第20話
――ぱちり。
僕は入ってすぐ左側の壁にある照明のスイッチを入れる。
出かける時に足に引っかけて玄関脇で倒れていた仕事のバッグを戻し、先にフローリングの床に上がる。
「おじゃましまーす」
「どうぞー」
詩穂が背負っていたリュックを僕の仕事バッグの横に置いてから続く。
僕が先に数日分の食器が溜まったシンクで手洗いを済ませて、詩穂に場所を譲る。
少し離れたところからキッチンに立つ詩穂を見て、なんだかきゅんとしてしまった。
待ってる間に後ろから抱きしめたら、絶対怒られるよなぁ……、なんてぼんやりと思う。
一旦足下に置いていた買い物袋を冷蔵庫の前まで移動させ、1Kの狭い廊下を抜けて居間の電気をつけると、休日感溢れる室内があらわになった。
脱ぎっぱなしのまま八の字の形で放置されたスウェットのズボン、ベッドの上で壁際に偏った毛布と、空いたスペースに丸まったパーカー。
机の上には空いた昨日のチューハイの缶と、割り箸が刺さったままのカップ麺の容器、食べかけのポテチの袋、ぐちゃぐちゃのゲーム機のケーブルと、ノートPC。
僕は思わず顔を両手で覆ってしまった。なんでせめて五分だけでも外で待ってもらわなかったのか……。
「あちゃーってやつだ」
僕の横から顔を覗かせた詩穂が笑う。
「なんていうか、男の人の部屋って感じ。つか、女子だってみんな部屋きれいなわけじゃないしなー」
「フォローありがとうございます……」
「いや、それはいいんだけど、そろそろ中入っていい? 疲れちゃった」
「あ、はい」と僕は部屋に入り、ズボンを回収してベッドの上に置いてから、ベッドを背に腰を下ろす。
足の踏み場がないほどではないが、座る場所に困る程度には散らかっている。
「あたしどこ座ればいい?」
「ええと、……」
「とりあえずベッドでいっか」
片付けるから待って、という僕の返事を待たず、詩穂は背後のベッドに座る。
静かな部屋の中で沈黙が流れ、すぐに居たたまれなくてソワソワしてしまう。
僕はとりあえず今日買ってきた食料を冷蔵庫の前から持ってくると、その中から酒の一本を取り出して詩穂に渡した。
「さんきゅ」
くすり、と笑って受け取ってくれる。僕の隣に降り、それを背に寄りかかって缶のプルタブを開け……られなくて、代わりに僕が開けた。
ブシュ、と炭酸が抜ける音がする。
惣菜やらおつまみやらを、机のものを先に片付けてから入れ替えで置き、フランクフルトのパックを開けた。
その中のケチャップとマスタードにまみれた一本を取ってかじる。
「あたしもー」
「ん」手渡す。
「温めた方がよかったかな」
「まあいいんじゃない」
僕はPCの電源を入れてロック画面を解除すると、家を出る前に動画サイトで流していた、格ゲーのテクニック解説の動画を再開させる。
どうせ頭に入ってこないだろうけど別にいい。ただ何もせず黙っていると意識してしまって落ち着かないだろうから。
「こうしてると、あのお祭りの時のこと思い出すね。あの時はリンゴ飴だったけど」
「あー、言われてみれば確かに。あれからもう半年くらい経つんだよね」
「なんだろね、そんな感じ全然しない」
「昔から変わらないノリだよね」
「そだねー」
数秒の沈黙を挟んで。
「なんか黙ると照れる……」
「僕は今日一日ずっとそう。……まあ、これからもよろしく」
「あたしもよろしく。あ、変なことしたら絶交だから」
「わかってるよ」
僕は前を向いたままだったから詩穂の表情は分からなかったけど、今度は僕だけじゃなくて、詩穂からもこそばゆい雰囲気を感じた。
「さて。僕は先に風呂行ってこようかな」
明らかに作った声で言い、席を立つ。
「いってらー」
「エロ本とかないからね」
自分の分と、詩穂用のタオルなんかも併せて支度しながら釘を刺しておく。
「隠さなくてもいいのに。あ、でも今の時代はPCか」
「お気に入り登録もしてないから」
「そっかー」
なんでちょっと残念そうなんですか。
「考えてみ? 見つけたらそれはそれで気まずくない?」
「大丈夫じゃね?」
「大人しくしててくださいやがれ」
「はぁい」
……本当に分かってんのかなぁ。不安を抱えつつも、僕はユニットバスのドアを開けた。
手早くシャワーを済ませて居室に戻ると、詩穂は二本目の缶を開けていた。
「おかえりー」
僕は元の席に腰を下ろすと、飲みかけの自分の缶を煽り、おつまみの袋からさきイカを一つまみして、口に放り込む。
