第17話

 ぴろん、とスマホが鳴る。

『ねぇ、これみて』

 そう詩穂から送られてきたのは、ゴールデンウィークから少し過ぎて五月病まっただ中の日曜日だった。

 続けて送られてきたのは、誰かとのチャット画面のスクリーンショット。


『だから悪かったって。今度絶対埋め合わせするから』

『別に違うし、気にしてないからいい』

『いやいや、俺の気がすまないから』

『じゃあ機会があればね』

『おけ。いつならいい?』


 会話はここで終わっていた。

 名前は会話の部分だけトリミングされて削られているから見えないが……。

 ――これは……、高橋くんか?

 流れからしてこの前のことを詫びているのは分かったが、彼女も彼女なら、彼も彼だということか?

 僕はなんとも返事に困る複雑な心境になる。

『さすがにドン引きなんだけど』

 これは僕のスマホの着信。

『これ高橋くんだよね。彼ってこんなキャラだったっけ』

『前は違った……気がする』

『彼女いるのに明らかに二人で会おうとしてるよね』

『そそ!! どうしたらいい?』

『え、なんか問題あんの』

 相手はあの山本さんだしなぁ。

 どうしたらいいも何も、これまでも二人で出かけたりはあるだろうから何も問題ないのでは。

 僕らだって付き合っているわけでもない。遮る理由も、僕個人の感情だけだ。

『言い方よくないけど、隙があれば山本さんから奪っちゃってもいいんじゃない?』

『それは、そうかもしれないけど』

 まぁ確かに、やってることはこの前詩穂が自分で言ってたことそのものではある。でもある意味、同じ土俵でやり返すには優劣を決めるいい機会になるのでは、と思ったわけで。

『忍はそれでもいいの?』

『どういう意味?』

 そう聞き返してから、言葉足らずに気がついてすぐに本音を伝える。

『いや、もちろん嫌だよ。嫌に決まってる』

 だって僕は詩穂のことが好きなんだから。

『分かってるくせに』

『ごめんて』

『まあ……それはそれとして、詩穂が高橋くんに会いたいならしょうがないなーとは思うけど』

 僕の片思いは一度終わってるし。口出しできるような立場にないし。

『え、待って。どっち?笑』

『どっちってか、詩穂の気持ちを尊重するってだけ』

『そか』

 会話が途切れる。

 あーやばい、説教くさかったかな。余計なこと言ったかも。

 急に不安になって、僕は短いやりとりを何度も読み返した。

 だいぶ考えて打ってるから、何度読み返したところで何がおかしいかも分からないままで。

「はあ……」

 魚の小骨が喉に引っかかったようなモヤモヤした感情を引きずったまま、僕は遅めの朝食を摂った。

 しかもこの短い休みのあとまた仕事かと思うと、今からもう五割増しで気が重い。

 気づけばまた同じことを考えている。気づけばまたスマホの通知を待っている。

 今思えば、詩穂自身がどうしたいかを聞いておけばよかったか。

 でも、多分さっきのまま話を続けても結論は出なかったようにも思えるし。であればむしろこれでよかったのか? ってかなんで僕が悩んでるんだ意味不明じゃん。

 そうして何度か同じことを繰り返してようやく来た着信には、

『やばいグイグイ来るんだけど』

 新しい吹き出しと一緒に、グイグイきてるスクリーンショットが張られていた。不愉快だからチラ見だけ。

『もう普通に既読無視しとけば?』

 僕だったらそうしてる。とりあえずこの前ので懲りたので僕を巻き込まないで欲しい。

『それはそれでやな感じじゃん』

 詩穂が難色を示したので、僕は聞きそびれた核心に触れてみる。

『詩穂は誘われて嬉しかったの?』

 答えがイエスならさすがに脈はない。それくらいは僕でも分かるし、その時は今度こそ諦めよう。

 既読はすぐについた。……でも、少し待ってみても返信はない。

 僕はスマホを持って後回しにしていた家事を先に済ませることにした。

 

 次に返事が来たのは夕方になってからだった。

『ねえ、ちょっと聞きたいんだけど』

『ん?』

 それは僕の質問に対してではなかった。

『今日忍んち泊まりに行ってもいい?』

 ――というか、明後日の方向にぶっ飛んでいた。

「え? どゆこと」

 ついでに僕の思考もどっかへ吹っ飛んだ。

『冗談だよね?』

『いやまじめな話』

『唐突過ぎて全く飲み込めないんだけど』

 そう返信する合間に、僕は飲み終わったペットボトルとか、ポテチの袋とかを片づけ始める。

 詩穂が泊まりにくる。そう思うだけで急激に体温が上がる感じがした。見慣れた自分の部屋がやけに汚く見えて、……いや実際汚かったから、スマホを片手に部屋の掃除を始める。

