86話-9、しっかりと効いていた説得

 どこか哀愁漂うぬえの背中を見送ったクロは、扉の向こう側から薄れていく気配に、侘しさを含んだ眼差しを送り続け。

 鼻からため息を漏らすと、あいつ、本当に大丈夫かな? と気に掛け、心残りが晴れぬ視界を一旦閉じる。

 数秒すると目を開き、明日の朝、ちょっと様子を見に行くか。と心に決め、小さくうなずいた。


「どどどっ、どうしよう……」


「ん?」


 ふと視界外から聞こえてきた、今にも消えてしまいそうなか細く震えた声に、クロの開いたばかりの視界が若干細まる。

 不穏に感じ、ぬらりひょんが居る方へ恐る恐る振り向いてみると、あまり拝みたくない視界の先には、まるで別人のように人が変わったぬらりひょんの姿があった。

 顔からは血の気が引いていて、深海の如く青ざめており。右手に持っている湯呑みは、中身が零れてしまいそうな程ガタガタと震えている。

 そんな、数分前まで居た妖怪の総大将に恥じぬ態度でいた者は、既にそこには居らず。代わりに迫る恐怖に怯え、縮こまった老人が座っていた。


「あの、ぬらりひょん様? いったい、どうしたんですか?」


「ど、どうしたも何も……。花梨に、全てを言う決心、まだ全然ついとらん……」


「は?」


 泣きそうな表情で告白してきたぬらりひょんに、クロは絶句して眉間に深いシワを寄せ、素の声で反応してしまい。

 数秒してから、思考が吹き飛んていた頭でも理解が追いつき、両手でテーブルを思い切り叩きつけ、「ええーーっ!?」と驚愕した大声を放った。


「ちょっと待って下さい、ぬらりひょん様!? だってさっき、ぬえに散々言ってたじゃないですか! 最低でも冬を越す前には、花梨に全てを明かすって! あれ、全部嘘だったんですか!?」


「あいやっ、その……。えと、だな……」


 クロの怒号紛いな絶叫を浴び、思わず体に大波を立たせたぬらりひょんが、女々しそうに両手の指先を合わせ、口を尖らせる。


「だって、立場上、ああ言わんといかんだろ……? そうじゃないと、鵺も報われんし……。せめて、上に立つ者として、振る舞おうと思ってだな……。ワシ、あれでも頑張ったつもりだぞ?」


 弱々しく言い訳をする姿は、最早、妖怪の総大将としての名残すら無く。むしろ、評価をしてほしいという上目遣いで、クロに訴えてくるぬらりひょん。

 そんなぬらりひょんに、クロは呆気に取られ、軽蔑したジト目で睨み返す事しか出来なかった。


「今のぬらりひょん様を鵺が見たら、本気で怒ると思いますよ?」


「そ、そう言わんでくれ……。もしバレたら、ワシの後頭部が無くなってしまう……」


「問答無用で叩き斬られて、収穫されるでしょうね」


「グゥッ……! ああ〜、花梨よ。頼むッ! しばらくの間は夢を見ないでくれぇ〜……!」


 頭を抱え、無茶苦茶な願望に縋るぬらりひょんに、クロは引っかかる物を感じ、顎に手を添えて蔑んだ視線を横へ逃がす。


「今更ですが。なんで花梨は、そんな夢を連続で見てるんでしょうね?」


 ふと引っ掛かる疑問を口にすると、ぬらりひょんは頭に抱えていた両手を垂らし、苦悩が混じったため息を大きく吐いた。


「たぶん、過去の記憶が夢に出ているんじゃないか?」


「記憶、ですか?」


「ああ。その時の花梨は一歳前後だし、物心も当然ついていないはず。しかし、記憶ともあれば話は別だ。想像を絶する惨劇を目の当たりにし、疲れて眠りに就くまでの間、火がついたようにずっと泣き叫んでいた。そのせいで脳裏に焼き付いているだろうし、悪い形で印象に残っているのだろう」


