第6話

 ゆっくりと動き出した鉄の塊はすぐに速度を上げて、駅のホームに僕を置き去りにした。

 誰しもがみんな自分のことで必死で、僕の声も大して注目を集めることもなくて、たまたま目の前を通った人に怪訝な顔をさせたり、数列の乗り切れなかった人たちがちらと僕を一瞥したりしただけだった。

 見失いかけた背中は……、階段の手前で立ち止まっていた。ゆっくりとこっちに向く。詩穂の不安げな表情が驚きに満たされていく。

 僕の足が勝手に動いて、早足で詩穂の前まで進んだ。

 もう、ごまかせない。もう一度、唾を飲む。

「ちょっ、何してんの? 降りちゃダメじゃん」

 詩穂に先手を取られてしまった。最高にかっこ悪いな、僕は。

「いやそうなんだけど、このまま詩穂を行かせられないと思ってたら、気づいたら降りてた」

 ボソボソと言い訳がましく言う。

「あ、あと、僕もネカフェ行きたかったか……ら……」

 努めて明るい調子で言い直そうとした強がりが萎んでいく。

 向き合ったまま、閉口したまま、詩穂はじっと僕を見ていて。

 乾いた口の中でどうにか僅かな唾を飲み込み、ここまできたらどうにでもなれ、と投げやりになった思考に任せて言葉を継ぐ。

「さっきの、嘘じゃない。ここに一人で置いていくのが嫌だったんだ。帰れないなら帰れないで、詩穂と一緒にいたかったんだ」

 僕の口から垂れ流される恥ずかしい台詞にも応えず、また人が増えてきたのを見かねてか、

「ここだと邪魔になるから移動しよっか」

「あ、そだね。……ごめん」

 ようやく口を開いたと思えば、返ってきた冷静な一言に我に返る。……それから、後悔と自己嫌悪。

 僕の独りよがりだったのか、お節介だったのか、迷惑だったのか。

 空回りする気持ちがぐるぐるして、自然と俯いて無言になってしまう。

「――あたしもね、ほんとは」

 人がはけたホームの中程に戻り、自販機近くまで移動してポツリと呟く。

「一人が不安だった。どうしていいのかわかんなかった。忍が一緒いてくれないかなって、電車で思ってた」

「うん」

 一転して押し寄せる力いっぱい抱きしめたい衝動を抑えながらも、僕は「じゃあよかった」と嬉しさを隠せずに笑う。

「ニヤニヤすんなばか」

 案の定、怒られてしまったけど。

「してないって」

 しらばっくれる僕に呆れ顔をした後、自販機で自分一人だけ温かい飲み物を買う。

 僕もそのあとに続いて、少し悩んで同じものを買う。

「同じもの買うとかキモい」

「別にわざとじゃない」これはほんとのこと。「――んで、これからどうしよっか」

 一息いれて、改めてこれからのことを話題に上げる。

 そう、結局帰宅難民が一名追加されただけで、根本的には何も解決していない。むしろこれからが本番なのは言うまでもない。

「まぁ、僕は明日休みだから遅くまで大丈夫だよ」

「なにそれ、下心丸出しじゃん」

「そんなつもりもなかったけど、そうなのかな」いやまあちょっといい雰囲気にでもなれば……なんて、多少期待してはいないわけでもない。

「うわっ、それはそれで傷つく」

 複雑な乙女心ってやつかな。いつものノリもそこそこに、詩穂が続ける。

「とりあえず暖かいとこ入ろっか。いつまでもここにいるの辛いし」

「それもそうだね。雪はともかく風が冷たいから中に入ろう」

 僕もふざけている余裕もないので、頷き合って階段を上がり、改札に向かって歩く。

「今日どうせ帰れなさそうだし、ちゃんと泊まるとこ確保しとく? 予約いっぱいかもしれないけど」

「ラブホ?」

「ぶっ!? げほっげほっ」僕は反射的にひどくむせてしまった。「しれっと言うなって。ほんとに襲うぞ」これはもちろん冗談。……というより、そんな度胸がない。あとで金品要求されそうで。

