第21話

「――忘れてたけど、今日から梅雨入りらしいっすね」

 残業続きの六月半ば。

 現実逃避気味に見たニュースサイトでは、早く帰りたい僕の心を示すような雨予報が並んでいた。

 晴れのち雨って予報が出ていたのに、今朝は晴れてたから大丈夫だろうと高をくくってまんまと傘を忘れた僕は、さっき息抜きで一階の出口側にあるコンビニに行ったとき、自動ドアの向こうで降る雨を眺め絶望的な気分になったばかりだった。

「あ、あー……。傘忘れたなぁ」

 相沢さんは背もたれに寄りかかり、遠くに視線を向けて哀愁漂う笑みを作った。不幸のおすそ分けしてやったり。

「僕もなんすよ。コンビニで買って帰るかまだ悩んでます」

「降り方によりますね」

「そっすね」

 二人してため息をついた。

「あ、そうだ。利田さんのジャケット借りていいですか? 明日返すんで」

 何に使いたいかは聞かなくても分かったが、一応聞いてみる。

「何に使うんすか」

「雨除けに使おうかなと……」

「ふざけんなおっさん」

「ちょっと俺まだ二十代」

 しばし沈黙。

「彼女さんとは最近どうなんですか」

「なんすか急に。つか彼女じゃないっす」

「無駄話でもしてないとやってられないじゃないですか。……てか、彼女じゃないの? 俺はてっきり」

 相沢さんが驚いて僕を見る。

「いや違うんすよ、残念ながら。……まー、最近は仕事忙しくて会えてないっすね」

「それは大変申し訳ない」ニヤァってすんな。

「許されないです」

 先日相沢さんの確認漏れで大きな手戻りと修正が発生したために、現段階では大幅な遅れがでている。ああ、今日は何時に帰れるのかな……。

「相沢さんちゃんと飯食ってます?」

「帰ってから食べてますよ。律儀に待っててくれるから」

「それはそれで大変っすね」

 前ゲーム一緒にやった時に、女性の声が入っていたなと思い出す。

「気を遣わなくていいのにって思うけど、誰か待っててくれるだけでも違うものですね」

 あれ……? ふっ、と笑った相沢さんの横顔は、僕の知らない表情をしていた。……どうしてか、無性に詩穂に会いたくなってしまった。

「利田さん一人暮らしだっけ」

「ですね。まぁ食ってから帰りますよ」独りでね。

「店やってるといいね」

「そう! そこなんすよ! ってことで帰っていいっすか?」

 時間によっては冗談にならないんだよなこれが。

「今日の作業終わってるならどうぞ」

「終わってないの分かってて言わないでください」

 ふっ、と鼻で笑われてしまう。

「まぁもう少しなんで、頼みます」眼鏡を戻し、またPCを向く。

「だいぶ頑張りましたよ。終わったら飯奢ってくださいね」

「もとよりそのつもりでしたよ。冬島さんも一緒にね」

「――え、ほんとですか?」

 背後から不意に声が降ってきて、僕は今日何度目か体が跳ねるくらい驚いてしまった。

「あ、ごめんなさい。ずっとお話が終わるの待ってたんですけど……」

「いえ。はは、……もはや、わざとやってます?」

 振り返ると、冬島さんはゆっくりと首を傾けた。

「いや、なんでもないです」

 疲れが滲む顔で冬島さんは笑い、僕と相沢さんの間にA4のペラ資料を置いた。

「すみません、チェックお願いできますか」

 手を止めて、僕らは資料を覗き込んだ。

 冬島さんは以前と比べて、なんとなく雰囲気が変わったように思う。うまく言えないけど、少しか沈黙が減った気がする。余所余所しさも。

「ここ、少し説明がくどいかな。もっと簡潔な方がいいですね」

 相沢さんが表の上にある説明文を指さして言う。 

「箇条書きのほうがいいですか」

「いや、文書のままがいいかなー」

「ん、わかりました」

 紙にペンを走らせる音が降ってくる。

「難しいこと言いますね」

「形を気にする会議資料なんてそんなもんですよ。そうやって難しく弄り回して、分かったつもり、仕事してるつもりになるもんです」

 お前のことだ、と言われた気がしてグサッと来た。

「えっと……、利田さんは何かありますか」

「……こっ、ここ間違ってる気がするんですけど……」

「……あ、ホントですね。さすがです」

 下げてから上げる。これが人を育てる秘訣ってやつか。

「もっと褒めてくれていいっすよ」

「……すぐイキるのは良くないと思います」

 グサッと来た。冬島さんに後ろから刺された気分だ。

 あー、そう。冬島さん、たまに今みたいな辛辣なことを言うようになった。イキるなんて言うんだな、この子。なんかちょっと親近感。

「じゃ、引き続きよろしくお願いします」

「はいっ」

 冬島さんが席に戻っていく。

「指摘食らってるのにご機嫌ですね」

 僕は彼女の後ろ姿に独りごちる。

「疲れてるんじゃないですか。今度好きなもの聞いといてください」

 相沢さんが笑う。

「ついでに利田さん今月末を目処に、店探しといて」

「ういっす。……え?」

 店も僕が探すの? 奢りだから別にいいけど。

 少しの無駄な時間を経て、僕は集中力を取り戻した。

 この調子なら、今日は九時には上がれそうだ。

 帰ったら十時過ぎるなぁ。飯屋やってるかな。


 それから五日経った翌週明け、職場では相沢さんが言っていた通りなんとなく落ち着きを取り戻しつつあった。

 そんな時――、

「相沢くん、少しいい?」

 やってきたのは真っ黒なスーツに身を包んだ、上背も、横幅もある男性。

 僕が一年ちょっと勤めてきた間で面識はなく、初めて見る人だ。

 相沢さんはその人をちらと見て、

「十秒待ってください」

 と、答えた。少し待って、相沢さんが席を立つ。

 二人で右後方の離れた位置にある会議卓に座る。職場の会議卓は居室内にあり、二人が座った場所は背後にあるため、部屋の隅の方にいる僕でも振り返って見ようと思えば見える位置だ。

 ほかの卓では会議説明用のモニタに資料を表示しては、熱心にプレゼンをしているのに、相沢さんたちが着いた席では画面が真っ黒なままで、どことなく不穏な空気を感じてしまう。