『実はさっき親とケンカしちゃったんだよね……』

『まじか。なんで?』

『いやまぁそれはちょっと言い辛い。でね、勢い余って家出たはいいとして、行く場所なくてさー』

『友達いないの?』

『確実に忍よりはいるけど、学校の友達は足つくじゃん……?』

『犯罪者か。つか一言多い』

 でも、男の僕の部屋に来るよりかは、そっちの方が全然いいと思うんだけどなぁ。あーでも、地元に残ってる仲のいい友達も限られるか。

『じゃあネカフェとか』

 一晩くらいならそれで越すこともできるだろうし、割とよくある手段だと思うんだが。

『一人は心細いからやだ』

 ハイめっちゃきゅんとしたぁ――。

『行ったら迷惑……?』

『そうじゃない』さっきから煩悩が駆け巡ってしょうがない程度には。

 ――さっさとオーケーしちまえよ、なんならワンチャンあるかもしれないぜ。

 悪魔の囁きに胸が高鳴って、荒くなりそうな息をなんとか肺の中に押し込んだ。

『ほら僕は男の独り暮らしだし、詩穂のこと好きだからさ』

 この一言で充分に意図は伝わっただろう。いい人だなー僕は(棒読み)。

 それから五分経って。

『そう言ってくれるから、忍ならいいかなって思ったり』

「――意味深!!」思わず声を上げてしまった。「いや待て誤解するな自分……」

 一度、深呼吸。掃除も手につかなくなりウロウロしてしまう。

『それ、絶対他の人に言うなよ』男なら確殺されるやつ。

『当たり前でしょ。チョロそうに見える?』

『どうだろうな』

 思わせぶりな言葉で都合よく振り回されてるのか、「そっち」の意味も含めて本気なのか、まさか僕が狼になるとは少しも思っていないのか。真意はわからない。

『まあでも忍が無理なら仕方ないかぁ』

 けれど、僕がなかなか「うん」と言わないからか、矢庭に諦めムードが漂う。

『突然無理言ってごめんね』

『それはいいんだけど、どうすんの?』

『しょうがないからとりあえず女友達当たってみて、ダメなら男友達かな』

 言うまでもなく男友達のフレーズに引っかかった。言うまでもなくあの坊主頭が浮かんだ。それだけはだめだ。

『とりあえず今どこにいる?』

 僕は立ち上がった。昨日お使いで履いた綿パンを掴み取り、ぴょんこぴょんこしながら履き替える。

『いつも別れる駅のとこ』

 部屋着のシャツを脱ぎ捨て、長袖のペラペラのシャツを来て、前に買ったライダースジャケットを羽織った。

『行くわ。三十分で行く』

 鍵、スマホ、財布をポケットに突っ込んで家を出た。

 早歩きで駅に向かいながら次の電車の時間を調べる。あと五分しかない。徒歩だと十分はかかる距離を僕は走り出した。

 ――気に入らない。ただ、自分が気に入らない。

 走る速度が上がる。全力疾走になっていた。

 その甲斐あってか駅の改札を抜けても、運動不足で上がった息を少し整えるだけの余裕があった。まばらな駅のホームで待つ女性が、横目で嫌悪感混じりに僕をチラと見て、僕がそっちを見ると慌てて顔を背けた。

 アナウンスが鳴って、遠くから見慣れた電車がジリジリ近づいて来る。

 目の前で止まったそのドアが開くわずかな間すら待ちきれない。どんなに急いでも、僕の気持ちなんか知ったこっちゃない電車は今日もマイペースに定刻運行だ。

 入って向かいのドアに背中を乱暴に預ける。がこんとドアが揺れた音がして、僕はさっきよりも多い視線を浴びた。

 でも、時間通りに着けそうだ。

 いいから、早く着いてくれ。……頼むから。


 いつもの乗り換え駅。階段を駆け上がり一番近い改札を抜けて足を止めた。

『着いた。どこにいる?』

 返信を待ってスマホを凝視する。すぐに既読がついた。

「遅刻じゃない?」

「うおっ!」目の前。「なんでここに」

「なんか、ここで来れば会える気がした。……ていうのは嘘で、お店から改札に来たらいたってだけ」

「嘘かよ」

 いつもみたいな外行きとはちょっと違って、白地にプリントのロングシャツ、ベージュのカーディガン、ジーパンという、僕と同じで近くの服をひっつかんで出て来たような格好。

