第19話
僕の家からの最寄り駅に着いた時には八時近くなっていた。
地下から改札階に上がるエスカレータ前にできる見慣れた人の流れに乗って改札を出る。
出口は突き当たりで南北に分かれており、駅ナカにはコンビニと立ち食いそば屋とスーパーがあるだけ。
駅から続く商店街はやってるのかやってないのかわからないような塗装が剥げたシャッターを降ろす店が並び、駅を出て路地へ入れば、深夜におっさんの演歌が響くスナックや小さな居酒屋が並ぶ。
大通りこそ交通量は多いけど、それは車に限ったこと。
点在する大きめの商業施設周辺以外は、学生が好むような古めの安いアパートが並ぶ街。
駅ナカのスーパーは地味に高いのでスルーして、大通り沿いの大型スーパーへ足を向けた。
電車の中は暖房で蒸し暑かったのに、夜になってぐっと気温が下がった気温差で一層に寒く感じる。
カーディガンを羽織る詩穂が歩きながら時折腕をさするのを見て、僕は着ていたジャケットを脱いで無言で押しつけた。
「悪いからいいよ」
と、一度は遠慮したが、
「いいからリュック貸して」
そう言って手を差し出すと、黙って黒いリュックを手渡した。
僕のジャケットをはおり、丈の余る袖から指先だけ出ている腕に預かったリュックを返す。
「へへ、なんかいいね」
「そう? ならよかった」
二人してへらへらしてしまう。少し経ってから気恥ずかしさが体に染みこんでくるような気がした。
「お腹減ってる?」少し上擦った声で聞く。
「んー、今はいいけど、後で絶対お腹空くよね。飲みしたいし」
「その返しだと、なんかしょっちゅう遊びに来る男友達みたい」
思わず言うと、
「あれ? 違ったっけ」
どこか浮かれた調子で返してくる。
「とりあえず上司に先に連絡しとこうかな」
家を出る前から予想はしていたが、やっぱりこの状態で明日仕事に行く気にはなれない。
歩きながら、僕はチャット画面を開く。
「ああそっか、ごめん」
「……別に、休み明けで行きたくないだけだよ」
笑って、相沢さんに『連休明けで申し訳ありませんが、明日、私用でお休みさせてください』と送った。
それから、母さんとのチャット画面を開く。
『一つお願いがあるんだけどいい? しほ(変換めんどくさい)は今日うちに泊まるって、連絡しといて。たぶん理由は言わなくても伝わるから』
両親から返信が来るのはしばらく先か、返信が来ないかのどちらかだから、僕は一旦スマホの画面の電源を切った。
「大丈夫だった?」
「んー、まだ返信来てないけど、大丈夫じゃね。大丈夫じゃなくてもいけないし」
僕がもう一度笑うと、「それでいいのか」と呆れた声が返ってきた。
「上司の人、変だけどいい人だから」
そう言ったところで、スマホが振動する。相沢さんからの返信だった。
『俺も休みたいけど出社するのでダメです』
そしてなぜか犬の写真が送られてきた。
「素直か!」
詩穂に画面を見せる。
「素直だ!!」
僕からスマホを受け取った詩穂は、相沢さんとの会話を勝手に遡ってはニヤニヤしている。
「ふうん、面白い人だ」
「そうなんだよ。会社でもいつもこんな感じでさあ。椅子で回ってたり、僕のおやつを勝手に同僚にあげたり」
「まじか。仕事しろ上司」
「ほんとな!」
車の走行音にかき消されないくらい、大きな声で笑う。
「でもさぁ――」不意に、僕は温かな気持ちになる。
「めっちゃ仕事できる人なんだよね、これが。めっちゃ尊敬してる」
ふっと、詩穂の笑い声が消えた。そっちを見てからも、ぽかんとして数秒固まっていた。
「なにその顔」
「え、いやっ、その……。忍もそんな顔するんだなって」
「えっ?」
一度咳払いをして、
「なんでもない。つか、まだ着かないの?」
不機嫌を作った口調で言った。
「あの信号の先だよ」
緩やかな曲がり道の先に見えてきた信号を渡った先の角に、店の明かりが少しずつ見えてくる。
「意外にあるね」
「住み始めの頃は僕も思った。さすがに、もう慣れたけどね」それでも残業後はきつい。
ようやく着いた大型スーパーの店内に入るなり、「先、ちょっといい?」
と、詩穂が言ったので足を止めると、リュックサックを下ろして僕に背を向け、中をごそごそしはじめた。
「ここって、服とか売ってたりするよね?」
「するけどなんで?」
「よかった」
「? 婦人服なら二階だけどついていこうか」
「いや、それはいい」一蹴されてしまった。
「そう?」
「うん。てか、『察しろ』ってやつ」
「あ、はい」
僕はよくわからないままに頷いた。多分僕に一番足りてないスキル。
「んじゃ、またあとで」
詩穂は僕の返事を待たずして、早足でエスカレーターに向かっていってしまった。
上っていく姿を見送ってから、僕は地下一階の食料品売場に向かう。
割引シールが貼られたお惣菜とか酒のつまみを真っ先にカゴに入れ、明日の朝食のパン、カップ麺、ポテチをカゴに入れ、ほかに何か必要なものはないかと思案して売場をウロウロし、最終的に酒コーナーに行き着いた。
「詩穂、何飲むかな」
チャットに『なに飲む?』と流したら、『ごめん千円貸して……』と返ってきた。……どういうことだよ。
『とりあえずそっち行くよ』
『了解、二階のエスカレーターのとこで待ってる』
仕方なく僕は人の邪魔にならなそうな場所の足下に買い物カゴを置いて、婦人服のある二階へ上がった。
上がった先で待っていた詩穂と目が合うと、どこかホッとした表情をしたように見えた。
「やー……、ごめん。さっきチャージで使っちゃって」
「良いけど、カード持ってないの?」
「持ってないんだよねー、ソレが。きっと使い過ぎちゃうから」
「あーね」
そんなやり取りをしつつ、僕は財布を出して中を確認する。
……お、これはまさかの――。
「ごめんまさかの僕も
ぶわっと、殺気で詩穂の戦闘力が上がった気がした。や、やられる……!?