オッサン臭いなぁ、という詩穂の言葉は無視して、甘ったるい繊維質のそれをもっちゃもっちゃと咀嚼する。
「詩穂も行ってくる?」
「あ、あー、うん。そだね。ごめん、ビニール袋一枚もらっていい?」
「いいけどどうすんの?」
純粋な疑問に、詩穂はぶほっと音を立てて咽せた。
「脱いだヤツいれんの」
「洗濯は?」
「それはしたいけど……コインランドリーとかでいいよ。……その、恥ずかしいじゃん」
「僕は平気だけど」僕のなんて見てもつまらない無地のやつだし。
「それはそれで悔しい」
「なにが?」
「なんでもないっ」
僕の頭の上に缶を置こうとしたので慌てて受け取り、「あの時レジ袋もらっとけばよかったなー」と呟く詩穂を見送る。
僕はキッチンの引き出しに突っ込んでいるレジ袋を引っ張り出すと、扉の外から声をかける。
「袋どうする?」
「中入れといて」
「おけー」
指示通り、洗面所のドアを薄く開けて、ビニール袋を投げ入れた。
三度いつもの席。
一人になって、ふとこれからどうなるんだろうと思う。別に変な意味じゃなくて、いつまでいるのかとか、そういうヤツ。
僕だって明日はいいけど明後日は休めない。お金の問題とか、学校とか、詩穂自身の生活もある。当然ずっとこのままとはいかない。
置いた缶の縁を指先でなんとなくなぞりながら、答えの出ない考えごとに没頭してしまう。
「忍、ちょっといい?」
気まずそうな声にはっとする。
「どしたー?」その場で返事をする。
「着替え取って……」
「えっ? 持って入らなかったの」
「いいから!」
「わかったわかった」
僕は詩穂のリュックを開けて中を覗き込む。正直、何が正解かはよくわからなかったが、適当にプリントTシャツと短パンを取り出して中に入れる。
一度、風呂場のドアが閉まったと思ったらすぐに開いて、
「下着……」
「あっ!!」
僕はリュックから今日の紙袋を抜き出して渡した。ようやく任務完了。
ほどなくしてTシャツ姿の詩穂が出てくる。
「……今思ったけど、リュックくれればよかったんじゃ」
詩穂が小声で呟いた。
「……」確かに!?
僕は聞こえてないフリをして、何も言わずにさきイカを咀嚼する。
「ばか」
「……ごめんて」
「聞こえてんじゃん。いいけどさ、一つ貸しね」
「家出娘を匿ってる僕は、貸しいくつ?」
「……」
今度は詩穂が黙る番だった。
「~~~~~!!」代わりにバシバシ叩かれた。痛い痛い。「じゃあ、一つ貸し返したっ!」
「はいはい」
膨れている詩穂に笑って僕はさきイカを飲み込んだ。
「ねーね、さっきの格ゲーやってみたい」
顔を少し赤らめた詩穂がそう言ったのは、一通り飲み食いをして、いい感じに酒も回ってきた午後十一時を少し過ぎた頃だった。
「おっ、やる? いいよ、やろやろ」
一緒に遊んでくれる友達もいない僕は思わぬ食いつきに嬉しくなり、慌ただしく携帯機をドックに差してテレビ画面出力にした。
左右で分離できるコントローラを取り出して、片方を詩穂に渡す。
――ちなみに、この前少し相沢さんと昼休みに対戦したけど、コンボでハメられて何も出来ないままボコボコにされ、少し嫌いになりかけたのは内緒。
でも冬島さんも興味を持ってくれてたから、めっちゃ勧めているところだ。
基本操作の確認も含めて、CPUのレベルは弱いで設定する。
お互いのキャラクターを選び、チーム戦をスタートする。
一試合三分。倒した数と、倒された数を合計して、多少を比較して勝敗が決まる。
いけっ、やれっ、という掛け声がお互いに飛び交い、あっさり初勝利を決めて、いえーい、とハイタッチ。
「これ、こんな面白かったんだね。昔似たようなのあったよね」
「そそ、前は友達んちでやったよね。これやるために集まってた」
「分かる! めっちゃ分かる!! 上手い子集中攻撃したりね」
「そそ、でもボコボコにされるんだよなー」
「分かる!! 全然勝てないよね」
声を上げて笑い、どんどんいこう、と二戦、三戦とプレイする。
慣れてきたのを感じて少しCPUのレベルを上げ、もう何戦かこなす。いずれも快勝。
「ヤバい、ずっとやっちゃいそう」
詩穂は大層気に入ったみたいで、主に可愛いキャラを中心に、ちょこちょこと操作キャラを変える。
「対戦もしてみる?」
「いいね、やろっか!」俄然乗り気だ。CPU参加はオフに変更して、キャラを選んで開始。