 当時の出来事を語り出し、答えに近そうな憶測を述べたぬらりひょんが、やるせなさそうにしている目を閉じ、今度は鼻からため息をつく。


「悪印象や記憶は、そうそう忘れられるもんじゃない。きっと、温泉街に戻って来た事が記憶を呼び覚ます切っ掛けとなり、夢に出てきたんだと思う」


「だとすると……。花梨は結構前から、夢を見てる事になりますよね?」


「だな。そして今日、夢の中で紅葉もみじぬえの名前。『牛鬼牧場うしおにぼくじょう』や『秋国』が出てきてしまい、気になって鵺に問い掛けてしまった訳だ」


 動かぬ決定的な証拠の数々に、『時が来たら』という大義名分の猶予が急速に無くなるも、ぬらりひょんは「が」と無駄な抵抗を続ける。


「鵺の言葉から察するに、まだ花梨自体の名前は出ていなく、紅葉の正体は分かっていないだろう。それだけが唯一の救いか」


「ですが、時間が刻一刻と迫ってるのには変わりないですよ? 今日にだって、また花梨がその夢を見る可能性もあるんですからね?」


「分かっとる、分かっとるよ……。はぁっ……」


 後を引く暗い返答を包み込む、ぬらりひょんの三度目のため息。

 まだ花梨に全てを明かす決心がついていなく、明日にもその時が来る可能性がある事実に、活力を失ったぬらりひょんの表情が、年相応以上に老けていく。

 覇気も無ければ生気も無く、猫背が似合う程までに老け込むと、気分を間際らせるべく酒を飲んだ。


「やはり、鵺に聞いたという事は……。花梨は知りたがっているんだろうな」


「それだけは間違いないと思います。それに鵺いわく、花梨も花梨で探りを入れてるようですし、語り部と称する者の存在も認識してます。誰かが示唆してると予想出来ますが、花梨はどこまで何を知ってるんでしょうね」


「……さあな」


 クロの問い掛けを一言で切ったぬらりひょんが、どこか遠い場所を見つめている目を、天井に持って行く。


「花梨は、自分の想いを押し殺してひた隠す子だ。そして辛抱強く、他者に迷惑を掛けたくない一心で、とにかく明るく振る舞っていた。目が眩む程に眩しく、悩みを抱えているとは到底思えない程にな。だからこそ、それさえ聞くのが怖い。せめて花梨が、親についてどう思っているかが知りたい」


「一度だって聞いてきませんでしたからね。父や母がどういう人で、どんな顔や声をしてたのかとか。たぶん、祖父を演じてた私達を困らせたくなかったんでしょう」


「だろうな。しかし、気になる。それさえ分かれば、ワシの踏ん切りもつくだろうに」


 理由と切っ掛けを探すぬらりひょんに、過去、満月が出た日の夜。心の奥底に留めていた悲痛なる花梨の想いを、唯一耳にしたクロは、なんとかぬらりひょんにも共有したいと、模索し出していく。

 しかし、どんな状況だとしても最悪な結果を招く未来しか見えず。花梨が通常の状態では、突拍子もなく聞ける機会は設けられそうになかった。


「せめて、寝言で聞ければいいんですがね」


「それか、花梨が酒を飲んで酔っ払った状態で聞くしかないな。しかも、ワシと花梨、それかお前さんが居る状況のみでだ」


「それも、かなり難しいですね。ゴーニャとまといが常に付き添っていますし。たとえ二人を離したとしても、花梨に酒を飲ませるのは気が引けますし、あまり勧めたくありません」


「ワシもだ。……どうやらこれは、ワシが決心する他以外に無さそうだな」


 数少ない万策が尽き、元から一つしかなかった答えに辿り着こうとした矢先。ぬらりひょんを想ってしまったクロが、「ぬらりひょん様」と口を開いた。


「なんだ?」


「しばらくの間、また花梨の休日に合わせて、私も有給を取ってもいいですか?」


「別にいくら取っても構わんが、何かするのか?」


「あくまで、ごく自然にですが。私もゴーニャ達みたいに花梨と付き添って、動向や気持ちを探ってみようかなと思いまして」


 クロの提案に、ぬらりひょんはクロが自分の為に動こうとしている事に勘付き、それにあやかろうか止めようか、数秒だけ判断に迷う。

 が、今は時間があまり無い事が決定打となってしまい。罪悪感を抱きつつ、藁にも縋る思いで口を開いた。


「すまんが、任せてもいいか?」


「ええ。あくまでごく自然に振る舞うので、私から話を切り出すつもりはありません。それだけは、ご勘弁願います」


「そこまでしなくていいが、悟られるなよ?」


「もちろんです。ただ花梨達と、温泉街巡りをしてくるだけですからね。楽しく遊んできます」


 羽休めついでに、花梨達と遊ぶ予定を組んだクロが、軽くなった手でコップに酒を注ぎ、先ほどよりも美味しく感じる酒を飲む。

 そのクロを追い、気が気でないぬらりひょんも酒を注ぎ、味がまったくしない酒を一気に飲み干した。

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