第3話
電話が鳴った。
大助は藪元が無事、目標の男を捕えたという連絡を受ける。
「お前のおかげだな」
「いえいえ。三代目さんの行動力です」
日が暮れ始めてなお、部屋の中の温度と湿度は上昇していく。
グラスの中の氷は完全に溶けてしまって、中身も温くなってしまった。
「さて、これで俺とお前は大家と借家人ってことになったわけだ。そろそろ話せよ」
「なにをです?」
「お前はなにをしてここへ逃げ込んできたんだ?」
「いや、なにもしてませんよ……」
霧氏は小さく笑ってテーブルの表面をすうっと撫でた。
グラスが結露してテーブルにこぼれていた水滴があっという間に消える。
「ごまかすんじゃねえ。なにもしてねえ奴がこの街にいるはずねえだろうが」
凄味のある声に霧氏のため息が重なる。
「どうやら……話さないとなったらここを追い出されかねないお顔ですね」
「お前の答えひとつだ」
霧氏は笑みを浮かべたまま視線をテーブルに落としていたが、やがて意を決したように顔を上げて大助を見据えた。
「わかりました。三代目さんを本物の任侠の方と信じてお話しすることにします。しかし……自分のことは三代目さんの胸の内にだけ留めておいてください」
それから真剣な表情になって、そっと皮手袋をずらし手の甲を見せた。
両手の甲に、大助が見たこともない紋章のようなタトゥーがある。
「……三代目さんがおっしゃる通り、自分は確かにここへ逃げ込んできたんです。数年前、自分はある組織に属してまして……ええ、もちろん日本じゃありません。自分も実は日本人ではありません……たぶん。今は立派に成りすましてますが」
「その組織ってのは、俺たちみたいなものか」
「いえ、もっと大きな……そう、国家レベルですかね。とにもかくにも自分はそこで情報を得る術ってやつを覚えたわけです。でもある日、自分が所属していた部門が粛清され……」
「逃げ出してきた、というわけなんだな」
「まあ、そうです」
そして霧氏はタトゥーをすっと撫でた。
「これはそこにいたときの印みたいなもんです。生まれてすぐにつけられて、特殊な方法なんで一生消すことはできません。いろんな意味で目立つかもしれませんが、手袋をしていたほうがこれを隠すにはいいんです」
「追われているのか?」
「さあ、どうでしょう……自分みたいなのに人手や予算を割いたりする余裕はないと思いますが、これを晒して歩くような真似はしたくないですね」
「消すことができないのなら、手首ごと付け替えるっていうのはどうだ」
大助の提案にも、霧氏は苦笑して首を振るだけだ。
「三代目さんはその手首の提供者を海にでも浮かべるつもりでしょうが、そんな死体が見つかれば自ずと組織は動きます。自分と結びつけられて捕まるのは時間の問題ですし、付け替えたやつが自分の手のように器用に動かせるとは思えませんからね」
重苦しい空気が部屋の中に満ちる。
ややあってから大助が口を開いた。
「……俺がしてやれることは、なにかあるか」
「自分の過去は他言無用、それと……この部屋を貸してくださるだけで十分です」
「こんなボロアパートでいいのか。もっといいマンションでも……」
「そういうのは三代目さんの彼女さんに言ってあげてください。あ、でも……この部屋、ちょこちょこ弄らせてもらってるんで、そのあたりを大目に見ていただけたら……」
「そんなことは気にするな。俺も極道の端くれ、お前との約束は守るしこの部屋だって好きにすりゃあいい」
霧氏はようやく人懐っこい笑みを浮かべて、深々と頭を下げた。
電話が鳴った。
『親父、藪元です』
「おう、あのインタビューに出てたおっさん、見つかったか」
『それが……だれもあのおっさんを知らねえんです』
「知らねえ、だと?」
大助は珍しく気色ばんだ声になる。
「おい、そんなはずはねえだろう。あのおっさん、アパートに住んでる風な返事をしてたじゃねえか。霧氏じゃないとして……」
『親父、あのアパートにはあの男以外、だれも入居してねえんです』
「なに?」
『あんなボロアパートのことですしあの男の家賃はタダですから、いちいち親父には報告してませんでしたが……実質、あのアパートはあの男のものみてえなもんだったんです』
「いや、そんなことはどうでもいい。じゃああのおっさんはなんでインタビューに答えてたんだ」
『……野次馬が、答えてみたかった、ってとこでしょうか』
たとえ野次馬だとしても、あそこにはいろんな人間の目がある。
だれかが、必ず知っているはずなのだ。
『あの男が、おっさんをどっかの部屋に住まわせてたってことはないんでしょうか』
「ありえねえな。霧氏はなにより自分の素性を知られることを嫌がる」
『単なる気まぐれで……』
「俺に筋を通さねえで、そんなことをする奴じゃねえ」
いろんな可能性を否定されて藪元が黙り込む。
「とにかくご苦労だった。ヤブ、戻ってくれ」
電話を切った大助は、苦々しい表情で目を閉じた。
「霧氏……本当に死んじまったのか。それとも……とうとう追いつかれちまったのか……」
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