 スーツ姿の男性が相沢さんの対面に座り、遠目に見ても重々しい雰囲気で何かを話している。

 相沢さんは珍しく腕組みをした状態で背もたれに体を預け、黙って話を聞いているみたいだった。

 話し合いの行方は気になるが、ひとまず僕は前を向いて作業を再開させる。

 PCの時計で十五分くらいで相沢さんが戻ってきた。

「はー……」

「どしたんすか。チラ見したら異様な雰囲気でしたけど」

 椅子の背もたれに頭を載せて、くくっと小さく笑った相沢さんが天井に向かって投げやりに言う。

「俺、ここからいなくなるかも」

「えっ……!?」

 言葉を失ってしまった。

「それってこの前の件が理由ですか?」

「まさか、そんなんじゃないですよ。単純に契約の更新のタイミングってだけです。いいんですけどね、いなくなるならそれでも別に。現場なんていくらでもあるんで」

 外から来ているとはいえ、相沢さんは責任者のうちの一人だ。そうそう簡単にいなくならないことくらい僕でもわかる。

「……で、ほんとは?」

 相沢さんが、切れ長の目の端に瞳を寄せ僕を見た。

 もう一つため息。

「なんかね、パワハラ? セクハラ? って言われてるらしいんですよね。まったくくだらない」

「えっ!? 誰にですか」思わず大きい声が出てしまった。慌てて口を手で抑える。

「ああ、利田さんとは関わりがない同僚からですね」

 僕はふつふつとやり場のない怒りがこみ上げてくるのを感じた。

「どういう内容なんですか?」

 相沢さんは苦笑し、

「そこまでは答えられないですよ。ただ、内容に心当たりはないんですよね。そっちに関しては、とりあえず事実無根を貫けば大丈夫でしょう」

「そうですか」

 安堵と共に怒りがすーっと引いていくのを感じる。そこでふと引っかかって聞き返した。

「……そっち?」

「いろいろあるんですよ。ま、この面倒ごと吹っ掛けてきたことに対しての、後悔くらいはさせてやります」

 相沢さんは笑っているが、前に僕へと向けた背筋が凍るような、ピリッとした苛立ちを感じる。口の中が急激に乾いてくる。

 雰囲気から怒りが滲む相沢さんを見て、この人は本気で敵に回したくないなと思った。


 ――翌日。

「利田っち、相沢くんの件聞いた?」

 冬島さんに用があって訪れたところ、冬島さんに要件を言うより早く隣席の山崎さんが僕に聞いた。

「昨日相沢さんから聞きました」

「私も聞きました! 立場を利用して強引に食事に誘ったとか、プライベートの連絡先をしつこく聞いてきたとか。そんなことする人じゃないって、見てれば分かりますよね!」

 珍しく冬島さんが後に続く。だいぶ怒っているみたいだ。

「なんていうか、他人に興味ない感じですもんね」

「ですです! もうちょっと……その」

「冬島さん、相沢くんにお熱だもんねェ」

 山崎さんはニヤニヤしながらコーラを煽った。

「そっ、そんなんじゃ……ないでしゅ(噛んだ)」

「山崎さんそれこそ『セクハラ』言われますよ」

 僕がすかさずツッコミを入れると、

「若い子は冗談が通じないねェ、怖い怖い。けど、冬島さんの言う通りだよ」

「あ、でも相沢さんが『後悔させてやる』って言ってましたよ」

「そうなの? じゃあ大丈夫じゃん? 知らんけど」

 適当さに溢れる山崎さんの言葉に苦笑しつつ、僕は「そっすね」と頷いておいた。

 相沢さんの方をなんとなく見ると、見覚えのある背姿せなかがあった。昨日の黒いスーツ姿の人だ。

 相沢さんが立ち上がり、こちらへ向くと目が合った。手招きされる。

 僕が自分を指さすと相沢さんは頷き、「呼ばれてるね」と山崎さんが言った。

 また後できます、と残して恐る恐る席へ戻ると、相沢さんの脇に立っていた男性が自己紹介をしてくる。

「初めまして。相沢の上司の長谷川と申します。利田さんですよね?」

