私たちは独りでしか生きられない

鹽夜亮

第1話 中途半端な回避主義者

 今日も一日が始まる。電車に揺られ、言葉も交わした事もない見知った顔ぶれたちとともに、僕は運ばれていく。ガタゴトと揺れる車内は、どこか揺り籠のようでも、現代の歪さの象徴でもあるように思えた。

 イヤホンから流れる音楽に身を委ねながら、素知らぬ顔で適当に現代人らしい視線を配っておけば、四十分などあっという間に過ぎる。目的の駅に到着すると、僕は手慣れた手つきで定期券を車掌に見せ、高校生の群れと共に電車を降りた。

 最寄り駅から、大学までは自転車で三十分ほどもある。体力のない僕からすると、これが毎日続いているのは、それなりの拷問を受け続けているような気分だ。ましてや、それが夏ともなれば、疑う余地もない。夏休みが終わるというのは、学生にとってこの世で一番の悲劇だ。…まあこの世で一番とは言い過ぎたかもしれない。ただ少なくとも、どこか自分の見知らぬ遠い場所でいたいけな少女が殺されるような事件よりは、酷く馬鹿馬鹿しくも大きな悲劇に違いない。

 カバンを愛車のカゴに投げ入れ、一度わざとらしい欠伸をしてきゃぴきゃぴとした高校生の群れをやり過ごす。関わり合いになりたくないものは極力避ける、どこに行っても下品なクラブの中にいるように騒々しいこんな世界で生きるためにこの十数年で僕が身につけた処世術は、大体そんなところだった。人が閑散としてくると、ようやく僕は学業に励む「真面目な」僕のために足をせっせと動かし始めた。

 こじゃれた、というよりも西洋かぶれしたキャンパスは、県内の他の大学と比較しても目に見えて狭い。特徴は銀杏並木と桜と、それから手入れの行き届いているとはお世辞にも言い切れない濁った水を蓄えた噴水のある中庭だけ。そんな場所が、僕の通う大学だった。他と比べれば、幾分か静かなことと、人の寄り付かないその中庭があることが、実は僕がこの大学を選んだ理由だったのかもしれない。

 若々しい騒々しさでごった返す講義室につくと、なるべく後ろの席、そして壁際を選んで座る。騒々しいのは苦手だ。iPodとにらめっこをしながら、板書をそのままノートに写し取って、あっけなく一時間半が過ぎた。

 日々は、あっという間に過ぎていく。退屈な講義も、面白い講義も。一人でとる昼食も、図書館でうつらうつらとしながら次の講義を待つ時も。高校生に囲まれながら嫌々揺られる電車も、家族との夕食も。何もかもが、僕にとってあっという間に過ぎていく。そんな風に感じていた。

 ある日の夕暮れ時、一日の講義を終えた僕は、中庭のベンチで一人ぼうっとしていた。帰りに乗る予定の電車の時間に合わせるには、学校を出るにはまだ中途半端に早かった。

 風が中庭にそびえる何年前の卒業生だかが植えたらしい木々の葉を揺らし、さらさらと音を立てる。一日の大半の講義を終えた大学は、さっさと帰路に向かおうとする連中と、サークルやら飲み会やらで羽目を外そうとする連中とで、どことなく忙しない。何を考えるでもなく、ああ、明日の講義は朝からだっけ、面倒だななどとどうでもいい事を思い浮かべる。ベンチは、太陽の暖かさを忘れ、無機質にひんやりとした温度を僕の下半身に伝えてくる。

 ふと、人影が講義棟一階の中庭に通じる裏口から姿を見せた。それ自体は、特に珍しいことでもない。この中庭は図書館や体育館と講義棟を結ぶ抜け道のようになっていて、人通りはままある。だが、その人影は僕にとって意外な行動をとった。

 小柄で、黒い皮のジャケットを羽織ったその人影は、いかにも眠そうな表情で気怠げに歩きながら、僕の目の前を通り過ぎた。少年のような顔つきをした女性だった。女性はそのまま、僕の座っているベンチの隣にあるもう一つのベンチ向け、倒れるようにうつ伏せに寝転んだ。その後はぴくりとも動く様子がない。中庭に留まる人がいること自体も珍しいが、そもそも唐突にベンチに突っ伏す人間もなかなかに珍妙だ。一瞬気絶でもしたのかと心配したが、呼吸をしているようなので少し安堵した。何にせよ、特に関わる必要もないので僕はそのままベンチの上で何をするでも無く時間を潰した。

