第2話 中途半端な孤独主義者

 スマートフォンがけたたましく朝を告げている。私は、もう三度目になるアラームを、嫌々ながら止める。

 朝は、嫌いだ。起きなければいけないから。

 私の住むアパートから、大学までの距離は近い。徒歩約五分。最高の立地だ。だからこそ、こうしてギリギリまで惰眠を貪ってしまうのかもしれない、などと顔を洗いながら考える。講義まで、残り十五分。コーヒーを淹れる時間はない。だが幸いに、煙草を一本吸う時間は残されている。

 講義室に入ると、私は早速教授に目をつけられず、ゆっくり眠れる席を探す。ポイントは前席がそれなりに埋まっていて、後列すぎない中途半端な場所を選ぶ事だ。今回の寝床を確保した私は、回ってきた出席表に名前だけ記すと、早速夢の中へと旅立った。

 本日、最後の講義が終わりを告げるチャイムで目が覚める。眠りすぎたのだろうか、頭が重いが、それでもなお眠気は去らない。ふらふらと、私は講義室を後にする。

 講義棟裏の中庭に出ると、ぼんやりとした視界の中に、空いたベンチが目に入った。自宅まで、徒歩五分。だが、今の私にその五分を歩く気力はない。目の前のベンチまで歩くのが精一杯だ。私は、睡魔に取り憑かれている。

 ベンチまで一直線に歩くと、私はそのままうつ伏せに突っ伏した。数秒後には、私は夢の中にいた。

 肌寒さに目を覚ます。視界に入る景色は、真っ暗だ。身体の節々がばきばきとしている。流石に木のベンチは、眠るには良くないロケーションだったらしい。私は身体を起こすと、真っ暗闇の中で風に揺れる木々を眺めながら、煙草に火をつけた。我ながら白く、か細い腕につけられた時計は午後八時を指し示している。もう大学に残っているのは、私と研究に邁進する熱心な教授くらいのものだろう。

 誰もいない闇に包まれた中庭、肌寒い風。そこに混ざる煙草の煙は、自由気侭な夜の到来を告げるようで、たまらなく美味しく、暗闇を漂う副流煙は悩ましげに美しい。

 ニコチンとタールの補給を終えると、私は幾分軽くなった足を帰路に向けた。大学内は閑散としており、昼間の騒々しさは嘘のように静まり返っている。

 私は、この孤独感が好きだ。空間を、時間を、世の中の全てを、自分だけが所有していると錯覚するような、この孤独感に私は昔から陶酔している。夜風は、排ガスを湛えながらもそれなりに清涼な空気を運んであたりを彷徨っている。大学前の大通りを引っ切りなしに行き交う車の群れの音、どこかで鳥の鳴く声。住宅の前に漂う、夕飯の香り。私の五感は、誰もいないアパートの一室に帰るまでの五分間を、官能的なまでに堪能した。

 愛おしい孤独に覆われた夜は、毎日明けてしまう。憎々しい太陽が空に姿を表すと、私は何もかもが億劫な、このまま眠り続けたいと願う欲求に支配される。

 朝になれば、人が動き始める。昼は尚更だ。愛すべき孤独は、この寂しいアパートの一室に置去りにされ、ただ静かに放課後の中庭を待っている。

 憂鬱な朝が過ぎ、騒々しい昼が過ぎ、期待に満ちた夕方が訪れ、今日最後の講義が終わる。それと同時に、私はこの講義のテストが来週に控えていることを急激に思い出した。眠気の覚醒しきらない頭を動かし、なんとなしに前席の机の上に目を向ける。飾り気はないものの丁寧な字でしっかりと埋められたノートがちらりと視界に映った。私は、もちろんノートなどとっていない。寝ていたのだから、当たり前だ。私の右手と口は、考えるよりも先に動いていた。

「ねえ、ちょっと。」

 席を立った男の右手の袖を掴み、私は声をかける。男は面倒くさげな顔で、耳につけていたイヤホンを外した。

「今日のノート、貴方ちゃんととってたでしょ?悪いんだけど見せてくれない?」

 自分自身で珍しい、と思うと同時に浅ましいと思った。勝手に講義中に寝ているくせに、孤独を好むくせに、こういうときだけ誰かの力を借りたがる。私は、そんな自分に幾ばくかの醜さを覚えた。私の話を聞いた男の眉間に皺が寄る。面倒くさげな表情が、さらに深みを増した。

「…友達にでも借りればいいんじゃないですか。」

「生憎。その友達ってのがいないの。私。今日の分だけ写したら返すから、待ってて。」

 こういうとき、どんな顔をすればいいのだろう。笑えばいいのか、懇願するように媚びればいいのか。私にはわからない。

 男はため息をつくと席に戻り、無言でノートをこちらに差し出した。私はそれを受け取ると、白紙の自分のノートへとそれを写しはじめた。

 数十分後。私は作業を終えた。なんと声をかければいいか戸惑い、男の肩を叩く。

「終わった。ありがとう、助かったよ。」

「そりゃどうも。んじゃ僕はもう帰るんで。」

 男はノートをさっさと受け取ると、こちらに見向きもせず講義室裏の扉へと向かおうとした。私の右手は、再び男の右手の袖を掴んだ。

「待って。私、沙耶。貴方は?」

 口と手が勝手に動いている。そう思った。男の顔は、どこか困惑したようなものに変わった。今までの関心のないような、ただ面倒そうなものとは趣が違った。

「秀一。」

「秀一、ね。本当ありがとう。助かった。」

 秀一と名乗った男はそのまま振り返らず、講義室を後にした。独り残された私は、何か調子の狂ったような、変な気分だった。そのまま席で十分ほど、何も考えずぼうっとしていた。

 すっかり夜の闇に覆われた中庭に出る。夜風は昨日より少し冷たい。私はベンチに腰掛けると、煙草に火をつけた。

 煙に取り巻かれながら、先ほどの出来事を思い返す。私は、秀一という男を利用したにすぎなかったはずだ。…自分勝手に。名乗る必要も名乗らせる必要もなかった。あれは、私の口と手が勝手に動いてしたことだ、と馬鹿らしいことを考えてみる。

 それは嘘だ。私は、彼の瞳が気になっていたのだ。最初に声を掛けたときから。どこか冷たい奥底を携えている、鏡に写る私のそれに似た瞳が。同じ臭いがする、というのは言い過ぎだろうか。でも、率直にそう思った。…自分が、そう思い込みたかっただけで他に理由があるのかどうかは、わからない。

 今日は少し早く帰ろう、そして、いつもはコンビニ弁当で済ましている夕食を、たまには自炊に代えてみよう。どこかむずがゆい、いつも通りの孤独から逸脱しようとする自分への困惑を紛らわすように、私は思考を巡らせた。

 その日の帰り道は、いつもと何ら変わらない街が、どこか浮ついて見えた。時間が早かったからかもしれないが、なんとなく街に人が多いような気がして、どことなく落ち着かずに歩いた。

 アパートにつくまでに吸った煙草の本数は、いつもより一本多かった。

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