「あ、はいそうです」

 いざ近くで立ってみると、遠目で見るよりもずっとがっちりとした体格をしていて、僕よりも背が高いのもあって圧迫感と恐怖を感じてしまった。 

 相沢さんが僕を見て言う。

「利田さん今時間ありますか? ちょっと時間もらいたいんですけど」 ちらっと、人のいない会議卓へ目をやる。

「大丈夫です」

「では行きましょう」

 と、慣れた様子で会議卓へ向かう長谷川さんの後ろについて席に着いた。

 相沢さんの方を見るとこっちに来る気配はない。

 なんとなく理由も分かっているけど、僕個人に用があるということだろう。

「すみません、突然お呼びしてしまって。改めまして、相沢の上司の長谷川と申します。よろしくお願いいたします」

 気難しそうな人と決めつけていた僕は、不意に笑顔で話しかけられて、数秒、機能停止に陥ってしまった。

 慌ててペコペコする。

「相沢さんの下で働いてる利田と申します。よろしくお願いいたします」

 緊張してるのがバレバレな僕に、

 「あはは、そりゃ突然知らないおっさんから呼び出されたら緊張しますよね。どうか楽にしてください」

 苦みを含ませた笑みに形を変えて、頷く。

 それから周囲を軽く見渡して、ほんの少しだけ前屈みになり、声を潜めて言った。

「先に要件をお伝えしますけれど、相沢の部下がパワハラされたって弊社に連絡が届きまして」

「ええ、はい。存じ上げています」

「ええ。私もね、相沢を疑ってるわけじゃないんです。ただ、それにも裏付けとか、証明が必要なんですよ。一度話題になっちゃうとうるさくて……」

 言いながら、退屈そうな右手が首の後ろをかく。

「あ、これ他言無用オフレコでお願いしますね。私が怒られちゃうので」

 戻した手の人差し指を立てて「しーっ」のポーズを取り、笑う。つられて僕も少し笑って頷いた。

「ですから、差し支えなければ、利田さんにもお力をお貸しいただきたいんです」

「そういうことなら、ぜひ」

 今度はしっかり頷いて、三十分という短い時間の中で真剣に応答した。冬島さんが初めて来る日に遅刻してきたり、仕事中に椅子で回ってたり、僕のチョコ勝手に食べたりとかいろいろと伝えた。

 ……仕事してないなあの人。いやもちろんそんなことはないんだけれど。

「――ありがとうございました。私からは以上です」

 僕は座ったまま頭を下げて、席を立ったところで。

「あ、利田さん」

「はい?」

 長谷川さんも立ち上がり、姿勢を正した。

「相沢は、利田さんにとても期待していると言っていました。今後ともよろしくお願いいたします」

 きっちり斜め四十五度のお辞儀をされてしまう。

 普段そんな素振りを見せない相沢さんの本心が聞けた僕は嬉しくなって、

「相沢さんにいつも助けていただいてばかりです。お役に立てるよう、頑張ります」

 姿勢を正し、僕もしっかりとお辞儀をした。数秒そのまま静止した後

「失礼します」

 と告げて会議卓を離れる。

 席への戻りしな相沢さんを探すと、冬島さんの席のところにいて雰囲気から山崎さんにいじられているように見えた。腕を組んだまま左右に揺れている。

 そこへ長谷川さんが近づいていき、今度は冬島さんがさっきまで僕がいた会議卓に連れられて行った。

 相沢さんが戻ってくる。

「お疲れ様。どうでした?」

「なんていうか、長谷川さんっていい人ですね」

 しばしの間、沈黙を挟んで。

「ああ、またあの人に騙された被害者が……」

「え? えっ? なんすかそれ」

 わけが分からずに相沢さんの顔と、冬島さんが身振り手振りしている会議卓を何度か視線を行き来させる僕に対して、相沢さんは「ニヤリ」としただけだった。

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