半分の月がのぼる夜に、お嬢様と逃げ出すということ

 その出来事は、少なくとも私にとっては唐突だった。

 時刻は零時を過ぎ、私はいつものようにリビングの隅でメンテナンスモードに入っていた。

「メイ」

 名前を呼ばれ、即時にメンテナンスモードから復帰。目を開けると、そこにはお嬢様が立っていた。

 お嬢様の服装は、いつも寝るときに着ているルームウェアでも、まして学校の制服でもない。

 カーキ色の膝下くらいのフレアスカートに、白いノースリーブのハイネックブラウス。それと藍錆色のキャスケット。

 こんな深夜に、お出かけモードだ。

「お嬢様、御用でしょうか」

「出かけるわ、ついてきて」

 それだけ言うと、お嬢様は私の手首をつかんで踵を返す。声色を検証すると、怒りがわずかに含まれているようだった。

 つかつかと玄関に向かって歩いていくお嬢様に手を引かれ、私はそのあとを追った。

「お嬢様」

 声をかけるが、反応はない。

 玄関まで移動すると、お嬢様はつかんだ手首を離し、手早く靴を履いた。

「メイも履いて」

 何もわからないまま、ただ命令に従い靴を履く。買い物など、外に出るタスクを実行するときに使用する靴だ。

 できるだけ手早く靴を履いた私を、お嬢様はまじまじと見つめている。

「お嬢様、ど」

 うしました、と問うまもなく、私の腰に手を回した。驚きながらもなすがままにされると、お嬢様は私のエプロンを外し、廊下のほうに無造作に放った。

「行きましょう」

 私の目を見つめながらそう言うと、再びお嬢様は私の手首をつかむ。空いている方の手でドアを開けると、力強く私の手を引いた。

 人感センサーの玄関灯がぱっと灯る。私は少し前のめりになりながら、お嬢様のあとに続き屋外に出た。

 郊外の住宅街は、この時間は完全に寝静まっている。夏を目の前にしているせいか、気温はそれほど低くはないようだ。

 深夜の静けさと高めの湿度の中、お嬢様は力強く踏み出した。どこに行くのかもわからないまま、私はできるだけお嬢様に合わせて歩を進める。

 敷地外に出て、私とお嬢様は音のない住宅街を歩く。

 昼に買い物に行くときなどによく使う道だが、夜に歩くのは初めてだ。私のデータに、同じ位置の別時間帯の情報として保存された。

「…こんな風に見えるのね」

 お嬢様はそう呟くと、歩く速度を徐々に緩めていく。私とお嬢様は並ぶような形となる。

 街灯の下、お嬢様は歩みを止め、じっと私の顔を見る。

 泣きだしそうにも見えるし、怒っているようにも見える、解釈の難しい表情をしていた。

「お嬢様?」

 お嬢様は、何も答えない。

 前を向きなおすと、握っていた手首を離す。かわりに私の手を握り、指を絡ませた。

 恋する私は、すこしだけ『胸が高鳴る』。

 手をつなぎながら、並んで静かな住宅街をゆく。

 二〇五一年六月二日の月は、ちょうど半月だった。

 半分の月明りと、わずかな街灯の光が私とお嬢様を包んでいた。




 並んで歩くこと、およそ十三分。

 静かな住宅街を抜け、小さな橋を渡る。少しだけ坂を上ると、私とお嬢様は大通りに出た。

 車の交通量が一気に増えたが、それでも歩いている人は見当たらない。

 そのまま少し歩いたところで、お嬢様は立ち止まった。

 地下へと続く階段が目の前にはあった。地下鉄の出入り口だ。

「お嬢様、地下鉄に乗られるのですか?」

「…ええ、そうしましょう」

 時刻は一時前。昼間に比べると本数は少ないが、深夜も自動運転の地下鉄は走っている。

 地下への階段を下り始めたお嬢様。

 手をつなぎながら、少し遅れて私は後を追った。

「どこへ行かれるのですか?」

 お嬢様は私の問いに答えず、とんとんとリズムよく階段を下りる。私もそれに合わせ、階段を下る。

 やはり周囲には人はおらず、人間はお嬢様がいるだけだった。

 階段を下りきると、すぐ目の前に改札機。お嬢様はどこからか取り出したカードを改札機にあてがって通過する。私もお嬢様のあとに従って、手をつないだまま通過する。私は「自律手回り品」扱いなので、電車の乗車は無料だ。

 改札を通り抜け、またわずかな階段を下るとホームに出た。二つの線路に挟まれていて、右側が下り線、左側が上り線のようだ。

 お嬢様は電光掲示板を睨んでいる。電車の時刻表が、上りと下り、次とさらにそのあとの二つが表示されている。

 キャスケットの下のお嬢様の顔は、すこしだけ不安そうだ。

「お嬢様、目的地が明確でしたら案内可能です」

 状況を判断して、有用そうな機能が搭載されていることを申告するプログラムだ。

 声をかけると、お嬢様は驚いたように私を見る。

 ふっと、お嬢様は吐息を漏らした。

 不安そうな顔は、少しずつ変わっていく。

「そっか、ありがと」

 やわらかい表情になったお嬢様に、私は『安堵』した。人間はこんな時に安堵するのだと、プログラムはそう判断したということらしい。

「…そうね、メイ、海はどっちかしら?」

「海水浴場でしょうか」

「ええ、そうね。砂浜に座って、月が見たいの」

「でしたら下り線ですね」

 お嬢様の手引いて、向かって右側に移動し、乗降口のそばまで案内した。並んで電車を待つ形になった。

「目的地までは約二時間三十分です」

「ええ、ありがとう」

 お嬢様はお礼を言うと、指を絡めたままゆっくりと私にもたれかかった。私の肩から二の腕のあたりにかけてお嬢様の体重がかかり、キャスケットからはみ出たお嬢様の髪の匂いがはっきりと認識できる。

 私の中の、いくつかの『気持ち』に変化が生じた。「充足」や「安心」だけでなく、「緊張」や「苦しみ」というアトリビュートがあがっていた。

 人間の持つ恋愛感情は私にはわからないが、幸福で満ち足りていて、でも落ち着かなくて苦しい、そんな「気持ち」が、私の恋愛感情のようだ。




 数分後、やってきた地下鉄に乗り込んだ。乗客はひとりもいない。

 お嬢様はロングシートの端の席に座り、私がその横にかけると、地下鉄は静かに走り出した。

 かたんかたんと定期的にリズムを刻むたび、つり革は同期されているかのように同じタイミングで跳ねる。向かいの窓には、私とお嬢様が映りこんでいた。

 先ほどと同じように、お嬢様が私にもたれかかった。こてん、とお嬢様は私の肩に頭を預ける。

「お疲れですか?」

「…いや、大丈夫」

 お嬢様の顔色を伺おうとするが、私からではキャスケットで半分以上隠れてしまっている。

「ねえ、メイ」

「はい」

 んー、と少し言いよどんでから、お嬢様は続けた。

「私ね、お父さんとお母さん、別に嫌いなわけではないのよ」

 旦那様と奥様の話が急に出てきたことと、会話の意図が汲みとれなかったことで、会話機能にラグが生じた。

「…そうなのですか」

 窓に映ったお嬢様の表情確認するが、特別な感情は見えない。

「まあ、ここまで私を大切に育ててくれたのだから、当たり前だけれど」

 電車は間断なく揺れている。

「ふたりが正しいこともあると思うし、私が間違っていることもあると思う」

 お嬢様の表情も、声音も、とても冷静なものだった。

「こんなことをして、ふたりともとても心配するでしょうね」

 こんなこと、というのは今の深夜の外出のことだろうか。

「心配をかけたいわけでもないの、私だっていい子でいたいわ、本当よ?」

 お嬢様は私を見あげる。キャスケットの奥の瞳は、悪戯っぽく笑っている。

「お嬢様は、旦那様と奥様を大切に思っていらっしゃるのですね」

「ええ、とてもね」

「良いことだと思います」

 お嬢様はくすりと笑った。

 私は、とても穏やかな『気持ち』だった。

 誰もいない、私とお嬢様だけの空間で、お嬢様が笑ってくれているのが、私には『幸せ』だと感じられた。

 そのまま、お嬢様は何も言わない。ゆっくりと時間が流れていく。

 車内アナウンスが流れ、次の駅が近くなったころ、お嬢様が言った。

「でもね」

 お嬢様は、ふと悲しそうな表情をする。

「許せないことも、あるの」

 声色も、悲しそうだと判断出来た。




 私にもたれかかっていたお嬢様が、ふいに体を起こす。

「ねえ、覚えてる?」

 私のほうを見て、そう尋ねた。私には、もちろん何のことかわからない。

「なんの話でしょうか?」

 そう聞き返すと、お嬢様は笑う。

「あなたがうちに来たばかりのころの話。私が、怪我をして帰ってきたでしょう?」

 なんで怪我をしたのかなんて覚えてないけれど、とお嬢様は続けた。

 私は九年前のデータをサルベージした。ローカルにはほとんど残っていないので、過去のデータを保管する外部ストレージにもアクセスする。

 少々お待ちください、と私が言うと、思い出すまで時間がかかるなんて、まるで人間みたいねとお嬢様は笑った。

 件の「私が来たばかり」「お嬢様が怪我」などのワードに当てはまるデータは、確かにあった。いくらかのデータ欠損もみられたが、読み込み自体には問題はなかった。

「データが見つかりました」

 私がそういうと、お嬢様は悪戯っぽく笑う。

「そこは、『思い出しました』って言って?」

「失礼しました、『思い出しました』」

 お嬢様の指示通りに言い換えると、お嬢様くつくつと笑った。

「それで、その、怪我した時」

 一通り笑い終えると、お嬢様は話を戻した。

「怪我をして、たぶん泣いて帰ってきたんだと思うんだけど、あってる?」

「ええ、その様です」

 データと照合すると、その日は学校から帰ってきたお嬢様は怪我をされていた。肘のあたりをすりむいていて、なぜ怪我したのかはデータに残っていない。データが欠損したのか、そもそも知らなかったのかもわからない。

