90話-1、妖怪の血を呼び覚ます、満月の光。その4

 夜の帳に夕暮れの名残が点在する、まだ月の顔が出ていない四時半頃。


 秋国から遠く離れた人気ひとけの無い山奥にある、七方が鉄壁に覆われた仮設研究所に到着したカマイタチの辻風つじかぜ薙風なぎかぜ癒風ゆかぜ達は、一方の壁が設置されていなく、不用心にぽっかりと空いた仮説研究所に入っていった。

 足音がやたらと響く部屋内は、既に物を撤去したのか。テーブル類を置いていた跡と、壁に生々しい傷跡があるだけで、殺風景を極めている。

 その、もぬけの殻と化した部屋内で、我先にと胡座をかいた薙風が、「ふぃ〜」と言葉混じりのため息をついた。


「手荷物無しはいいねえ。ここまで歩いてくるのに、すげえ楽だったぜえ」


 過去を振り返る様に呟いた薙風が、右手に持っていた水入りの竹筒の栓を抜き、豪快に喉を鳴らしながら飲み干していく。

 キャンプ感覚でくつろぎ、一息ついている薙風に、若草色の着物袖で口元を隠し、「ふふ」と華奢に笑う癒風が、ほくそ笑んでいる辻風へ顔をやった。


「辻風お兄様。鉄網と睡眠玉を持ってこなくて、本当によろしかったのですか?」


「ああ、もう必要無いからね。今日で、全てを終わらせるよ」


「おい兄ぃ、そろそろ満月が出るぞ。月の出時と、薬を飲んだ時間の逆算は合ってんだろうなあ?」


「今日だけは、一つのミスも許されないからね。寸分の狂いも無しさ」


 辻風の自信に満ちた返答に、薙風は口角を緩く上げ、胡座をかいた己の太ももを叩いた。


「よーし! なら、今日こそは上手くいくだろお! なあ、癒風!」


「はい。前回は十分少々足りませんでしたが、今回は計算上、辻風お兄様の抗体も考慮しましても、二十分以上の猶予が期待出来ます。そして事前の検査により、副作用が起きていない事も確認済みです」


「その試験は、私の体で五回試している。無論、全てまったく問題無かった───」


 最終確認と前回の反省会も兼ねて、入念な試験結果を発表している最中。薙風が持っていた携帯電話から、短調的で大きなアラームが鳴り出し、三人の会話を中断させた。


「おっと、そろそろ満月が出る時刻だね。さあ、始めようか」


 おっとりとした様子の辻風とは相反し、薙風と癒風に鋭い緊張が走り、互いの黒い瞳が切れ目のように細まっていく。


「頼むぜ、兄ぃ」


「辻風お兄様、ご武運を」


「ああ」


 静かな鼓舞を奮い立たせる二人の後押しに、辻風は覚悟を決めた短い言葉を返し、一人仮設研究所の外へと出る。

 三歩ほど進むと、色を失った闇深い紅葉の森に、満月の青白い光が差し込み出し、淡く色付けていった。

 しかし、妖怪の本能を呼び覚ます、劇毒とも言える光を全身に浴びるも、辻風の体には何も変化が訪れず、二本の足で平然と立っていた。


「うん。今宵も、良い月光浴日和だね。だけど、暖かさが足りないね。風邪を引いてしまいそうだよ」


「いいぞ兄ぃ。もっと皮肉を込めて、憎たらしい満月を挑発してやれえ」


「前回は、それで私達共々、痛い目を見ましたけどもね」


 調子付いてきた二人の体に小並を立たせる、癒風の呆れた指摘。


「耳が痛いね、その言葉は……」


「こちらは、耳を削ぎ落とされそうになりましたからね。月の入まで油断をしないで下さい」


「そうだぞ兄ぃ。前回は誰のせいで、十分足らなかったと思ってんだあ?」


 おしとやかながらも、反論を許さぬ圧が強い忠告を追う、即座に寝返った薙風の追い打ちに、孤立した辻風が口元をヒクつかせる。


「君は、私と癒風、どちらの味方なんだい?」


「そりゃあ決まってんだろ? 兄ぃと癒風、両方の味方だ!」


 当たり前だろと豪語し、雄々しく清々しい笑顔をしながら、親指を立てる薙風。


「……ははっ。心強い味方が居てくれて、大いに助かるよ」


「辻風お兄様。新たな被検体が欲しくなりましたら、いつでも申し出て下さい。直ちに薙風お兄様を、そちらへお送り致します」


「おい、癒風様? 俺は今日、薬を飲んでねえんだからな? 前みたいに、外に向かってぶん投げねえでくれよ?」


「それでは、今すぐ服用をして下さい。三十数分経ち次第、直ちにお送り致します」


「意地でも、ぶん投げるって言わねえんだな……」


 裏切り行為で正当な裁きを受けそうになり、真横に最大の脅威が生まれるも、逃げ場の無い薙風は、胡座から正座に座り直し、反省の意を込めて黙り込んだ。


「しかし、今日は皆心に余裕があるね。今までだったら、皆ピリピリしていて、口喧嘩までしていたというのに」


 満月の光を全身に浴び、この場で一番の脅威に晒され続けている辻風が、青白い光を帯びたから笑いを二人に送る。

 まだ無事だと知らせる、その安堵する兄の笑いに、二人は数秒の間を置いてから、それぞれ個々のあるほくそ笑みを返した。


「昔は、終わりが見えねえ作業にやきもきしてて、相当苛立ってたからなあ」


「そうですね。辻風お兄様が、先に申した通り。今日で全てに終わりを迎えます。その思いを確信までしていますので、こうやって悪ふざけが出来るのでしょうね」


「だね。当時の私達なら、今の光景を夢にも思わないだろう。まさか、店でもよく見る光景を、ここでも見られるなんてね」


 過去の己達を思い返し、しみじみと感傷に浸り出した辻風が、遠くを見ながら夜空を仰ぐ。


「満月、君も覚えているだろう? 君に惨敗を喫し続けた私達を。年数に換算すると、約二十二年以上にもなる。その都度、君は私達を嘲笑っていただろう。無駄な足掻きはよせとね。だが、今日は違うよ? 今日こそ私は、地平線に没する君を必ず見届けてやる。そして……」


 満月に最後の宣戦布告をした辻風が、両手をおおらかに広げ、敵に贈るには相応しくない笑みを贈った。


「来月、君が再び出てきた時。私達と温泉街の皆は、太鼓や笛の音、花火を夜空に轟かせてバカ騒ぎをしてやる。だから君は、今から覚悟をしておくんだね。一人寂しく、夜空で浮かぶ覚悟を」


「はっはぁー! よく言ったぞ兄ぃ! 満月の悔しがってる顔が、目に浮かぶぜえ!」


「勇ましい限りです、辻風お兄様」


「温泉街のメンバーを代表して、鬱憤を晴らしたまでだよ。まあ、今日ぐらい口を悪くしても、誰も文句は言わないだろうね」


 皆の総意を代弁し終え、二人に兄の威厳を示した辻風は、既に始まった持久戦に備え、腕を組んで楽な姿勢を取った。

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