。申し訳ありません」

 定型文が、虚ろに響いていた。

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