「……カードでなら、うん」
はぁ、とため息一つですぐにそれも引っ込めて、
「じゃあお願いしてもいい? あとで絶対返すから」
戸惑いながら頷くと、いこっか、と歩き出す。
そうして先導されて向かった先は女性用の下着売り場。百一ある男のロマンのうちの一つ。いや知らないけど、僕の人生の中で五本の指に入るくらい縁がなかった場所なのは間違いない。
……詩穂が嫌がった理由がよくわかった。
「ここ」
詩穂はそう言って中に入っていく。僕はその異質な空間に踏み込む勇気を持つまでに数秒を有し、中に入っていく。
詩穂に早足で先導されて会計カウンターに向かうと、僕らを認めた店員さんがカウンター下から紙袋を出して待っている。
僕らがカウンターの前に着くのに合わせて、レジを操作するとモニタに金額が表示された。その額四千円ほど。
「意外とするんだね」
カードを渡して支払いを済ませる。
「ほんとごめん……。下ろすの忘れてた。あ、レジ袋いらないです」
詩穂は申し訳なさそうに紙袋を受け取った。その場でリュックに入れる。
「旅行あるあるだね」
「確かに」
「お前のは家出だった」
「そうでした。あ、帰りにコンビニ寄らして」
「せっかくだから利子つけるか」
「は? 調子乗んな」
「ごめんて」
エスカレーターを降りて調味料コーナーの隅っこに置いておいた会計前のかごを取り上げる。
「なんていうか、すごい体に悪いものばっかりじゃん」
うわぁ、っていう顔を露骨にする詩穂が言う。
「他人事っぽく言ってるけど、詩穂も巻き添えだから。まだ酒も入ってないし」
「全然だめじゃん」
「誰かさんのカツアゲに呼び出されたからね」
「その件についてはほんとに……」ぺこぺこ。
文字通り「貸し」を作ってるので、ここぞとばかりにマウントを取るスタイル。
ずらっと並ぶお酒の缶の前に立って一度買い物カゴを置いた。
「何飲む?」
「あー、あたしあんま強くないからなぁ」
そう言いながら、度数の低いチューハイ三本をカゴに追加した。
「僕もそんなに強くないんだよなぁ」
少し悩んで、同じ種類の味違いを二本追加。
売り場を離れてレジに向かう。こちらもカードで支払いを済ませて店を出た。
大通りを駅に向かって引き返す途中でコンビニに寄る。
ATMから下ろすお金は全部お札になる都合上、多めに返されそうになったので、端数分は断った。
……詩穂は迷惑かけてるからその分って言ってきたけど、なんていうか、全額はきついけどそういうのじゃないじゃん? 僕がしてあげたかっただけっていうかさ。
信号を待って大通りを横断し、街灯の少ない路地に入る。
ちらほらと部屋着姿の学生とすれ違い、たまにどこからか複数人の大きな笑い声が響く住宅街を歩くこと数分。
くすんだクリーム色の壁に、ベージュの屋根が載った二階建てアパートに着く。
築年数の割にリフォーム済みで内外装ともにきれいになっている、お値段据え置きの(個人的に)優良物件。ここの二階角部屋を借りている。
立ち止まることなく手動の門を開いて敷地に入り、ポストから出前のチラシを回収。屋根のある階段を上がり、コンクリートの廊下を突き当たりまで進む。
「ここ?」
「そそ。いいとこっしょ」
何気ない返事を返す。
――いよいよだ。ついにこの時が来てしまった。
僕は緊張で手が震えそうになるのを抑えながら、家の鍵を回した。
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