第3話 変な奴と不器用な奴

 昼下がりの大学の中庭は、食堂へと向かう学生の群れで幾分騒がしい。きゃぴきゃぴとした女学生や、それを取り巻く男子学生。数人で歩くものもいれば、一人で黙々と図書館に向かうものもあり、また視線を動かせば、二人仲睦まじく歩く人影もある。それぞれにそれぞれの楽しみがあり、苦しみがあり、人生がある…。

 …などと、ベンチに一人腰掛ける秀一は考えに耽っていた。とどのところつまり、彼は何もせずぼうっとしていた。元々小食である彼は、昼食を摂ることがそれほど楽しみではなかった。学生でにぎわう食堂へは一度も足を運んだことがない。

 楽しみではない、といっても、一日活動するにはそれなりに栄養が必要だ。秀一は、カバンの中からコンビニエンスストアで買ったサンドイッチを一袋取り出すと、それを食べはじめた。特に美味くもなく不味くもない。安定していて、面白みのない量産型の味。それは、どこか概念としての安心にも似ていた。

 サンドイッチを黙々と食べる秀一に、小柄な女性の影が近付く。

「横、いい?」

 沙耶は、秀一にそう問いかけた。

「…………どうぞ。」

 秀一は少し呆気にとられたような表情をした後、簡潔に答えた。その言葉に応じて、沙耶は秀一の隣に腰掛ける。

「本当に友達いないんだな、あんた。」

「そう言ったでしょ。本当にいないの。私。」

 二人とも、どことなくそれが可笑しく、少しだけ笑った。お互いの笑みを見るのは、この時が初めてだった。

 沙耶は、黒いリュックから惣菜パンを取り出し、ぱくぱくと口に運ぶ。

「お互い、寂しい昼食だねえ。」

 自嘲を込めて秀一が呟く。沙耶は無言の笑みと頷きでそれに応えた。不器用な空気が、どこか恥じらいと自尊心を伴って二人の間を流れている。

「次の講義、秀一は何限?」

 パンを食べ終え、コーヒーを呷る沙耶が、手持ち無沙汰にスマートフォンを弄る秀一に尋ねる。

「四限。あー、暇だ…。」

「あら、一緒ね。」

「一緒…か。」

 秀一はどこか遠い目をしながら、虚空を眺めている。沙耶は、その視線がどこか気に入った。

 秀一は、言葉を探せないでいる。人は、長らく人と会話することをやめると、言語を喪失していく。砂時計の砂が落ちるように静かに、さらさらと、言葉たちは抜け落ちていく。心の中にあるあれやこれやは、人間である以上言葉か行動に表さなければ、誰にも伝えることはできない。

 沙耶もまた、言葉を探せないでいる。人は、長らく孤独を好むようになると、人の心がわからなくなっていく。目の前の人間が、何を思っているのか、想像する力が欠け落ちていく。それは、孤独を好みながらも心根の優しい沙耶にとって、他者とコミュニケーションをとることへの大きな足かせとなった。

 お互い語りたい事はある。ただ、それが声帯をふるわせるにいたらない。秀一はどう表現すればいいのかがわからず、沙耶は表現すると相手がどう思うのかがわからない。二人は、臆病で、不器用で、そして互いに自己認識しているよりも、人並の知的好奇心を持ち合わせていた。

「あのさ。なんで、今日俺と昼食べようと思ったの?」

 休み時間は後五分で終わる。中庭が、食堂から講義棟へと戻る学生の群れで騒がしくなってきはじめたとき、長い沈黙の末、秀一が口を開いた。

「……なんでだろう。私にもよくわからない。私ね、孤独が好きなの。独りでいることが一番好き。でも、中庭にいる秀一をみたら、なんとなく一緒に食べよう、と思った。」

「変な奴。」

「知ってる。でも、貴方も大して変わらないでしょう。」

 …。沈黙が戻る。秀一は立ち上がり、そのまま図書館へと歩き出した。沙耶もその背中に声をかけるわけでもなく、ぼうっと見送っている。

 又後で、と言うには次いつ会うかもわからない。さよなら、というのは心の隅が少しさみしい。待って、というには続く言葉が見当たらない。沙耶には、どうしようもなかった。

 沙耶は、秀一の背が図書館に消えていくのを見送ったあと、すぐに眠気を感じた。今までただ忘れていただけだったかのように、唐突に。大きな欠伸を一つすると、腕時計をみて、中庭で煙草が吸える時間になるにはまだまだ待たなきゃな、と思った。結局沙耶はそのまま、ベンチで眠ることにした。

 図書館は、ひっそりと静まり返っている。大学の他の場所と比べると、まるで異世界のようだ。秀一は、二階に続く螺旋階段を上がると、なるべく奥の方、端の席を探して座った。席に着くと、何をするでもなく音楽を聞きながら、先ほどのことを思い返す。沙耶は、一体何がしたかったのだろう。自分に何を望んでいるのだろう…と、考えても正解のない問いが脳裏を回っている。彼女は独りが一番好きと明言した。それでも、なぜか自分との繋がりを求めているように思える。秀一には、その矛盾を理屈づけるだけの対人経験がなかった。

 わからないことはわからないままでもよい、というのが秀一の考え方だ。彼は、この問題に関して考えることをやめた。自分はしたいようにすればいいし、なるようになるだろうし、沙耶もしたいようにするだろう。

 夕暮れ。鴉がどこかで鳴いている。学内も人がまばらになってきた。沙耶は、まだ中庭でうとうとしていた。後少し。後少しで夜がくる。自由で、煙草の煙に呑まれる夜が。いつもより少し早く、彼女は煙草を取り出した。

 秀一は、帰路を歩いていた。数十メートル前を歩く女子高生たちが、きゃぴきゃぴと黄色い声をあげている。自動車が引っ切りなしに行き交う道は、排ガス臭い。空は夕焼け一色に染まっている。夕暮れ時は、秀一が最も好む時間帯だった。傾く夕日に、少し肌寒さを帯びる空気に、帰路を急ぐ人々。どれもが少しばかりの哀愁を湛えていて、彼はそれが好きだった。

 人々の一日が終わる。それぞれ退屈で、各々不器用に、そして少々の成功と満足により過ぎていく日々が、夕暮れとともに宵闇に包まれていく。美談好きの善人はこれを美しいと言うだろう。だが、当事者にとってはそれは特別でもなんでもない、ただの一日の終わり際に他ならない。それが、たとえどれほど重要で美しい出来事を孕んでいたとしても。

 何事も、第三者からみるよりは、当事者からみた方が些細な出来事なのかもしれない。あるいは、それは逆説かもしれない。

 一日が終わり、明日が来る。変人にも、不器用にも罪人にも善人にも死人にも…誰もかれにも、平等に。

 一日は、確実に終わっていく。それだけは確かなものとして、ただ、在る。

 

 

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