第5話 積極的回避

「逃げ回れ。そうだ、困難も面倒ごとも、責任も…。苦悩も。何もかもすべてから逃げ回れ。」

 ……脳裏で呟く。逃避は生存本能だ。


 大学へ足を向けることをやめて、数日が経った。理由は特にない。面倒だったから、というのが最も適切だろう。その程度の理由で、僕はいつでも逃げ回る。

 仰向けに寝転ぶ、視界に入る天井のシミが自分のように見える。シミが人の顔に見えることは、たしかなにがしかの病気だと聞いた事がある。…馬鹿らしい。

 窓の外からは、子どもたちが下校しながら遊ぶ元気な声が響いてくる。素直に、それが喜ばしいものだと感じる自分に、どこか安心を覚える。出窓の外では、鴉が何やらばたばたと騒がしい。それも慣れれば、特に悪いものではない。

 無気力に過ごす一日は、まさしく瞬く間に過ぎ去る。大切な何もかもを置去りに、残していくのは怠惰と、無力感と、若干のほろ苦い後悔。そして、明日への不安の尾。どれを並べ立てても、生産的ではない。しかし、逃避という甘美な瞬間的快楽は、僕を惹き付けてやむことがない。

 幸福は、時に恐怖だ。得体の知れないものならば、それは尚更に。そして、恐怖は、最も確実に避けるべき対象だ。僕は、沙耶との会話の中に、若干の幸福を見いだした。そして、その会話の存在する大学という括りの中にも、若干の幸福を見いだした。……それは、間違いなく僕に、若干の恐怖を植え付けた。喪失と裏切りというどこまでもついて回る不安の種とともに。

 僕は、当然、その恐怖と不安の種から、遠ざかることを選んだ。今までの経験から、それは至極当然に、当たり前の選択として僕の前に存在した。それは、何ら疑問の余地を挟む隙もなく、実行に移された。…はずだ。

 何を迷っているのか。何を悔やんでいるのか。何を、…何を惜しいと感じているのか。寂しいのか。僕には、わかるようで理解できているようで、わからないようで理解したくないようで、それはとらえどころのない煙草の煙のように浮かんでは消える。

 天井のシミは相変わらずどんよりと薄暗い部屋の中に浮かんでいる。僕の思考も、曇りに曇り切っている。晴れる気配はない。

 さあ、いよいよ宵闇は迫ってきた。明日をどうしようか。思考は真っ白のキャンバスに埋め尽くされる。浮かぶ文字は、逃避かそれとも闘争か。

 ………僕は。

 答えを出そうとした時、頭の横に置いてあるスマートフォンがけたたましく声をあげた。ディスプレイに表示されたのは………。

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