第5話

 駅構内で途中まで同じ路線の僕と詩穂を迎えたのは、遅れに遅れまくったダイヤに翻弄されて、一人が通り抜けるのがやっとなほど詰まったホーム手前の階段に続く長蛇の列だった。

『お客様にご連絡いたします。ただいま、降雪の影響で本数を減らして運転をしております。また、一部の路線では運転を取りやめており、振替輸送を実施しております。お疲れのところご迷惑をおかけしますが……』

 何度も何度も早口で繰り返される、余裕のない声音のアナウンスに急かされるような気分を味わいながら、それでも僕らは他の方法もなく長蛇の列に詰めて並ぶ。

 次の電車の到着を示す電光表示板には、軽く三十分は前の時間が示されていた。

 漂う不安げな空気に押し潰されそうになりながらも、電光掲示板が更新されるのとともにじりじりと前へ進み、何本か待ってようやくホームに辿り着く。

 ホームも言うまでもなく混雑していたが、電車が動いているだけマシなのかもしれない。

 振り返って見た僕らが上がってきた階段は、また人が詰まって上がってこれなくなっていて。

 たまに下りる人用に空けてある端の列から人が上がってきては、途中で出口へ下りる客のひんしゅくを買っただけではなく、列に中入りしようとしてさらに冷たい視線を浴びせられていた。