 少し間を置いて、

「あはは、ごめんて。んじゃ、ホテル取っちゃおっか。先輩、お世話になりまーす!」

「あっ、きたねー……。まったく、安いとこね」

 近場のホテルの検索を開始。もちろんいかがわしくない方の。ラブホって一回行ってみたくない? っていう空気を読まない発言は無視した。

「シングル二部屋でいいよね」

「うん。まぁこういう時だし、一緒でも? あたしはいいけど……」

「いや、そうはいうけどさ……」

「昔はよく一緒に寝てたじゃん。今さら恥ずかしがることないって」

「さすがに昔と今は違うでしょ」

「そっかー。ふーん?」

 視界の端で、詩穂は髪の毛先を指でくるくると弄んで、そっけなく返事をする。

「どっちかっていうと僕の貞操の危機」

「さっき襲うって言ったの忍じゃん」

「揚げ足取るなって」

 出口手前、風の当たらないところでしょーもない問答をしながら、安価なホテルを探す。シングル二部屋で……。だってねぇ、比喩でなく一日一緒にいるのは、その、なんて言うか、うん……。

 誰にするでもなく胸の中で逃げの言葉を考えながら、手頃な値段のホテル何件かに電話をかける。

『申し訳ございません、本日シングルは満室となっております。もし差し支えなければ……ではございますが、お二人様ご一緒のお部屋でしたら、一部屋ダブルの空室がございます』

「あー、そっすか。ちょっと待ってください」

 スマホを耳元から話して僕はため息をつく。すでに諦めムード漂う詩穂に、

「二人部屋なら、一部屋空いてるってさ」

 ぱっと顔色が良くなり、

「マジで? もうそこでいいんじゃない? ほかで空いてるとも限らないし」

「だよねぇ、やっぱ」

 僕も同意して、スマホを耳に押し当てて言う。

 この時間ですでに、雪で帰れなくなった人が続々と宿泊しているらしい。それほど大きくはないが食べ物に困らず、複数の路線が乗り入れする駅なだけあってか、欠便になった新幹線や空港の利用者も相当いるみたいだ。

 確かに周囲を見回せば、スーツケースを引いている人が散見される。

 ここから大きな街に戻るにも、ここから違う方面へ向かうにもなかなか厳しそうだった。

「もしもし、お待たせしました。それでお願いします。これからチェックインしに伺いますので」

 よろしくお願いいたします、と社会人口調で締めて、通話を切った。

「じゃ、いこっか。道案内よろしく」

 道も分からないくせに詩穂が歩き出す。「あ、」

 咄嗟に僕は詩穂を呼び止める。

「なに?」

「ええと、逆方向……」

「……!!」

「痛いです」足を踏むな。

 数秒で自由になった足を、今度こそ出口に向けて踏み出す。

 地図を確認すると、予約したホテルは駅から少し離れてはいるが、大通りに面した路地に入った場所で、これなら迷うこともなさそうだ。

 僕は大体の場所を記憶して、スマホの画面を切る。

 ざく、ざく、と水気が少ない固く踏み固められた雪道を歩く。地面に近いところで薄く凍った雪が、目の前の横断歩道をこちらへ向かって急いでいた女性の足をとり、豪快に尻餅をつかせた。

 危ない、僕も巻き添えを食うところだった。普段なら「見えそう」とかちょっと思っちゃう僕は、この時はさすがにそんな余裕ももてない。

 誰に心配されるでもなく、女性は何食わぬ顔で立ち上がると、尻をさすりながら近くのビルに入っていった。東京って怖い。

 

 外の自動ドアからロビーに続く、こんな雪の日なのに足跡一つないピカピカの白い石床の廊下を雪を払ってから渡り、二枚目の自動ドアをくぐって、ホテルロビーのグレーの絨毯を踏む。

 暖色の照明の下を見回すと、左側にカウンター、正面奥がエレベーターに、右端広い通路の先にレストラン。ガラス張りの壁に沿って対面で設置されているソファーにビジネスマンらしき人が体を沈め、背もたれに頭を載せていた。