 細い両肩には中途半端に膨らんだボロっちい黒のリュックサック。

 それから、少し疲れたようにも見える笑顔。

「とりあえずどっか入ろっか。話はそれから聞くわ」

 改札階から階段を降り、駅地下の商店街に入った。

 入り口すぐにあるフロア案内の掲示板に自由の女神像みたいなロゴが描かれていて、詩穂の細い指先がそれを押さえて僕に振り返る。

「あたしスタバの新作飲みたい。クーポンあるし」

「えーと、だとすると……右かな」

 赤い太字で書かれた現在地を確認して方角を指差しては、二人並んでまた歩き出す。

 三百円ショップを右に曲がり、小さなコスメショップや雑貨屋が並ぶ地下街を進み、二つ出口を越えたところで見つけた店舗に入る。

 店内の席の埋まり方は七割弱といったところだが、一人でテーブル席を使っている客もいて“人数の割”にといった感じ。

 僕たちはカウンターに並んでいた二組の後ろに回り、詩穂のスマホで出したクーポンを眺めて注文を決めた。

 昼間が急に暑くなった、朝もだいぶマシになったなんて、広がらない世間話をするうちに前が捌けて僕らの番。

 詩穂は新作のホットラテ、僕はクーポン対象商品のフラペチーノを注文する。

 出来上がったカップを持って、近くの二人がけの対面席に腰を下ろした。

 大したことはしてないのに、なんだかやっと一息つけた感じ。

 でも、ここからなんだよなぁ。僕はまだ何も知らない。

 甘ったるいフラペチーノを何度か吸って、他愛ない世間話を挟み、キリの良いところで本題に入る。

「さて。……それで何があったのさ」

 チャットでは一度はぐらかされた疑問を再びぶつけた。

 神妙な雰囲気に詩穂は少しの間黙ってから、

「……えっとね、パパとケンカした」

「なんで?」

「ごめん今は言いたくない」

 先と同じように、答えてはくれない。言い辛そうに目を伏せられてしまうと僕もそれ以上突っ込めなくなる。

 またフラペチーノを吸って、沈黙を埋めるように音を立てて後ろ頭をかいた。

「今日はどうする?」

「帰らない」短い一言に怒りが混じった気がした。

「そっかぁ……」

 僕もどうしていいか分からない。でもいつかの雪の日みたいに、先延ばしにしたってまた答えを出さなきゃいけない時が来る。

 違う。心は決まっているけど、口にしていいタイミングが分からない。

 心は決まっていると知覚できるようになったあたり、少しか素直になれたのかもしれない。

 悩んでいるフリをしながら、僕が考えているのは「明日どうやって休むか」だ。

 話の進展もなくだらだらと飲み物だけが減っていき、やがて空になった。

「そろそろ行こうか」僕は立ち上がる。

「どこに?」詩穂が見上げてくる。

 時間は四時少し前くらい。今帰るには少し早い気もする。

「せっかくだから二人でカラオケでもいく? 気分転換兼ねて」

 詩穂はほんの僅かに目を見開いて、

「帰らないの?」

 この前行ったばっかでしょ、というレパートリーの少なさよりも、僕がさっさと一人で帰ると信じて疑わなかったことへの意外さが勝ったようだった。

 こいつ、やっぱ僕のことをなんにも分かっちゃいない。

「帰ってもいいの?」

 あの時と立場を逆にして今度は僕がきいた。

「それは……」

 俯く。カップの縁に載せた指先が、扇型を描くように何度も往復する。

 空になったカップを吸う仕草だけして、中を覗いて不機嫌そうな表情になる。

 何度か何かを言おうとしてはやめ、カップをペコペコさせて。

「――やだ」

 らしくない素振りに思わず笑ってしまった。

「じゃ、行こう」

 立ち上がって、やおら前に立った詩穂の手を引いた。不思議と今は緊張も興奮もなく心は凪いでいる。

 近場のカラオケ店を探して三十分後に予約を取ると、どこかで時間を潰すべく僕らは駅地下をさまようことにした。

「つか、またカラオケ? この前行ったじゃん」

 はい言われたー。でも当然ここは無視するよね。

 めんどくさそうに顔をしかめていた当の本人は、あからさまな無視に脱力してふっと笑っている。

 つられて僕もまた笑ってしまった。横目に詩穂を見て言う。

「理由は……言いたくなった時でいいや」

 気にならないわけじゃない。けど、それとこれは別の話。

「? どした」

 詩穂が急に足を止め、一歩前に出た僕はつられて振り返った。

「……忍、ありがと」

「いいよ、別に」

 照れ隠しでなるったけクールに笑って見せる。


 暇を持て余した僕らの間でこぼれるのは聞き飽きた昔話。


 誰にもない幼馴染っていう僕だけの特権。

 当たり前すぎて忘れていたけど、僕だけにあるアドバンテージ。

 詩穂のはにかんだ横顔に、何と競っているのかもわからないのに、気持ちを新たにする。


 ――この場所は、誰にも譲らない。 

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