 徐行運転の電車の先頭が目の前を通り過ぎて、にわかに長蛇の列が殺気立つ。

 もう時刻は六時近くなっていた。

「次いつ来るか分からないし、乗らなきゃ」

 隣で詩穂は気合いを入れる。

 扉が開くとともに、濁流のように我先にと、割り込みも押し合いもしながら電車内に吸い込まれていく。

 僕と詩穂もその流れに乗って、時々鞄の角をぶつけられたり、傘の先端をふくらはぎに刺されたりしながら、暖房の聞いた蒸し暑い車内に押し込まれる。

「――ちょっ、いたっ!」

 その後で、乗り切れなさそうな人たちの「諦めきれない一人分のスペース争い」が勃発して後ろから強い力で押され、詩穂が小さく悲鳴をあげた。

「こっち」

 車両最後部、車いすの人のために座席が設置されていない区画に滑り込み、出口近くの壁に背を預ける。これでとりあえず大丈夫だろう。

「なにこれ、ヤバくない? いつもこんな感じなの?」

「土曜でこんな混んでるのは珍しいよ。雪だからかな」

 朝の通勤ラッシュに揉まれている僕には見慣れた光景だけど。

「あー、そっか。そうかも」

 背後の壁に寄りかかる僕と向き合って立つ、上目遣いに僕を見た詩穂と、目が合う。

 なんとか腕一本出してスマホがいじれるくらいの距離しかない。……つまり、ほぼゼロ距離。

 軽く触れた肩から、体温が伝わって来る。

「私の乗る電車(やつ)、止まってるらしいんだけど」

 スマホをいじりながら、独り言のような困惑を口にする。

「え、帰れんの?」

「わかんない」

 家(うち)来る? 僕は咄嗟に出かけた言葉を飲み込んだ。デートしてそのままお持ち帰りとか、どうかしてる。しかも相手は詩穂だぞ。何考えてんだ。

「ねぇ、忍――」

『――急停車します。ご注意ください。急停車します。』

 突然のアナウンス。背後の手すりを掴んだ腕に強い力を込めて、僕はその数秒間を耐えた。

 どこにも掴まる場所がなかった不運な「人の塊」が、急停車に呼応するように、ぐん、と勢い前方に押し付けられて。

「詩穂っ……!」

 それに巻き込まれて、表情をなくして遠ざかっていく詩穂に、僕は咄嗟に手を伸ばしていた。

 詩穂が僕の手を掴むと同時に、僕はぐっと力を込めて引き寄せる。

 吸い込まれるように引き戻された、その、か細い体を抱き留めた。

 ほんの一瞬の間に自分が何をしたのか僕自身よくわからないまま、腕の中にすっぽりと詩穂が収まっている。

 車内が一瞬の混乱からすぐに落ち着きを取り戻しても、一向に僕から離れようとしない。

「あっ、ごめん」

 がっちりと背中に回していた左腕から、詩穂を解放しても、再会したあの日のように、僕の胸に額を押し当てて、首を振る。

 離れようとするどころか、僕の腰の上あたりに、控えめに腕を回してくる。

「大丈夫? 怪我しなかった?」

 ギリギリ絞り出した言葉に返事はない。

 電車も動く気配はなく、無事に目的地につけるのかを案じる不穏な空気が潜在する中で、僕と詩穂の間だけは違う何かが漂っていた。

「詩穂?」

 鼓動が高鳴るのを抑えて、努めて冷静な声で呼びかける。

「……っと、この……が……」

 小声でぼそっと呟いたそれは、半分くらいしか聞こえなかったけど、詩穂が何を言おうとしたのかはなんとなく分かった。……分かってしまった。

 それから、電車は安全確認のためと言って、動かなくなった。

 車掌さんが余裕のない声で同じ説明を繰り返している。

 蒸し暑く、息苦しい車内では、体調を崩す人も出始めているようで、座席の中頃でしゃがみ込んでいる女性が目についた。

 どれだけの時間が経ったのか分からないが、ようやく動き出した電車が間もなく駅に停まる。

 降車したい乗客が吐き出されていくたび、誰かが詩穂の背後を通るたび、僕らはより強く体が密着してしまい、結果として僕の胸に耳を当てる格好になっている詩穂には、コートの上からでもきっと僕の胸の高鳴りがバレてしまっていることだろう。

 上から見下ろす僕は詩穂の顔は見えない。

 僕は、また抱きしめることもできなくて。

 物言わないマネキンのように硬直したまま、ただじっと、時間が過ぎるのを待っていた。


 それからまた何度か止まったり、徐行運転となりながらも、詩穂が降りる前駅に到着する。

 ――僕は、強い焦りを感じていた。

 それは果たして、詩穂と別れることへの寂しさに対してなのか、この降雪で帰れるかも分からない状況で置き去りにすることへの不安なのかは分からなかったけれど。

 いずれにしても、詩穂絡みなのは間違いなさそうで、それもあと、遅くても数分の間に決めなきゃいけない。

 その強迫観念がさらに僕の焦りを助長させる。

 ――電車止まってるみたいだし、帰るの大変だから僕の家来なよ。

 たった一言を吐き出すのがこんなに苦しいものだなんて。

 僕の最寄りへは、このまま乗っていけば三駅手前までは着く。その先は仮に歩いても、まぁ一駅間も大した距離じゃないし歩けないこともない。

 いやでも、それはなんていうかその先の展開も狙っているようで、口にするのもどうなんだという気もする。

「詩穂、降りるの次だっけ」

 分かり切ってることを確認する。

「そーだよ」

「電車止まってるんでしょ? 大丈夫なの?」

 大丈夫なわけがない。こんな無責任な問いかけに、自分自身でイライラしてしまう。

「わかんないけど、行けるとこまで行って、ダメそうならネカフェにでも泊まるよ。なんとかなるって」

 詩穂は疲れた顔を見せながらも、なんでもなさそうに見える笑顔を僕に向けた。

 そんな顔を見せられたらますます……。

「あのさ――」

「お客様にお伝えいたします。間もなく当電車は――」

 一瞬だけ尖った僕の勇気が車内アナウンスで遮られ、萎んで行ってしまう。

「ん?」

「あっ、いや、なんでもない」

 ああ、この時間が終わってしまう。どうしよう、どうしたらいい?

 詩穂といる中で過去最高の緊張をもって、僕は乾いた口の中で、唾を飲み込む真似をした。

 駅のホームが流れていく。速度が落ちていく。雪で運休した他路線から流れてきたと思しき大量の人たちも。

 網棚から荷物を下ろす音、ドアににじり寄る人、にわかにまた空気が殺気立つのを感じる。

「そろそろだね、思ってたより楽しかった。ありがと。また行こうね」

「なんだよ思ってたより、って」

 電車が停まり、力なく僕の毒づきが消えていく。最後の数秒でぺちぺちと僕のコートの袖を叩いていた手が離れ、今日一日で聞きなれたヒールの音が外に流されていく。

 発車ベルが鳴り終わって、怒声じみた発射アナウンスが繰り返されている。

「詩穂っ!」

 僕が名前を呼ぶのとほぼ同時にドアがしまり、この時間の終わりを告げた。

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