 僕はカウンターへ向かい、チェックインを済ます。

 借りる部屋の案内受けて、どっと増してくる疲れを感じながら、号室が書かれた鍵を受け取って五階へ。

「511……、511……」

 静かな廊下でドアを順繰りに確認し、目当ての部屋の扉を開ける。

 壁面左側のホルダーに鍵を挿すと電気がついて、部屋の全貌が明らかになった。

 ……ん? ダブル? ツインじゃないのか? あれ、二人部屋っててっきり……。

「おお、気が利くじゃん! さっすがー!」

 困惑する僕をよそに、詩穂は嬉々としてコートを脱ぎ、正面のサイドテーブル前に荷物を置くと、大きなベッドにダイブする。ひゃっはーとか言わない。

 僕は呆れたふりをしながら、

「パンツ見えるよ」

 危うく「見えたよ」と事実を言いそうになる。

「むっ……」

 さっと後ろ手に抑えるあたり、さすが女の子。

 こんなはずじゃなかった、とツインに変更してもらえないのかとかうんたらかんたら……と考えた挙げ句、そういや一部屋しかないって言ってたなと思い出して諦める。……料金も前払いだし。

 自分のコートを脱いで、詩穂の分もしかたなくハンガーにかけた僕は、ベッドの足下側の隅っこに浅く腰掛けた。

「まぁ別に見えてもいいんだけどね。忍だし」

 平然と言う詩穂はさっさと押さえるのをやめて、うつ伏せに寝たまま、布団に埋まった高さのある枕を引き出して、腕に抱えていた。

「あー、疲れた」

「ね、ほんと。雪の日ってダメだね」

 一度座ってしまうと、もう立ち上がれる気がしない。頭を垂れて体の底から心地いい疲労感が湧き上がって、眠気を誘発させる。

「忍、こっちきなよ」

「……いや、遠慮しとく」手放しかけた意識をたぐり寄せて答える。

「……そんなにあたしと一緒じゃ嫌?」

「そんなんじゃない」僕は天井を見上げて否定する。「そんなわけない」

 肺に溜まった息を吐き出して、

「だって、この前年末会ったときが女の子と話すことそのものが久しぶり過ぎて、今も照れるし緊張するんだよ。まさか今日もあっさり、手を繋ぐとも思ってなかったし……」

「なにそれ、かわいー!」

 足をバタバタさせんな。

「なんだよ。別にいいだろ」照れるものは照れる。

「うん。忍のそういうとこ好き」

「なるほどわからん」

「ウブなのかな? 忍ちゃんはウブなのかな?」

「うるさいなぁ……」

 お互いに軽いノリの会話を続ける気力もなくて、唐突に沈黙する。

 視線を動かせば、タイツにうっすらと透けて見えてしまう薄い布きれを、つい意識してしまう僕がいる。

「詩穂、無防備過ぎない?」

「そう? どういうとこが?」

「服装的な意味の防御力とか」

「……」

 ベッドが揺れる。寝返りでも打ったのかな。

「なんかさ、突然だけど。久しぶりに会って、すげー大人びてて、可愛くなってて、なんかすげーなって思った」

「ぷっ! 語彙力!」

「別にいいでしょ。それに今だから言うけど…… まぁ? 昔から可愛いと思ってたし」

 それが僕とは違う場所にいると感じた人への、憧れのようなものだったのかもしれないが、今となってはそれも分からない。

「知ってた」

「まじか」

「忍って昔からすぐ顔に出るから」

「あー、やっぱり? よく言われる」

 僕は疲れではない別の感情を吐き出す。

「……まぁこれは緊張っていうか、別のものだな」

 エスカレータで感じた、燻りがじわりじわりと燃え上がってくる。懐かしさすらある感覚。

「――あの、さ」

「うん?」

「最近ちょこちょこ話すようになって、詩穂のことやっぱいいなーって思った。前から詩穂のこと好きだったんだなーって、今だからわかるよ」

「そっか」

 かなり勇気だして言ってみたのに、味気ない。言ったあとすぐなのに、もう自分がちゃんと言えたのかすら分からない。

「ま、まぁこの前会って、こんなすぐ言うのも変なのかもしれないけど」

 そう。年末に再会してから実際、二週間そこらしか経ってない。

 話すほどに蘇る、どこかに忘れてきたフリをして何もしなかった、弱虫な僕の気持ち。

 それを今頃になって、ようやく吐き出せた感じ。

「でも、こんなこともあるんだなーってちょっと思った。言えなかったこと、ようやく言えたなーみたいな感じ。自分でも少しびっくりしてる」

 言ってる僕自身がなんだかかっこ悪すぎて、思わず笑ってしまう。

「……おしまい」

 だから、返事とか別にいらなくて、自分から話の幕を引いてしまった。

 胸のつかえが取れたようでなんだかすっきり自己完結してしまい、引いていった熱のあとに残る満足感と言うか、染み出してくる実感は……、そう、学生の頃の試験終わりに似ている。……あぁ、なんだかたとえまで残念すぎる。

 ただ、暖房の稼働音だけが響く室内で、沈黙が続く。

 顔だけを傾けて見ても詩穂は寝返りを打ったわけではなくうつ伏せのままで、ピクリとも動かない。

 ……もしかして寝てる? おかげでタイツから透ける薄い布きれがみほうだ……いや、なんでもない。

 自分から打ち切ったくせに、少し経った今になって何か答えが返ってくるのを期待してしまう。

 僕はなんだかこの空気に耐えきれなくなってしまって、一度逃げだそうとして努めて明るく言う。

「飲み物買ってくるけど、なんか飲む?」

「……」

 返答はない。一つのため息をつき、財布と鍵を持ってドアまでの数歩を歩いたところで、

「――忍」

 呼び止められる。心臓が跳ねて、答えが返ってくるのが恐ろしくなってしまって、僕は振り返れない。

「……ありがと。それと炭酸よろしく」

「りょーかいっと」

 僕は部屋を出る。……これでまたいつも通りに戻れた気がした。

 エレベーター側で見つけてあった自販機まで行く中で、なんとなく僕はフラれたのだと理解する。

 まぁそりゃそうだよ。ほんと、余計なことをした。むしろあとで冗談だって、忘れてくれって謝っておこう。

 吊り橋効果だっけ? こんな状況だから、なんとなく気持ちが盛り上がっただけかもしれないし。

 視界が揺れて、足下がふわふわする。

 全身から血の気が引いていく感覚に、自販機の取り出し口の前でしゃがみ込んで、立てなくなってしまった。

 詩穂からしても、勝手に舞い上がって勘違いした、仲のいい男友達に告られただけだったんだろう。んで、僕の一人相撲は見事に玉砕。

 このまま部屋に戻るのはつらい。電車動いてたらこっそり帰っちゃおうかな。

「はぁ……、そんなことできるわけないよなぁ」

 詩穂が心配で帰宅難民お泊まりコースに付き合ったというのに、意味不明だ。

 僕はコーラ二本を取り出し口から出すと、膝に力を入れて立ち上がって部屋に戻った。

「ただいま」

 声をかける。詩穂は布団の上から、布団の中に移動していた。今度こそ寝てしまったのか返事はないが、まぁいいか。

 僕はベッドのヘッドテーブルに二本とも置いて、そういえばと思い出して手を洗う。

 壁に寄せられた化粧台の椅子を引いて、ベッドに背を向ける形で腰を下ろした。

 半月形の指紋ひとつない鏡には、ひどく疲れた体の僕の顔が映る。

 ペタペタと触って、渦巻く感情と相反して無表情に見えるそれが、自分のものかと確かめてみたところで、あえて言うまでもなく。

 涙の一つも出ないところにこそなんだか空しく、泣けてきそうな気がして、……気がしても、鏡に映る僕の顔は変わらない。

「はー……」

 思わず溜まっていた熱っぽい息を吐き出す。なんだかため息ついてばっかりだ。

「――忍……?」

「ん!?」咄嗟に大きな声で返事してしまう。……落ち込んでるの、気づかれた?

 僕の不安もそのあとの「どうしたの?」という言葉に払拭され、冷静に「何が?」と聞き返していた。でも、その裏側に、苛立ちみたいな剣呑さが微かに混じる。

「……なんでもない」

 詩穂はそれを見逃さなかった、のだと思う。

 腹の底に溜まった嫌な感情が、「僕の方がもっと気まずい」と訴えかけてくる。

 さっきので終わりじゃなかったのか。僕はまた何か間違えたのか。だってフラれたのに、まだ一日一緒にいる時間が続くなんて、辛くないわけないじゃないか。そんな自分自身の身勝手さで、さらに苛立ちが加速されて、ひたすらにコーラが減る速度はかりが上がる。

「先、風呂入ってくるよ」本日二度目の、空気に耐えられなくなる。

 着替えはないけど、一日くらいはいいだろう。浴衣もあるだろうし。

「てらぁ……」

 あくび混じりの声に押されて、僕はタオルを持って洗面所に入る。中はユニットバスになっていて、浴槽上部にシャワーカーテンがぶら下がっている、よくある形式。

 ぐるっと見回して特に脱いだ服を置ける場所もなくて、しかたなく室内の化粧台の椅子を洗面所のドアの前まで持ってきて、洗面所の中で脱いでからその椅子の上に脱いだ服とタオルをまとめて置いておく。

 ようやくシャワーカーテンを閉めて、シャワーを浴びる。

 だーっと水が流れる音に包まれると、遠ざけていた思考がまた湧き上がってくる。

 詩穂のあの反応はどういう意味なんだろう。ありがと、ってなんだ。やんわりと断られたんだろう、やっぱり。いやでも「ごめんなさい」とは言われてないし。うーん……。いや考えてもしかたない。今は普通に接することだけに専念しよう。

 仮にフラれたとして、それで絶交する方が僕にとっては辛いから。フラれたって、嫌われない限りチャンスが巡ってくることもあるだろう。そうだな……、そうだ。

 自分の中で、モヤモヤは残るが納得したことにして、体を洗って風呂を出る。

 ドアから腕だけ伸ばしてひっつかんだ元の服をもう一度着て洗面所を出ると、ベッドに詩穂の姿はない。いつからいなかったのか……、まったく気づかなかった。

 さっき心の中で決めたことが、もう折れそうになってしまう。まさか帰ったのか? それともどこか違う場所へ……?

 急いでスマホを確認してみるが、テキストチャットは今朝のまま止まっている。通信状態も良好だから、連絡はないようだ。

「まじかよ……」

 背筋が凍る展開に、ふらふらとした足取りでさっきベッドで詩穂が寝ていた隣あたりに倒れこむ。

「まじかぁー……」

 二回つぶやいたあとは、静かな室内に空調の鈍い稼働音だけが満ちている。

 僕の心臓が鼓動を打つたび明確な痛みを訴えてくる。

 目を閉じて自分への呵責に言い訳をしているうち、雪の中の疲れもあってか僕はいつの間にか眠りに落ちてしまった。



 鍵のかかっているはずの部屋のドアが開く音でぼんやりと意識が覚醒する。

「うはー……、あったか~……」

 耳朶に響く消えたと思っていた高めの声に、急激に眠気が覚めた。

「……おかえり」なんとなく起き上がる。

「ごめんね、寝てた?」

「いや、ううん。まぁそうみたい」

「そっか、疲れてたんだね。はいこれ」

 コートを脱ぐ前の詩穂から、手に提げていた二つの白いビニール袋のうち片方を受け取る。その拍子に冷たい指先が僕のものと触れる。

「つめたっ。……中見ていい?」

「寒かったししょーがないじゃん」

 テープで止まっている衣類の入った袋の口を広げで中を取り出すと、男性モノの下着だった。

「どしたのこれ」

「買ってきた。すぐ近くにデパートあったの来るとき見てたから。ほら、同じのもっかい着るとか嫌じゃん?」

「……そうだね」すいません、一日くらいはしょうがないとか思ってました。ふと思い立ったことを口にする。

「つか、それなら洗えばいいのに」

「は? その間ノーパンでいろっこと? エアコンでたしかに乾かせるけど、忍に見られるとかありえないんだけど」

 威圧的に言ったあと、恥ずかしいじゃん、と小声で言ったのを僕は聞き逃さなかった。

「……ごめん」

「ま、それだけじゃないんだけどね」

「そっか」これ以上聞かない方がよさそうだ。僕は素直に身を引いておく。

 コートを脱いでハンガーにかける詩穂の姿に僕は安堵して、思わず「はー……、よかった」と長いため息に似た息をついてしまっていた。

「え、なに?」手を止めてこちらへ視線を向けてくる。

「あ。いや、」

 一瞬、正直に言うべきか迷って、隠す意味もないとすぐに白状する。

「もしかしたら、どこか行っちゃったかなーなんて思って、さ」

「なんで? 帰れないのにそんなわけないじゃん」

 本気でわからないようで、あっさりと否定されてしまった。

「いやでも、さっきのアレもあったし。嫌な気持ちさせた、って思ってたから」

「ふーん?」

 と、さも興味なさげに言って、

「あたしもお風呂入ってきていい? それから話そ?」

 そう言われてしまうと僕は何も言えず、ハンドバッグを持ったまま洗面所に消える詩穂を見送るしかなかった。



 裁かれる前の罪人のような気分で待つこと三十分。

 シャワーの音がとかあわよくば肌色が多い展開にとかそんなラブコメ的なドキドキ要素はなく、ただ辛いだけの時間。

 不意に、洗面所のドアが薄く開いたことで僕の緊張はピークに達する。あぁなんだか腹が痛くなってきた気が……。

「忍~……、タオル取ってぇ……」

 そんなことなど知らない人が情けない声で僕を呼ぶ。

「あー……了解」

 室内にある白い棚に積まれたバスタオルを、僕と同じように洗面所前の椅子に積まれた服の上に崩れないように置いておく。

「服の上置いといたから。僕は外出てるね」

「そこまでしなくていいよ」

 洗面所から伸びてきた白い手がバスタオルを素早く回収する。

「そう? なら見えないとこで待ってる」

 僕は洗面所の方に背を向けてベッドに寝転がり、詩穂を待つこともう五分。

「お待たせ」

「うん、お疲れ」

 仰向けに姿勢を変えると、詩穂も僕の隣に来る。机上のコーラを飲んでから、同じように寝転がった。

 自分から切り出すのもなんか変な気がして、というよりも何を言えばいいかわからなくて黙っていると、詩穂が口を開く。

「……さっきのこと」

 天井に向けて吐き出された言葉に耳を傾ける。

「ごめん」

 その短い一言はわかっていたこと、ある意味待ちわびていたものだったが、いざ直面すると胸の奥深くに突き刺さった。

「うん。そうだよね。こっちこそごめん」

 僕の喉は思ったより上手く、あっさりと納得の言葉を吐き出した。

「もう――」「だからそうじゃなくて」

 この話は終わりにしよう。そう言いかけたところで詩穂に遮られる。

「勝手に終わりにしないで。まだあたし何も言ってない」

 ごめん、という一言には十分な破壊力があったが。

「さっきのごめんは、そうじゃなくて。ええと……」

 次に言うべきことを探しているらしい詩穂は、しばらく沈黙して。

「ほんとはね、ほんと……嬉しかった。あー、やっとか! みたいな。前から忍といるの好きだったし」

 どことなく楽しげに詩穂は続ける。

「……でも、正直どうしていいかわかんなかった。なんて言えばいいかわからなくて、ありがとうしか言えなかった。忍と一緒にいる時間はわかるけど、恋人とかになる時間はよくわかんない。どうしていいかわかんない」

 僕は小さく相づちを打ちながら、終わらない吐露を受け止め続ける。

「だから、もうちょっと待って。ちゃんと考えるから。今もたくさん考えてるから。ちゃんと分かってるから」

「うん」また相づち。

「ほんと、この前久しぶりに会ったばっかで変かもだけど、やっぱ忍だけはなんか違うなって。自慢じゃないけど、たまに狙ってたイケメンに告られたりもあったけど、結局エッチ目当てだったりとかもしてね、がっかりして。……でも、今はそれとは違うドキドキと、それよりずっとドキドキしてる。こんな時なのにほんと舞い上がってる。これまでで一番長く一緒にいて」

 一度、詩穂は大きく息を吸い込んで、

「駅で、呼んでくれて、泣きそうになった。やっぱ忍だったって。……やばい、今泣けてきた。ほんとでも、違う誰かじゃなくて、それが忍でよかった。ああもう、何言ってんだろ、ほんとよくわかんなくなってきた」

 あはは、と泣き笑う詩穂に釣られて、僕も悲しくもないのに、ただ涙が溢れた。

「僕もよくわかんなくなった」

 笑いながら、小さな嘘をつく。それが、詩穂のプライドを守ることだと知っていたから。

 なんかうやむやにしたけど、僕が思うより、詩穂はずっと近くにいた。

 付き合うとかってことよりもずっと意味があって。

 それだけで、十分だと思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る