さすがに普段からやってる僕に勝てるわけもなく、手加減してもあっさりと僕が勝ってしまう。
何度やっても結果は同じで、そのたびに詩穂は本気で悔しそうにする。
僕の撃墜数が「20」を越えたところで、僕がギリギリ聞こえるくらいの音で息を吐き出した詩穂は手を足の上に置いて、
「あたし、こういう時間、好きだったな……」
と脈絡なく呟いた。
「どっからか分かんないけど、気がついたらみんなテストとか、彼氏とか、部活とか、そんなんばっかでさ。一人が当たり前になってたなぁ」
ぎゅう、と僕の胸を寂寥感が支配する。
「んで、よく分かんないのに進学。知ってた人は誰もいなくなってた」
僕は、何か声をかけた方がいいんだろうか。野暮だと分かっていながらも、どうしても迷いが生まれてしまう。
「忍とも、気づいたら話さなくなってたよね。繋がってはいたけどさ」
「うん、そだね」
「……寂しかったなぁ。なんで連絡先持ってるのかも正直分かんなかった。だって、話さないし、会うこともないだろって思ってた昔の友達とか残しといてもしょうがないし」
ぷつり、とゲーム画面が黒くなった。
僕は不意に鼻の奥がつんとして、鼻をすすった。
「でもなんでか分かんないけど、メアド変えたりすると必ず連絡してたよね」
僕が言うと、詩穂は涙声で笑った。
「そう! 不思議だよね」
一拍置いて。
「でも、そのおかげで忘れられてないんだなーって勝手に思ってたのはホント。近況話したりしてさ。遠いとこに行っちゃったなーって思ったけどね」
「そんなの、お互い様だろ。かといってまた遊ぼうなんて言えないしさ。なんだろ、かっこつけてたのかも」
「お互いにね。よく分かんない見栄みたいな」
「そうそう」
交互に、何度かぐずぐずしてから詩穂は小声で言う。
「ありがと。助けてくれて」
「いいよ。僕がそうしたかっただけ」
「……うん」
僕は立ち上がって買ってきた最後の缶チューハイとコップを二つ持ってきて、片方を詩穂に手渡した。
「ん。飲むでしょ」
「さんきゅ」
甘ったるくて主張の激しい匂いがする透明な液体を注ぐ。
「よし、あたし忍に勝つまで寝ないから」
「百年早いわ、たわけが!」
スリープになったゲームの電源を入れ直して、対戦を再開する。
でも、何度やっても詩穂が僕に勝つことはなくて、それは眠気が限界に達した僕が不戦敗を宣言するまで続いた。
――翌朝。
いつも仕事に行くときに起きる時間に自然と目が覚め、壁際で眠る詩穂を起こさないようにベッドから出た。
僕は床で寝ると当然言ったけど、前も一緒だったんだから別にいいじゃん、とあっさり言われて折れた。昨日は建前よりもただ早く寝たかった。
少しひんやりする暗いキッチンに立ち、小さい鍋でお湯を湧かす。
スティック式のカフェオレの封を開けてカップに流し込み、適当にお湯を注いだ。
乾いた鼻腔を立ち上る大人の香りで満たし、僕はいつもの席に座る。
スマホを取り、昨日母さんから来ていたチャットを開いた。
『詩穂のこと
母親あるあるの誤字を読み取り、
『なるべく早く帰すよ』
と、返事した。
当の家出娘はというと、一度は起きかけたものの、布団をかけ直してあげたことで再び夢の世界に旅立ち、昼前に突然鳴った誰かからの電話で飛び起きた。
それから数十分と話をして、
『はぁっ!? それパパの言い分でしょ! いやだから、今回のは大事にしてたやつで、イベント限定のレアな……いや一緒じゃないから。しかも推しじゃないし……え? だからなんでそこで忍が出てくんの?』
と、昼過ぎに父親と大げんかのような何かを目の前で繰り広げ、後半はなぜか僕の名前が出てきて何かを諭された末に、あっさり夕方くらいには帰っていった。
――それからしばらくの間は、詩穂の父親からお怒りの電話がかかってくるんじゃないかと戦々恐々だったが、特に何が起こるということもなく。
でも、仕事中もお腹緩くなっちゃって大変だったから、これも貸しっつーことで何かで返してもらうしかないかもしれない。
怒濤の二日間の中でいろいろと我慢した僕は、もっと褒められていいと思う、きっと、多分。
ちなみに、相沢さんからは有給を使ったことの恨み節を冗談交じりに言われたが、理由が激しくどうでもいいことだったのでいつも通り無視しておいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます