第7話
「――くしゅん!?」
そばで鳴った、小さなくしゃみに僕は目を覚ました。
仰向けの状態から顔だけを傾けると、眉根を少し寄せて寝息を立てる詩穂の顔があって、状況の把握に一瞬の間を要する。
昨日あの後、なんとなく布団の上に寝転がったまま詩穂と昔話をするうちに、お互いに寝てしまったようだ。
文字通り「掛け布団の上」に僕らはいて。
少し視線を落とせば、緩んだ合わせ目から覗く、白い肌に実る柔らかな双丘に僕の左腕は挟まれ、しがみつくように詩穂は身を寄せていた。
室内は昨晩から変わらず暖房が入っているが、鼻の奥が乾燥しまくっている上に、手足は肌寒さを感じるほどには冷えてしまっている。詩穂も僕と同じように寝冷えをしてしまったのかもしれない。
……風邪引いてなきゃいいけど。
手の届く範囲にはなにも上にかけられそうなものはなく、仕方なく冷えた指先を自分の尻の下に入れてじっと暖をとる。
ぶーん、と低く唸る暖房の駆動音に混じって、外でゴリッゴリッと砂利の上で何かを引きずるような音が反響して届いてくる。
――あぁ、雪かきの音か。
少し考えて納得した後、僕は逸らしていた視線を詩穂に戻した。
無防備な寝顔を眺めているとどうしてもというか、なんていうか……。
不意に鎌首をもたげた葛藤の中、僕の中で顕現した天使と悪魔が殺し合いを始めてしまう。
悪魔がフルコンボのオーバーキルで天使を瞬殺。もう一度詩穂が眠っていることも確認。
尻の下の手が温まったことも確認して。
僕は、仰向けの体を左へ倒した。
痛いくらいに心臓が拍動して、次第に顔が火照ってくる。
――どうか、起きませんように……。
そう祈りながら、悪魔が操作する、震える右の手のひらを華奢な背中に触れた。
それから、ほんの僅かに力を込めて、自分の方へ……。
僕は生まれて初めて、好きな女の子を抱き寄せた。
柔らかな背中、僕と同じシャンプーの香り。
少しずるいかなとか、起きたら怒るかなとか思いながら、それでも今目の前にいる詩穂に触れずにはいられなかった。
本当は高橋くんにフラれて泣いていた時も、一緒にシューティングをやって嬉しそうにしていたときも、こうしたかったんだ。
昨日やっと、錆び付いた思い出から引っ張り出した幼い頃の僕が、大人の体を借りて幼馴染みに好意を打ち明けた。
詩穂は「分かってる」って言った。
ちゃんと「考えてる」と言った。
あれはあの時の精一杯だったと思う。
でも、もしかしたら追い詰められた時の安堵……、いわゆる吊り橋効果にほだされた結果だったんじゃないのか。
僕と幼馴染みだからこその距離感があるからこそ、思わせぶりな言葉も、態度も、擬似的な恋愛で気を紛らわせているだけなんじゃないか。
きっと、僕じゃない誰かと重ね合わせているだけ。……高橋くんとかさ、めっちゃ好きってこの前言ってたし。
一度もまともに誰かの好意に触れてこなかった僕は考えれば考えるほど、自虐的にねじ曲がっていく。
――やめよう。やっぱダメだ。他でもない僕が、詩穂に受け入れられないまま、勝手なことをするわけにはいかない。
名残惜しくも詩穂の体から腕を引き剥がした。
生ぬるい空気が汗ばんだ指の間を通り抜けて、一層空しさが増す。
もとの仰向けになってから、宙で手を振ってなんとなく乾かし、ベッドテーブル上に置いてあるスマホを手探りで掴む。
ロック画面の時計は午前六時半過ぎ。
昨日覚えている最後の時間は、ベッドテーブルに埋め込まれているデジタル時計の上二桁が「02」を示していた。
それからうとうとしながら、それこそ布団に入ればすぐにでも眠れたんだろうけどそれもせず、掛け布団の上で話していた。
どうにも昨日が終わってしまうのが惜しくて、詩穂が寝落ちたところまでは覚えている。
昨日は、なんていうか長い一日だった。いや、明らかに現在進行形で刺激過多の状態だ。
でも、ここ何年かで間違いなく、一番勇気を出した一日だったように思う。
「彼女いない歴=年齢」の僕がした初めての告白は、保留に終わっちゃったみたいだけど。
でも、確かにあの瞬間の僕らは、お互いの気持ちが少しの狂いもなく繋がったと思う。
僕で良かった。そう、詩穂は確かに言ってくれた。
この結果がどうなっていくのか今の僕にはまだ分からないけど、今また思い出したように嬉しさが湧き出してくる。
「……何ニヤニヤしてんの。いつも以上にキモいよ」
起きがけに辛辣な詩穂が言う。
そっちへ顔を向けると、僕の肩に顔半分を隠して、片目で僕を覗っていた。
僅か、十五センチの距離。
「ごめん、無性に腹立つからこっち見ないでくれる?」
「あ、はい」
えー……。まったく意味が分からない。僕の浮ついた気持ちが一瞬にして粉微塵と化す。
大人しく天井を見つめておそるおそる聞いてみる。
「ええと、聞くのは野暮だって分かってるけど、僕が何かした……? ほんとにわかんないだけど」
「ちがくて……」
一呼吸おいて、
「昨日の自分に腹立ってるのと恥ずかしいだけ」
それは僕への八つ当たりだね。とは言わないでおいた。
「……まぁ、チェックアウトまでまだ時間あるし、もう少し寝たら。寒かったっしょ」
チェックアウトは十一時。まだだいぶ余裕がある。
何も言わず、胸元を閉めてからようやく僕の腕から離れた詩穂は、自分が寝ていた側の布団に入り、背を向けて横になる。
「僕ももう少し寝よっかな」
ほんとはもっと早くそうしたかったけど出来なかったし。
「は? ダメに決まってんじゃん」
「えっ? なんで?」昨日もうすでに隣で寝たのに?
「とにかく、ダメ」
どうやらご機嫌ナナメらしい。さすがに少し僕もむっとして、起き上がって化粧台の椅子に腰を下ろす。
舞い上がっていた僕の気持ちはあっという間に冷え切ってしまい、やっぱりな、とさっきのネガティブな感情が席巻する。
なんならいっそ、詩穂が寝てる間に先に帰ってしまおうか。料金も前払いで問題ないはずだ。
昨日はフラれたショックだったけど、今はどうしようもない、行き場のない苛立ちが満ちている。
静かに服を着替えた僕は、上にコートを羽織って部屋を出た。
がちり、と客室のドアがしまる。
この部屋はオートロックなので、僕は部屋に戻ることは出来ない。
エレベータを下りた先のフロントで、笑顔を作って一礼をしてくれた手前の女性に一声かける。
「ちょっと出てきます。まだ連れが部屋にいるので、鍵は部屋にあります」
「かしこまりました。外は雪が積もっているところもございますので、お気をつけていってらっしゃいませ」
雪のあとの朝七時の東京は静かだった。
今日が日曜日ってこともあるんだろうけど、路地に面したホテルの前は歩いてる人もいない。
四台しかスペースのない駐車場に停まった車は真っ白に染まり、足下は中途半端に除けた雪が踏み固められた上に凍っていて、凹凸のあるスケートリンクみたいになっている。
僕は上手く操作出来ないマリオネットよろしく足をガクガクさせながら氷の橋を渡り、大通りに出た。
チェーンを履いたタクシーと会社のロゴ入りのワゴンが目の前を走り抜けていくが、昨日の夕方と比べて交通量はずっと少ない。
歩道も、真新しいプラスチックシャベルを手に店の前で雪かきに勤しむ人を含めても、歩いている人はまばらだ。
僕は一度周囲を見渡してから駅に向かう途中の信号を渡り、ホテルのある路地を出たところから向かいにあるコンビニに入る。
暇そうな店員の「いらっさいっせー」を受けて、飲み物の陳列棚に向かう。
隣の弁当棚の商品は溢れそうなくらいに詰め込まれたままでほとんど減っている様子はない。それはパンや惣菜に至っても同様で、普段はあまり見かけない人気商品と思しきものも選び放題のようだった。
僕はお茶二本とメロンパン、シナモンロールを手に取って、レジに向かう。
「それと、ジャンボフランク二つください」
目線の高さにあったフランクフルトも注文してしまう。
……レジ前惣菜恐るべし。なんだろう、このレジ前にある商品の主張の強さは……。学生の頃から変わらない吸引力。
得体の知れない敗北感を感じながら袋を受け取りコンビニを出る。
来た道を戻り、ホテルの自動ドアを抜けるとフロントに寝間着姿の見慣れない後ろ姿を見かけて声をかけた。
「――なにしてんの?」
「ひゃっ!?」
身をすくませて驚いた詩穂に睨まれる。
「なんだ、忍か……。あぁもう……鍵持って出るの忘れたから、借りに来たの」
振り返った詩穂の向こう側でフロントのお姉さんが鍵を用意してくれて、
「こちらへどうぞ」
「あっはい、すいません」
エレベーターへ先導してくれるお姉さんに僕らは無言でついていく。
客室の解錠をしてもらい、部屋に戻ってくる。
「さっきどこ行ってたの? 起きたらいなかったから、……めっ、めっちゃ、心配したんだけど」
「ふーん?」
詩穂が二度寝するって言ってから一時間も経ってないから、起きたらっていうのは多分嘘だろう。
けれど、なんていうか珍しく、すごく焦ってた感じは嬉しくもある。昨日買ったジャケットも置いて出たのに、それも気づかないほどに。
多分、寝付けないうちに僕が黙って出て行っちゃったから不安になったんだろう。
「ニヤニヤすんなっ……」
べしっ、べしっ、と何度も腕をはたかれる。
「ごめん、ごめんて」
はたくのも止めて、
「……お腹減った」
「ん、パン買ってきたよ」
「うん」
僕はビニール袋を手渡してコートを脱ぐ。
手洗いも済ませて、ベッドの真ん中あたりに腰掛ける詩穂の隣に座る。
「忍、先選んでいいよ」
寝間着に隠れた太腿の上に置かれたパンを指して言う。僕の気持ちなどお見通しで、先手を打たれてしまった。
「じゃあ、シナモンロールで」