 泣いて帰ってきたお嬢様に、私は手当てを施した。

「消毒をしてくれたあと、大きな絆創膏をぺたりと張ってくれたのね」

 間違いない様だ。

「それでも泣き止まない私に、貴女がなんて言ったか、覚えてる?」

「…申し訳ありませんデータが欠損しています」

 そっかぁ、と言ってお嬢様は残念そうな顔をした。

「私の記憶にはね、『いたいのいたいのとんでけー』って貴女は言ったの」

 おかしいでしょう?とお嬢様は言いたげだ。

 確かに、怪我をした子供に『いたいのいたいのとんでけー』と言う、そんなプログラムが自分に組み込まれているとは、考えられなかった。データが欠損しているのが大変悔やまれる。

「私にはね、それがとってもかわいかったの」

 お嬢様は微笑んだ。

「子供にどう接したらいいかわからない、不器用なお姉さんみたいで」

 それから、お嬢様は私に懐いたのだと語った。

「あなたが洗濯物を畳むのを真似てみたり、算数の宿題を聞いてみたりね」

 確かに、その後からお嬢様が私の家事を手伝ってくれるようになった。

「それにしてもデータがないのは残念ね」

「申し訳ありません」

 データを長期的に保管する際に圧縮をかけるが、不要と思われる部分を削ったりすることがある。そのため、どうしてもいくらかの欠損ができてしまう。

「恥ずかしいから、忘れたふりしてる?」

 お嬢様は意地悪に笑いながらそう尋ねた。

「いえ、そのようなことはありません」

 私が否定すると、お嬢様は笑った。冗談だったのだろうか。

「私がもし、いま同じように怪我したら、同じことしてくれるのかしらね?」

 お嬢様の問いに私は答えることができなかった。

 車内アナウンスは、乗り換えの駅が近いことを知らせていた。




 電車を二回乗り換え、目的の駅までたどり着いた。

 階段を上り、地下鉄の駅の出入り口を出ると、空気に海の匂いが混じっていた。

 海は、まだ見えない。

「こちらです」

 と言って、お嬢様の手を取った。マップを頼りにナビゲートする。

「エスコート、よろしくね」

 私とお嬢様は、また並んで夜を歩く。柊家の地元よりも街灯が少ない分さらに暗かった。

 宵闇の中、マップを頼りに進んでいく。五分も歩けば、砂浜に出られるはずだ。

 道に並んでいる街灯と街灯の間などは本当に暗く、半分の月明りでは、隣を歩くお嬢様の表情も確認できない。

 わずかに聞こえる潮騒の中で、お嬢様の体温を感じながら歩く。

「静かね」

 お嬢様は言った。

「ええ、そうですね」と返答した。

 そのあとも、短い会話を何度か繰り返す。

 そのうちに、潮の匂いが濃くなってきた。徐々に潮騒もはっきりと聞こえてくる。

 少しして立ち止まる。

「…ついた?」

「ええ、到着いたしました」

 アスファルトの道路の上から海を見下ろせる場所に立っていた。砂浜には誰もいない。

 私とお嬢様で、コンクリートの階段を下る。砂浜に降り立つと、お嬢様は、なんだか変な感触ね、と言って笑った。

 半分の月は、まだ空にある。その月あかりは、海面にも写っていた。

 すとん、とお嬢様は砂浜に腰を下ろした。私もそれに倣って、お嬢様の隣に腰かける。

 お嬢様は、私の膝に頭を乗せた。

 最近のお嬢様が、ベッドの上でやるのと同じように。

「この砂浜が、今日の私のベッドなのね」

 お嬢様は仰向けになり、私を見ながら言った。

 表情はあまり見えないが、声色からは楽しんでいるように聞こえた。

「貴女は、枕ね」

 その格好のまま、お嬢様は話し始めた。

 私とお嬢様は、月の話をした。

 私とお嬢様は、灯台の話をした。

 私とお嬢様は、迷子の話をした。

 そのうちに、お嬢様は眠ってしまった。

 そのお嬢様の寝顔を、私はただ『愛おしく」感じていいた。




「帰りましょうか」

 目を覚ましてからしばらくして、お嬢様が言った。

「かしこまりました」

 そう返答すると、お嬢様は立ち上がる。ぱたぱたと、衣服に付いた砂を払っている。

 私も立ち上がり、お嬢様の背中についていた砂を払った。

 一通り払い終わると、お嬢様は歩きだそうとする。

 が、砂に足をとられたのか、バランスを崩して膝と手をついてしまった。

「お嬢様」

 私は慌てて声をかける。私も膝をつき、お嬢様の様子を確認する。

「大丈夫、平気よ」

 お嬢様はそう言って立ち上がる。私もお嬢様の身体を支えながら一緒に立ち上がった。

 私はお嬢様の手のひらを確認した。砂がついており、強く手をついたせいか少し赤くなっている。

 手のひらの砂を払いながら、私は言った。

「いたいのいたいのとんでけー」

 お嬢様は、声をあげて笑った。




 私とお嬢様はまた歩き出した。

 結局私は、なぜお嬢様が急にここに来たのか、わからないままだった。


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