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金がないのだ。
彼の手元にはもう、ビタ銭が一枚しか残っていないのだ。
こんなビタ銭一枚ではパンも買えやしない。薪も買えやしない。
祭り明けの明日は、どこに行ったって仕事の口などない。それどころかほとんどの店が閉まっていて、恥を忍んで生ゴミをあさる最終手段さえ、できるかどうか怪しい。
男の部屋に家具はない。もう全部売り払った。
男の部屋に衣類はない。もう全部売り払った。今彼が着ているもの以外は。
首が回らぬとはまさにこのことだ。どんなに首を縮めても、寒気が体中を駆け巡る。体を動かせば骨のきしむ音がする。
むろん男はひげぼうぼう、肌は垢まみれでまっくろけ。目は落ちくぼみ、もし貧乏神の絵を描きたいと思ったら話は簡単、彼の似顔絵でばっちりという人相だ。にっちもさっちもどうにもやりくりききやしない。
男はまたひとつ歯と喉をふるわせてうーんとうなり、今度は腕を組んだ。嘆いていても始まらぬ。目の前のビタ銭をどうにかして百倍、いや千倍にする算段はないもんだろうか。……腕を組んだだけで湧き出す知恵があるなら、かくのごとき貧乏をするわけがない。思いつくことといえば、こいつを庭に
それにしても汚い銭である。男はビタ銭をしげしげと眺めた。手垢がこびりついて、まるで泥のかたまりだ。この国の女王の肖像があるはずだが、顔の輪郭しかわからない。
この硬貨が、もし何らかの価値があるものだったとしても、こんな汚けりゃあ、古銭商だって相手にすまい。
……逆にいうと、きれいだったら古銭商が相手にしてくれるような珍奇な硬貨かもしれない。あさましいというかみみっちいというか、そんなせんない考えに思い至って、男は井戸に走り、誰かが捨てていった欠け椀に水を
手垢がこそげ落ち、少しは輝きを取り戻したが、やはり、どこにでも流通している何の変哲もない硬貨だった。むしろ傷や欠けが目立ってしまい、女王の顔もろくに判別できないほどすり減っているとあっては、古銭の価値は永久につきそうになかった。いったいこれまでに何人の手を経てきたのだろうか、どうやら、製造されたのは一〇数年は前と思われた。
男は、ほぅと息をついた。やっぱり、こんなビタ銭一枚では、どうにもならない。明日は一日、何も食わず腹を空かしたまま部屋にこもって、鬱々としているしかない。むろん、そうしてみても、あさってに仕事が見つかるかどうか、なんのあてもありはしない。
とほうにくれて、ビタ銭をかまどの前に放り出したままで、板むき出しの床にごろんと横になった。すきま風がすぅすぅと吹き込む中、唯一残った毛布にひっくるまり、寒さとひもじさに体を縮めながら、男は半ばむりやりに眠りについた。
だが、夜中に目が覚めた。寒さだけではない。向かいの鍛冶屋で大歓声があがったからだ。今年もふいごや金槌から、精霊が現れたのだ。
男は舌打ちして、また毛布を肩までたくし上げ、まぶたをかたく閉じた。朝は遠い。空腹をごまかすためにも、男はとにかく眠りたかった。だが眠れなかった。
鍛冶屋でさっそく始まったどんちゃん騒ぎが、うるさいのだ。こぼれ出る光が、まぶしいのだ。頼むから眠らせてくれ。男は、歯噛みしながら耳をふさぎ、なおかたく目を閉じた。だが、玄関とは逆方向を向いているはずなのに、まぶたに刺さる眩しさはいやますばかり。こどもがくすくす笑う声まで塞いだ耳を通して聞こえてくる。
男はしばらくぎりぎり奥歯をかみ締めていたが、すぐに我慢がきかなくなった。えぇい、くそったれ鍛冶屋め、文句を言ってやる。くわと目を開いてはね起きた。
……男が目を開くことができたのは一瞬だった。
男の部屋もまた、まぶしい光とくすくす笑いに満たされていたのである。
白く赤く焼きついた目をこすりこすり、何度もしばたたいた。そうしてよくよく見れば、かまどの前に、一〇歳ほどとみえる、やせた髪の短い少女が、ひとり座っていた。その体は、身にまとう
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