88話-5、妖怪の総大将、一時的に死す

「花梨……、ん?」


 内なる想いを全て曝け出した花梨に抱き締められるも、その想いを二十四年間気付けず、抱き返せずにいたクロが、ようやく声を発するも。

 花梨から聞こえてくる、等間隔の細い呼吸音に違和感を抱き、そっと花梨の顔を覗いてみた。


「寝てる、のか?」


 恐る恐る花梨の横顔を確認してみると、泣き疲れた瞳は閉じており、静かに寝息を立てていた。

 ひとまず安堵したクロは、花梨が立てている寝息にため息を混ぜ。未だに硬直したままのぬらりひょんに横目を送り、花梨を抱きかかえた。


「とりあえず、部屋に送るか」


 ぬらりひょんを慰めるのは後回しにしたクロは、音を立てずに扉を開け、支配人室を後にする。

 そのまま闇に佇む冷えた空気を感じつつ、花梨の部屋の前まで来て、塞がった片手で器用に扉を開けた。


「入るぞー」


「おっ、やっと帰ってきた……、あ? 秋風、寝ちまったのか?」


 闇に目が慣れてしまったせいで、一瞬目が眩んだ視界の先。

 眠たそうなジト目で、尾が二股に分かれた黒猫を太ももに置き、背中を撫で回しているぬえが、開口一番に目を丸くした。


「ああ、話の途中で寝ちまってな。こうやって連れて来たんだ」


「花梨っ、相当酔ってたもんね」


「お腹撫でて欲しかったのに残念」


 まといの声で喋った黒猫が、つまらなそうに伏せて、二本の尾でペチペチと鵺の腹を叩く。


「纏、私に撫でさせてくれよ」


「そう言って思いっ切り吸ってくるからダメ」


「クソ、バレてたか」


 魂胆が即座にバレ、仕方なく背中に顔をうずめた鵺が、豪快な吸引音を出しながら吸い始める。


「ああぁぁーーーー」


「ぷはあっ! うっし、ごっそうさん」


「鵺の吸い、たまらん」


「何やってんだ、お前ら……」


 まるで打ち合わせでもしていたかのようなやり取りに、呆れるも苦笑いしたクロは、皆の横を通り過ぎ、花梨をベッドに降ろす。

 寂しそうにしていそうな寝顔に、涙が残っていない事を入念に確認すると、鼻からため息をこぼしたクロは、鵺達が居る方へ振り向いた。


「よし。ゴーニャ、纏。もし花梨が起きたら、歯磨きをするよう言っといてくれ」


「分かったわっ」


「にゃー」


「纏。お前、余裕ぶっこいてっけど、猫又になって大丈夫だったのか? もう夜中の一時回ってんぞ?」


「え? ……あ」


 あっけらかんと言ってきた、鵺のあまりにも遅すぎる疑問に、纏は本当に今まで気付いていなかったのか。

 現在時刻を認めた途端。無表情ながらも、猫又と化した纏の体が小刻みに震え出した。


「ゴーニャ助けて。次の夜の十二時になるまで、元の姿に戻れない」


「任せてっ! 首輪が外れるまでの間、ずっとギュッてして守ってあげるわっ!」


「頼むぜ相棒」


「それでいいのかよ。まっ、お前らがいいならいいか。んじゃあクロ、戻ろうぜ」


 妹達の切り替えの早さとやり取りに、特に問題は無いと割り切った鵺が立ち上がり、次の夜まで元の姿に戻れない纏をゴーニャに託し。

 ベッドに駆け寄り、花梨の腹に乗って香箱座りした纏と、手を大きく振っているゴーニャにヒラヒラと手を振り返しつつ、花梨の部屋を後にした。


「でよ、クロ。ぬらさんは、ちゃんと聞いたんだろ? 秋風はなんて言ってたんだ?」


 先ほどまで蚊帳の外に居た鵺が、クロに詰め寄り小声で聞いてくると、惨劇の一部始終をしかと目に収めていたクロは、肩を落としながらため息を吐いた。


鷹瑛たかあき紅葉もみじに逢いたいって、切に言ってたよ。けど、その思いは私達の想像を遥かに上回る強さだった。なんで気付いてやれなかったんだろうって、後悔する程にな」


「……マジか」


 クロから返ってきた暗い返事に、ある程度の経緯を察した鵺が、クロから半歩距離を離す。


「まあ、なんだ。そう気に病むな。お前が気付かねえのも無理はねえよ。秋風の奴、隠し事をするのがマジで上手いからな。表情には一切出さねえし、おまけに自語りもほとんどしねぇし」


 不器用にクロを励まし出した鵺が、後頭部に両手を回す。


「そんであいつは、どんな時であろうとも笑顔を絶やさない奴だ。だからこそ、あいつが悩みを抱えてるなんて思えねえし、その考えまで辿り着けねえ。私やぬらさん、温泉街の奴らでさえ、そのせいで気付けなかったんだろうよ。ったく。ずりいよなあ、あいつの眩しい笑顔。見てるだけで、元気や活力が湧いてくるんだぜ? 疲れてる時に見ると、マジで癒されんだ」


