第3話

 翌朝、普段は寝不足がデフォルトの僕が久しぶりに二桁の睡眠時間を確保できたおかげか、意外なほど寝起きはすっきりとしていた。

 いつもの習慣でスマホを見たが詩穂から何も連絡はなく、そりゃあ昨日会話を打ち切ったのは僕だから当然かな、なんて内心で呟いて、何か代わりの返信をしようと入力欄をタップする。

 そのくせ、何を言えばいいのかも分からなくて、何かを中途半端に書いては消す作業を繰り返し、結局は諦めてスマホを置いた。

 ただただ不愉快な気持ちばっかりが僕の中に落ちてきては、心の底に真っ黒でいびつなまだら模様を形成していく。

「あー……、ダメだ!」

 苛立つままにベッドを一発殴ってから立ち上がると、僕はスマホを置いて階下に降りる。

 リビングでは母さんがソファで寝転がっていて、だばだばと足音を立てて走り寄ってきた我が家のトイプードルが、僕の臭いを嗅いでぶしゅっとくしゃみをするなり、来たときと同じようにだばだばと戻って母さんの背中の上に乗る。

「なんだっけ、この展開。あの崖の上でライオンがライオンしてるの」

「いや、知らないけど、ライオンがライオンしてるのって何」

 相変わらず母さんの言うことはよく分からない。

 もう興味を失ったらしい母さんは、背中に乗るトイプードルの体重が疲れた体にちょうどいいらしく、「あぁ~……効くぅ」なんておっさんくさい声を出している。

 めでたさの欠片もないいつもの休日の光景に、普通を装える程度には落ち着きを取り戻せた。

 僕が寄っていってソファの縁を背もたれに腰を下ろすと、母さんの背中の上で首を伸ばしたトイプードルが僕の臭いを嗅ぎ、首もとでまたぶしゅっとくしゃみをする。

「きたねっ」

 咄嗟に服の襟を掴んで首を拭っていると、ソファから降りてきた犬が僕の前に回り込み、普段は絶対にやらないお座りをして、あぐらをかいた足の上にお手をしてくる。

 ――おい、おやつをよこせ。

 まったく現金な犬だ。両手でこねるように顔をいじり回すと、手がよだれと鼻汁でぐしょぐしょになった。

「うわっ! くせっ」

 つい怖いもの見たさで鼻を近づけると、野性的な臭いに悲鳴を上げる。

「何してんの。バカねえ」

 母さんの呆れた声を聞いて手を洗い、冷蔵庫から昨日余ったビールを取り出して開けると、一度口をつけてから元の位置に座り直す。

「忍ー、私の分もー」

「えー、もっと早く言えよなぁ」

 文句を垂れながらもう一本持ってきて、母さんに手渡す。

 体を起こして、お礼も言わないままに同じく一口。

「あー休日の昼間のビールは最っ高」

「わかる」

 正月特番で盛り上がるテレビをぼんやりと眺めているかと思いきや、

「あ、そうだ。ねー忍聞いてよ。昨日うちのお客様がさぁ――」

 テレビの音が聞こえなくなる音量で、母さんは待ちわびた年に数度ある文句垂れ流しタイムを開始する。こうなるとなかなか止まらない。

 慣れてるけどめんどくさい僕は、心のスイッチをオフにして適度に相づちを打って聞き流すことにする。

「――忍、この一年で大人になったね」

「えっ? なんの話?」

 だからこそというべきか、矢庭に母さんが言ったそれに意識が引き戻された。

 どんな流れでその言葉が出てきたのかは、中身が空洞になっているちくわ顔負けの聞き流しをしていた僕には分からないけど。

「大人って言って思い出した。お父さん普段あんな言い方してるけど、仕事の人にはうちの息子はちゃんと仕事してるんだ、って忍の自慢してるらしいよ。……あ、そういえばお父さんが最近さぁ」

 母さんの文句垂れ流しタイムその二。

 本人がいないのをいいことに今度は父さんのことを好き放題言い始め、最後には「で、なんの話だっけ」とか言う始末。母さんにとって、今の愚痴に大した意味はなかったのかもしれない。

 僕が大人という言葉に感じかけた機微も一瞬で吹っ飛んでしまい、しらねっ、と投げやりに答えていた。あー、なんかほんとどうでもいい。

 残り僅かなビール缶片手にリビングを後にする。

 

