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いちおうこの世界この町の住人だから、精霊は何度も見たことがある。男は驚いたりあせったりはしなかったが、かわりに首をひねった。……うちに精霊が出てくるようなもののあるはずがない。家具も服もないのだ。
かまどか? 目が慣れてきた男は、四つんばいになって、少しだけ精霊ににじり寄った。……いや、かまどは、三年前怒りにまかせて蹴ったら壊れた。借家だから、男にしては
じゃあ、脱ぎ捨てた靴か? 男はもう少し精霊ににじり寄った。いや、違う。ゴミ捨て場で拾ってきたものだから、いつ作られたかはわからないが、三年越しているとはとうてい思えない。だいいち大切にした記憶もない。かかとを踏みにじり、磨いたことも洗ったこともなくすえた臭いを発する靴に精霊が現れたとして、笑ってくれるとも思えぬ。
もうひとつ近づいてみて、男にはやっとわかった。
精霊は、放り出したままのビタ銭から、現れていたのだ。
肌をときどきなでながら、幸せそうな笑みを見せる精霊の少女。そうか、きれいに磨いてやったから、うれしくなって現れたというわけか。その行為に至った理由はさておき、男にはようやく合点がいった。
今度は精霊の方が、男をまねて四つんばいになって近づいてきた。とても楽しげに、目を細めて、微笑みながら。そして男の鼻っ先まで顔を近づけ、男を指差してのたまわく、
「ニンゲン!」
男は
「なに言ってやがる……俺がニンゲンなら、そんなら、てめぇなんかビタだ」
「ビタ?」
精霊は自分を指差した。……それから、バンザイした。
「ビタ!」
名前をつけてもらって、とってもうれしそうだ。
男は、やれやれ、とひざに
銭の精霊ビタは、あまり機嫌のよさそうでない男を不思議そうに見ながら、ぺたこんとお尻を落として座り込んだ。男は、もいちどしげしげと、頭の先から足の先まで眺めてみた。光る以外は、ただの女の子、にみえる。
ふぅむ、と、男はうなった。精霊は役に立たない。そんなことはわかっている。だが、と、男は、相も変わらぬ貧乏人らしいけちくさい発想を、頭の中でぐるぐる回した。何せ銭から出てきた精霊なのだ。ちっとは、今の空っぽの腹とふところを埋めるたしにならんだろうか。
男は、ビタに話しかけた。
「ビタよぅ、おめぇ、なんかできるか」
ビタはまんまるな瞳で男を見つめて、ふにょんと首を横にかしげた。質問の意味がよくわからない、というように。
「飯をここに、ばぁんと出したり、できねぇかよぅ」
「メシ?」
問い返されて、男はうーむとうなった。「飯」がわからないのではどうにもならない。男は要求を変えた。
「じゃあ、銭だ。銭をここに、たんまり出してくんねぇかなぁ」
「ゼニ?」
「銭だよ銭。かね。コイン。銅貨銀貨金貨」
ビタはさっぱりわからない様子だった。
「おめぇ、銭のくせに銭がわかんねぇのか。困った奴だ」
当然といえば当然の話、銭自体は食事しないし買い物もしない。どっちも、するのは人間だけだ。しかし男にそういう考えはひとひらも思い浮かばず、このわからずやの精霊め、とあきれ果てていた。
「いぃか、銭っていうのはなぁ、まるくってぴかぴかした金属の板で……」
男はここで、またうーんとうなった。何せ貧乏人だから、貨幣についてそれ以上うまく説明ができないのだ。貧乏人でなくたって、普段なにげなく使うものの説明というのは、誰しもうまくはできないものだ。男はいらついて、思わず声を荒げた。
「えぇい、とにかくよぉ、おまえが出てきたあれだよ。銭ってのはな、おまえのことなんだよっ」
……そこで、はたと思い当たってぽんと手を叩いた。
そして言った。
「おまえ、増えろ。おまえが一万人、いやもっとだ、百万人に増えればいいんだ」
この言葉は、ビタにも理解できたようだった。ビタは、ぱあっと顔を輝かせた。拾われた捨て犬のように。
「おちゃのこ!」
ビタは、そう元気よく叫ぶと、……言われたとおり、その場で百万人に増えた。
分身、分身、また分身。またたく間に男の部屋はビタでいっぱいになった。
何しろ精霊は触われる存在なので、当然男はあっという間にビタの大群に壁に押しつけられ、首の筋をぐきりといわせて、それっきりのびてしまった。
それでもビタは増えるのをやめない。長屋の中に入りきらなくなり、扉と窓のかんぬきが耐えきれずにへし折れ、ばん、と大きく開いた。そこから、分身したビタは、次々に長屋の外へ飛び出してゆく。
……そして、町は大混乱に陥った。
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