「……そうだけど。私達は当分の間、花梨の笑顔を見られないだろうな」


「あ? なんでだ?」


 話を逸らす意味を込めて鵺が語るも、その話を戻したクロは、闇に溶け込みそうなしおらしい表情をしていた。


「色々あった結果、花梨が激昂してさ。泣きながらぬらりひょん様に、大嫌いだって言っちゃったんだ」


「げっ……、マジで?」


「マジだ。あんなに怒った花梨は、初めてみた。鵺、お前の言う通りだったよ。怒った時の花梨、本当に怖かった。下手な事を言えば、怒りの矛先が私にも向いて、嫌われるかもしれないって考えちゃってさ。何も言えなかったよ。……情けないよな、十七年間も花梨を育ててきた母親として」


「いや。当然の恐怖だと思うぜ、それ」


 息の詰まる沈黙が訪れるかと思いきや、鵺は沈黙を作る前に即答で返す。


「私だって同じ立場に立たされたら、クロと同じになっちまうだろうよ。声も出せず、励ます言葉も見つからず、ただ黙って呆けちまうさ。私もこんな性格だし、色んな奴に嫌われてきたけど……。なんでだか知らねえが、秋風だけには嫌われたくねぇんだよなあ」


 胸の内を赤裸々に明かすも、クロからの返答は無く。鵺が作らなかった静寂を、クロ自らが呼んでしまった。

 花梨の部屋から支配人室までには、普通に歩けば二十秒前後で着くものの。一分にも五分にも感じていた二人が、静寂を破れぬまま支配人室の前に着き、クロが扉の取っ手に手を伸ばした。


「そういやクロ、ぬらさんはどうなったんだ?」


「……ぬらりひょん様は、こうなってるよ」


 説明より見た方が早いと、クロは扉を開け、暗闇に慣れた鵺の目を眩ませる。

 まだ白しか見えない視界の先。ゆっくり色付いてくると、そこには書斎机に涙たまりを作り、その涙に突っ伏しているぬらりひょんの姿があった。

 部屋にはすすり泣く声が充満していて、事の悲惨さを身に染みて感じた鵺が、口元をヒクつかせる。


「完全に死んでんな、ありゃ……」


「……もう無理ぃ……。……消えたい、死ぬぅ……」


「心もバキバキに折れてんじゃねえか」


 我らが総大将の見るも無惨な姿に、逆に冷静さを取り戻した鵺は、とりあえず現場検証をするべく、扉を閉めて隣に付いたクロへ顔をやった。


「なあクロ。秋風はここに居る間、ずっと酔っ払ってたか?」


「たぶん酔っ払ってたと思う。じゃないと、あそこまで言わなかっただろうからな」


「そうか。なら、何も心配する必要はねえな」


 愛娘に嫌われてしまい、魂が抜けて亡骸になったぬらりひょんと、意気消沈しているクロに相反し、鵺だけがニヤリと笑う。


「すっかり死に絶えたぬらさんに、一発で生き返る朗報をくれてやる」


「……ろーほー?」


「そうだ。いいか、よく聞けよ? 酔っ払ってる時の秋風は、記憶が一切ねえ。だから今回の事はぜーんぶ、なんも覚えてねえぜ」


 得意気に人差し指を立てた鵺の、野太く強烈な光明が差す一言に、白目を剥いていたぬらりひょんの瞳に活力が瞬時に蘇り、飛び越す勢いで書斎机に乗り上げた。


「そ、それは本当かッ!?」


「こんな場面で、ウソついたって仕方ねえだろ? 安心しな、この目でしかと見てきたからよ」


 絶対の安心感をぬらりひょんに与えるべく、鵺は己の目元を指でトントンと叩く。


「明日、秋風に飲み会について聞いてみな。逆に、私、何かやっちゃいましたかっつって、焦りながら聞き返してくるぜ」


「鵺。その情報、間違いないんだな?」


 念を押すクロの問い掛けに、鵺は呆れ気味に肩をすくめる。


「私は、秋風と二人で何回も飲んできたんだぞ? まあ、あいつが酒を飲んだ回数は、両手足の指で数えられる程度だが。その都度、記憶が全部綺麗に吹っ飛んでたぜ」


「本当に、ほんっとうに間違いないんだな?」


「ああ、私の命を懸けてもいいぜ」


 二人の信頼を勝ち取るように、鵺は心臓がある左胸に親指を突き立て、強めに二度押し込んだ。

 しかし、心が弱った二人からの反応は返って来ず。掛け時計の長針が時を刻む音だけが、等間隔に沈黙を破っていく。

 そして、数秒後。ぬらりひょんは、書斎机に出来た涙たまりへ飛び込むように倒れ込み。クロもクロで、空気が抜けた様に膝から崩れ落ち、尻を突き出しながら床に突っ伏していった。


「よ、よかったぁ〜……」


「……よかった。本当に、よかった……」


 緊張の糸が完全に切れ、腑抜け切った二人が同時に吐き出すは、気疲れのこもった長いため息。

 そのため息に挟まれた鵺は、だらしない姿になった二人を認め、緩くほくそ笑む。


「ぬらさん。念の為、明日の朝、秋風をここに連れて来てやろうか?」


「た、頼むぅ……」


「よし、ついでにクロもだ。朝食後に連れて来るから、ちゃんとここに居てくれよ?」


「分かったぁ……」


 細く掠れた二人の返事に、唯一この場でピンピンしている鵺が、腕を組んでから明るい苦笑いを飛ばす。

 そのまま突っ伏しているクロの元へ寄り、肩を貸して立ち上がらせて、全身涙まみれになっているぬらりひょんの元へ向かっていった。

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