 明くる日。面倒だが、講義は毎日ある。午前十一時前の講義室は、いつも通り人でごったがえしている。僕もいつも通り、後ろの方の席に陣取る。そしていつも通り、ダラダラと語る教授の板書をノートに写し取る。恐らく、ノートだけを見れば僕は優等生だろう。耳元ではカートコバーンが叫んでいる。頭の中では、カートの遺書の内容がつらつらと断片的に浮かんでいた。

 講義はいつも通り滞りなく終わった。窓の外はもう暗い。さっさと帰ろうと、ノートや筆記用具をカバンに詰め込む。カバンの中で常温になったペットボトルのコーヒーを喉に流し込む。支度を終え、席を立つ。

「ねえ、ちょっと。」

 席を立って講義室後ろのドアから中庭へ向かおうとした僕は、右手の袖を掴まれて立ち止まった。視線を向けると、そこには昨日、中庭で行き倒れていた女性がいた。最低限の礼儀として、僕は耳につけたイヤホンを外した。

「今日のノート、貴方ちゃんととってたでしょ?悪いんだけど見せてくれない?」

 ああ、面倒くさい。貸し借りは嫌いだ。それに、こういう輩も好きではない。面倒ごとは、避けて通るにこした事はない。

「…友達にでも借りればいいんじゃないですか。」

「生憎。その友達ってのがいないの。私。今日の分だけ写したら返すから、待ってて。」

 そう答える女性の表情は曇ることもなく、特になんの感情も含んでいなかった。僕は、ため息をつきながら、カバンを机に置いてもう一度席に戻った。

 僕はノートを女性に差し出すと、イヤホンを付けなおして机に突っ伏した。

 数十分後。とんとん、と肩を後ろから叩かれた僕は、曖昧な眠りの中から這い出た。

「終わった。ありがとう、助かったよ。」

「そりゃどうも。んじゃ僕はもう帰るんで。」

 窓の外はすっかり夜だ。余計な時間を食ってしまった。電車の時間も確認しなければならない。当初予定していた車両には、もう乗れないだろう。

「待って。私、沙耶。貴方は?」

 今一度、引き止められる。僕は、正直逃げたくて仕方が無かった。

 人と関わりを持つという事は、失う恐れを背負うということだ。同時に、トラブルが舞い込んでくるというリスクを背負うことにもなる。関係が深くなればなるほど、それは尚更だ。僕は、僕の人生に荒波をたてるものごとを嫌う。可能な限り、それは避けるべきだ。

 つまるところ、僕は平穏で面白みもない日々に、安寧を見いだしているともいえるのだろう。幸福もなければ不幸もない、停滞の快楽に。

「秀一。」

「秀一、ね。本当ありがとう。助かった。」

 僕はそのまま振り返らず、講義室を後にした。大学の最寄り駅までの帰り道ではなんとなしに、沙耶と名乗った女性の眠そうな目だけがグルグルと脳裏を回っていた。

 電車に揺られ始め、ぼうっとしながら、僕は沙耶に話しかけられた時少しだけ嬉しかったのかもしれない、と心の隅で初めて気がついた。大学で人と話をするのは、仲の良かった友人が退学してからの数ヶ月ぶりだったことにも、帰宅して夕飯を食べている時に気がついた。その日は、どこかむずがゆいような気持ちでベッドに入った。

 もしかすると、僕は停滞の快楽に少しだけ飽きはじめていたのかもしれない。夢とも睡眠導入の意識混濁とも言いがたい曖昧な領域の淡い意識の中で、僕はそんなことを考えていた。そんな思考の背後では、廃墟の遊園地に寂しく取り残された錆びれた観覧車が、風に押されてギシギシと独りでに揺れ動くようなイメージが、やんわりと浮かんでいた。

 その日は、誰とも知れぬ女性と薄暗い観覧車に乗って、会話をするでもなく降りて…帰り際に遊園地を振り返ると、そこがもう廃墟になっている、そんな夢をみた。

 

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