「うん。つか、メロンパンとフランクフルトってどうなの?」
「コンビニ飯で食べ合わせ気にしたらおしまい」
「それもそっか。ありがと」
「うん」
もそもそと二人とも黙って口に運ぶ。まだ少し気まずいなーって思うけど、逃げ出したくなるほどじゃない。
「今日どうしよっか」
僕はフランクフルトを口に含みながら、足下に視線を落として聞く。
「今日、日曜じゃん?」
口調から、「待ってました」と言いたげなのが伝わってくる。
「うん」
「今日も一日お休みじゃん? お店まで歩いていけるじゃん?」
「そうだね」
「……ふふふ、あとは分かるな」
こいつ、今日も遊んでから帰る気だ……。あとはわかるな、じゃねえ。まぁでもいいか。その分長く一緒にいられるし。
「詩穂、スマホ取って」
僕は着替えたときにベッドテーブルに置きっ放しにしていたスマホを指差して言う。
「ん」
「さんきゅ」
受け取って、お気に入り登録をしてある乗り換え案内のウェブページを開く。
僕と詩穂の帰り路線を調べることにする。今日はもう動いてるんだろうか。
……僕が使う路線は通常運行。さすが、ほかの路線が止まっても動き続けて、たまには止まれよって逆に恨まれる路線なだけある。
詩穂の路線は……遅延と本数減少しているみたいだけど、動いているみたいだ。この感じだと、昼を挟んで雪が多少解けてから帰った方がよさそうだ。
「んじゃ、どこ行こっか」
「昨日目的の物は買っちゃったしね」
「近場で移動してみる? 今日は電車動いてるっぽいし、帰れないことはないみたいだし」
「それもありだね」
そんな会話もしていたのに、調べるうちに僕らはなんだかめんどくさくなってしまって。
結局、今いる場所の最寄りが大きめの駅ということもあって、普段来ない街を探索するという、予定にならない予定で話が終わる。
全くいつものパターンだ。
午前十時過ぎ、僕らはチェックアウトより一時間早くホテルを出る。
雪のあとの空は雲一つなく、中天に近づいて影の居場所をどんどん奪う日差しは、今日一日でだいぶ雪解けが進みそうだ。
「やば、めっちゃ真っ白じゃんっ!」
今日初めて外の景色を見た詩穂は、興奮した様子で前に数歩進み出て、
――ぐしゃ。
そしてあっさりと声もなく転んだ。
「あーあ」
僕もへっぴり腰になりながら寄っていって詩穂に手を貸す。
「痛かった」
「見てた」
尻をさする詩穂と手を繋いで大通りに出る。
大通りの路肩には寄せられている灰色の雪山が点在するが、そこ以外は黒い大地を拝むのを諦めたと思われ、しかも微妙に崩れてかえって道端を狭めてしまっている。
僕らは特にどこへ行こうということもなく、ただ駅へ向かって歩く。
十時は過ぎているから店の開店時間を過ぎているはずだが、人通りが少ないのは相変わらずで、むしろ今日の方がゆったり買い物ができそうだ。
「たまにはこういうのもいいね。なんか新鮮」
「そういえば明日は?」
「ん? うーん、いつも通りかな」
そう、今年は台風も大型という割に風がちょっと強いだけで終わることも多かったし。来シーズンには台風一同ももうちょっとやる気を出して欲しい。
詩穂が意味もなく蹴飛ばした氷の小片が、雪のない電車の高架下に数メートル転がり落ちて、止まったそれを僕が踏みつける。
探索するといっても昨日目的は果たしてしまったからか、どこに入ろうということもなく、どんどん駅が近づいてくる。
「まぁ特に行きたいとこもないよね」
「そうだね、なんか疲れたかも」
二人して笑う。駅に入り、改札を抜けた。
「次から雪の日はやめとこっか」
「昨日それ僕が――」
「あっ、電車来るっぽい! また連絡するねっ!」
言いかけた僕を遮って、詩穂が小走りで遠ざかる。ホーム階段手前で一瞬こちらを見て小さく手を振り、今度こそ視界から消えていった。
まだ握っていた感覚が残る手のひらを眺めながら、僕は手を握ったり、閉じたりを数回繰り返して。
僕の路線もそろそろ急行が来る頃だと気づいて慌ててホームを駆け上がった。
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