 自室に戻り、ベッドの上に放置していたスマホを確認する。

『新しい通知があります』

 と、画面に出ていた帯をフリックして消し、パスワードを入力する。

 ショートカットからチャット画面を起動すると、企業の公式ページが表示された。

『新春初売りキャンペーン』

 紅白のおめでたいシマシマが鬱陶しい。

 画面を戻り、一覧画面の新着には詩穂のアカウントから二件の通知。

『断ったから、予定通りでよろしく』

『つか昨日、どうやって断ろうか聞いたのに、そっち行けばいいとかひどくない??』

 おそるおそる開いた先に書かれていた詩穂の口ぶりに、思わず僕の心の底に溜まっていたものが表出しそうになってしまう。

『ごめん、先約あるならしかたないって思った』

 どうやって答えるか悩んだ末、文面では当たり障りのないそれっぽい理由を返信する。

『普通そうかもしれないけど、高橋くんにはあたしフラれてるし、行くわけないじゃん』

 僕はそれでも、あの坊主頭のところに行くと思ってたんだ、とはさすがに言えない。

『好きな人とは、それでも一緒にいたいのかなって思ったんだよ。よく分かんないけど』

 多分、よく分かってないのは僕自身の気持ち。僕はどうしたかったのか。なんでこんなにヘソを曲げてしまっているのか。「振った相手の約束を僕より優先されたから」というのはあったとしても、しかたないで済ませてきたはずなのに。

『付き合えたらの話でしょそれは。忍は恋愛に夢見すぎ』

『恋愛に夢見ないでいつ見るんだ』

『うわなにそれうざ』

 割と本気だったのに一蹴されてしまった。

『昨日、忍に断るって言い直すと気を遣われそうだったから、再来週って聞いたらそれも微妙な感じだし。わがまま言っちゃってたけど、ほんとはあたしと出かけんの嫌だった? それなら無理しなくていいよ?』

 昨日のあの短い文面からここまで読まれてんの。察し良すぎてむしろ怖い。

『そうじゃなくて、だって昨日誘ったの僕だし。なるべく詩穂には気を遣わないようにしたかったけど、さっきも言ったけど僕じゃなくて好きな人と一緒にいたいんだろうなって思ったんだよ』

『そゆこと? 忍のくせに生意気』

『わざわざ忍のくせには余計でしょ。なんでそんな僕のこと見下してんの』

 先約あったのは詩穂であって、僕がじゃない。あたかも僕が悪いみたいな口ぶりに、胸中でチリチリと火花が散る。発火寸前のところをなんとか堪える。

『そだね、余計なこと言った。今のはほんとごめんなさい。いつものノリで嫌なこと言った』

 いつものノリなら笑って済ませるところだけど、今の僕は些細なことがイライラに結びついてしまう。

 いっそ、また無視してしまおうか。画面を眺めて迷う。

『謝ってるだけじゃ気が晴れないかも知れないけど、忍の優しさに気づかなかったのはあたしが悪い。だから嫌なら無視してくれていいよ』 

 僕が静観していると、数分の間をあけて吹き出しが追加される。

『でももし、忍さえよかったら、許してくれるなら、一緒に遊びいきたいなー……て思う。だめかな』

『いや、そういう聞き方はずるいでしょ』

『そーかな。でもほんとだもん』

 ――だって、僕の逃げ道がなくなるから。

『ちょっとすねてたのに、ダメって言えなくなった』

 あっさり降参。まんまとしてやられた感じ。

『おっ? てことは??』

『仕方ないからいいよ。予定通りで』

 いつもならじゃあまた次の機会に、なんてなって、そのまま連絡を取らなくなりそうだけど。

 珍しく食い下がられて押し切られた感じ。

 いや結果として、もともとの予定通りになっただけなわけで。

 今ごろあいつはどんな顔をしているだろう。きっと、してやったりなドヤ顔をしているだろうな。

 昨日の詩穂の横顔を思い出して、週末のことを思い描いて、なんとなく落ち着かなくなって。

 まだ心の奥に引っかかっていたものの余韻はあるけど、それももうじき治まるだろう。

 許す理由を与えられた僕はようやく人心地ついて「いつもノリ」に戻っていく。

 このくだらない会話も、ゲーム仲間とするのとはまた違った、お互いの距離感がよく分かっているからこそ成り立っているものなんだろう。

 なんていうかありきたりだけど、幼馴染みっていう存在の大きさというか、ありがたさというか、……特別感? みたいなものを自覚してしまう。自分でもよく分かんないけど。

 一旦消灯したスマホの黒い画面に映る僕は、自分でも気づかないうちに、自分でもみっともないと思うほどに、にやけていた。

 

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