-6-
夜明け近くに町を吹き抜けた山おろしは、たった一枚の毛布にもくるまる余裕なくぶっ倒れていた、三文長屋の貧乏男の目を覚ますには、十分すぎる冷たさだった。
ぶるんと体を震わせて、違えた首をぐきぐきいわせて、男は起き上がった。目の前に転がっているビタ銭を見て、男はすぐ、自分が銭の精霊に百万に増えろと言ったことを思い出した。結局、増えたのは精霊だけで、元のビタ銭は一枚のままだった。
ちぇっ、百万枚にはならないのか、と舌打ちしたあとで、男は狭い自分の部屋を見回した。当のビタは、どこにもいなかった。男は開け放たれた窓に歩み寄って、外を見た。空はまだ暗く、精霊が去る時間には、まだ早い。……ボロボロの靴を履き、ビタ銭を持って、男は外に出た。向かいの鍛冶屋を覗き込んでみると、ビタの大群のせいでさんざんな荒らされようだったが、ふいごから出てきたちぢれっ毛の少年精霊はまだその場にいて、酔って眠る鍛冶屋のヒゲを引っ張って、けらけらと笑っていた。……だったら、ビタもまだどこかにいるはずだ。
「おぅい。ビタやぁい……」
寒さとひもじさで、つぶやき声しか出なかったが、男は冷たい風に吹かれて震えながら、ビタを探して町を歩き回った。
なぜ探そうという気になったのか、男にもよく解らなかった。別に、ビタが心配になった、というわけではない。ただ、祭りの夜、へんてこな力を持った精霊がせっかく自分の前にも現れたのだ。濡れ手に
そこかしこから、再開された祭りの賑やかな声が聞こえてくる。だが、夜明けはゆるゆると近づいていた。音を吸い込んでいくかのように厳粛に、町並みが白々と浮かび上がっていく中、男が、町の中央を流れる川にかかるアーチ橋にさしかかると、その真ん中に、精霊ビタは、顔を膝にうずめてうずくまっていた。
ビタが放つ光は、朝が近くなったせいか、少し弱まっていた。
「ビタよぉ」
男が呼びかけると、ビタは顔を上げた。ビタの顔は、虹色の涙に濡れていた。だが、男の姿を見て、笑顔を作り、白く光る東の空を背にして立ち上がった。精霊の輝きは、淡い空に溶けていきそうだった。
「なんか、あったのか」
男の問いかけに、ビタは、うぅん、と首を横に振った。
何があったか答える代わりに、小さな声で、けれどはっきりと言った。
「ここにいて、いいんだよね」
男は、ビタの頭に、ぽんと手を置いた。ぎゅ、とその小さな頭を握り、ぐるぐるぐる、と、光る髪の毛をかき回した。
「いてもらわにゃ困る。おめぇは今、俺の全財産なんだからよぅ」
そして、もう片方の手を握り拳にして、ビタの前に突き出した。拳を開くと、その手の上には、一枚のビタ銭がのっかっていた。
「ありがと……」
ビタは、目を細めて微笑んだ。今度は、こころからにじむ幸せな笑みだった。……同時に、朝日がきらりと東の尾根に顔を出した。
男の手の下で、強まる旭光に、溶けていくかのように、薄れていく精霊の光。そうして、ビタは、微笑み顔のまま、音も立てずに消え去った。彼女の本来
男が長屋に戻るとすぐ、向かいの鍛冶屋のおかみさんが、扉をノックした。おかみさんのいわく、
「どうせ暇なんだろ、
鍛冶屋は、ビタの大群の影響を最もハデに
ビタのおかげで、男はひとつ仕事を手にしたことになったわけだが、「ビタのおかげ」は、結局それだけだった。当然のことながら、あの金貸しが没落したとか、借用証を
日がな掃除をして、鍛冶屋のおかみさんから賃金をありがたく受け取った後、男はパン屋に向かった。ふつうなら祭りの翌日は誰も店を開けないところだが、そのパン屋だけは毎年昼過ぎに開店するからだ。
あちこちでつけを返しつつ、パン屋にたどり着き、ようよう空腹を満たすべく、残った銭でパンと牛乳を買おうとしたら、銭一枚分足りなかった。
男が困って、ポケットを探ると、昨夜ビタが現れた、あの磨いたビタ銭が出てきた。
「ま、えっか」
値切るのも面倒だった男は、ためらいもなくその銭をパン屋に渡した。
金は天下の回りもの。
それより、今夜は、ビタ銭一枚すらない。世を嘆きながら、明日の仕事の算段を、毛布にくるまりながら思い巡らせるしかない。まったく、魔法学者がどう頭をぶっつけあっていようと、男にはどうでもいいことだったのである。
<終>
ビタ銭、一枚 DA☆ @darkn
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