86話-7、全てを背負うという事は

「そうか。秋風の奴、今日まで怒った事がなかったんだなあ。今日までは・・・・・


 二人に確認し、改めて事実を強調して突きつけたぬえは、穏やかな声量ながらも怒りの感情を込め、真紅の瞳でぬらりひょんを捉えた。


「どうだい? ぬらさん。十七年間、愛情を注いで育ててきた愛娘を怒らせた気分は?」


 声は荒げず、言葉の刃でぬらりひょんを脅しに掛かるも、本人は妖怪の総大将としての貫禄を見せる面立ちでいて、眉一つ動かそうとはしない。

 威風堂々と構えるぬらりひょんに、鵺は、こいつは、ちょっと骨が折れそうだな。と予想し、視線をぬらりひょんから外した。


「怒ったって事は、それ相応のストレスを感じてるはずだ。無論、語り部のあんたに対してな」


 言葉の刃を増やしていく鵺が、再び鋭い眼光をぬらりひょんへと戻す。


「そりゃそうだろ? いつまで焦らされるのか分からないまま、やきもきしながら日々を過ごしてるんだからよ。その怒り、いつか爆発しちまうぜ?」


 いくら言葉の刃を研ぎ澄まそうとも、ぬらりひょんの表情は未だに微動だにせず、ただ鵺の顔を見据えたまま。

 そんな、何を思っているのかすら読み取れないぬらりひょんに、鵺は標的を変えるべく、天井を軽く仰いだ。


「普段怒らねえ奴が怒ると、身の毛がよだつ程に怖えんだよなあ。なあ、クロ?」


「わ、私?」


「ああ。お前だって、滅多な事じゃ怒らねえだろ? けど、先の満月の時、雹華ひょうかの中で蠢いてた奴にマジ切れしてたじゃねえか。あれ、足が竦む程に怖かったぜ。まさに、万物を怯ませる恐怖を覚えた」


 クロの怒髪天を衝く怒りを、次に話す話題の前振りに使い。ただクロを困惑させた鵺が、顔を三度ぬらりひょんへやった。


「けどよ。私は秋風に本気で怒られる方が、よっぽど怖いね。クロの恐怖とはまた違う、別の恐怖があるだろう。秋風に嫌われたかもしれないっていう、心身の底まで血の気が引くような、未曾有の恐怖がな」


 愛娘に嫌われるというワードに、ぬらりひょん初めて、右眉をピクリと反応させる。その僅かに見せた揺らぎは、当然鵺も見逃さず。ぬらりひょんの死角にある左側の口角を、そっと上げた。


「秋風は、とても辛抱強い奴だけど、そろそろ我慢の限界が来てる。タイムリミットだって、残り少ねえぞ?」


「タイムリミット、とは?」


 先ほどのワードが、余程効いたのか。耐えかねて口を開いたぬらりひょんに、鵺は、食いついた。と確かな手応えを感じ、微かに鼻で笑う。


「さっき言っただろ? 夢の話さ。ぬらさん達が、秋風の夢の中に出てくるのが先か。あんたが腹を括り、秋風に全てを話すのが先か、二つに一つだ。もう、『時が来るまで』とか悠長な事は言ってらんねえぞ?」


「た、確かに……」


 鵺の研ぎ澄まされた言葉の刃を、手を添えて後押しをしてしまったクロの相槌に、ぬらりひょんは仏頂面を貫いたまま酒を飲み込む。

 が、その行動に鵺は、心に余裕が無くなってきたが故に起こした行動だと決め付け、追い討ちの材料に使うべく、話を続ける。


「ぬらさん。あんたがそうやって優雅に酒を嗜んでる間にも、秋風は一人で苦しんでるんだぜ?」


 ターゲットをぬらりひょんに絞り、致命打を繰り出した鵺が、コップを持っていた手の人差し指のみで、ぬらりひょんに指を差した。


「ちなみに、私が扉越しに怒気を飛ばした理由もそれだ。なんでこいつらは、愛娘をほったらかしにして酒を飲んでられるんだ? てな」


 怒気を飛ばした原因まで明かせど、この言葉では手応えは感じず。トドメを刺し切れなかったと判断した鵺は、持っていたコップをテーブルに置き、右膝を立て、垂らした右腕を添える。


「私はな? 久々に秋国に戻って来て全てを聞かされた時、ぬらさんに同情してそっち側に付こうと決めたよ。あんたは、秋風家の全部を背負ってるんだ。これは、途中で秋国を去った私には、背負う権利のねえもんだと理解してる。だから、私から秋風に全てを話す訳にもいかねえ。が」


 後悔の混じった懺悔にも聞こえる語りを始めると、鵺は腰を折り、鼻から下までを右腕で隠した。


「秋風は、あんたらの愛娘でもあるけど、私の最愛なる後輩でもあるんだ。そして、秋風が怒ってる姿を見て、気が変わった」


 鵺の前髪と右腕の間から垣間見える、蔑みを含んだ尖鋭な真紅の瞳が、妖しく発光しつつ細まっていく。


「よお。いつまで日和ってんだ、クソジジイ。よくも、私の後輩を怒らせたな? てめえが話さねえってんなら、私が全部吐いちまうぞ?」


 偽りの怒気まで宿し、穏やかな心境で感情論を持ち込むと、鵺は、この脅しは、あくまでブラフだ。得意先でやると逆効果なんだよな、これ。さぁて、ぬらさんはどう出る? と相手の出方をうかがい、静かにぬらりひょんの表情を探る。

 二人して黙り込み、クロも緊張感が漂う静寂に飲み込まれ、視線で二人の動向を追う事しか出来ず。

 掛け時計の長針が、均等に時を刻む音を発していく中。先に重苦しい静寂を破ったのは、ぬらりひょんだった。


「分かった、善処しよう」


 絞り出してきた総大将の返答に、右腕で隠していた口を吊り上げた鵺は、そいつは悪手だぜ、ぬらさん。と突破口を見出し、嬉々とし出していく。


「おい、言い方を変えても無駄だ。それ、『時が来たら』と同じ意味合いだぞ? 私を騙せると思うなよ? いつ話すんだ? 正確に言ってもらおう───」


「鵺、そろそろやめてくれ」


 視界外から聞こえてきた、突破口を閉ざさんと水を差すクロの声に、鵺は横目だけをクロへ流す。その間にぬらりひょんも、鵺を見据え続けていた目を、右へ逃がした。


「どうした、クロ?」


「お前が言ってる事も、充分分かるよ。私だって、ぬらりひょん様には何度も言ったさ。けど、お前の説得は、いくら何でも度を超えてる。ぬらりひょん様の気持ちも、少しは汲み取ってやってくれ」


 止めに入ってきたクロに対し、視線を一旦ぬらりひょんへ戻した鵺は、クロは、もう落ちてるはず。少し押せば、私側に付いてくれるかもしれない。あいつは冷静沈着で、典型的な母親タイプ。だから、ぬらさんのようなやり方でやるのはまずい。徹底的に追い詰めると、一人で考え込んで潰れる可能性がある。ならここは、フレンドリーに攻めるべきだな。と、方法を定め、クロの方へ顔を向けた。


「なーにが、何度も言ったさ、だ。どうせ、てめえの事だ。小指で突っついたような、当たり障りのない程度の説教だろ?」


「えっと……、それは……」


 どうやら、思い当たる節があるようで。正直者なクロが言葉を濁すと、鵺はその場に立ち上がり、クロの横に付いてから座り直した。


「お前は人に優し過ぎるんだよ。だから、ぬらさんがああなっちまったんだぞ?」


「わ、私のせいか!?」


「多少はな? もちろん、ぬらさんの気持ちは分かるさ。だからこそ、私だって最初はぬらさん側に付いた。けど私は、秋風の気持ちも知っちまったんだ。お前だって、秋風が苦しんでる所を見たら、助けたくなるだろ?」


「まあ、確かに……。そうだけど」


 ぬらりひょんを想って止めに入ったのに、一押しで心が揺らいできたクロを見て、鵺は、チョロいな。あとちょいだ。と確信し、クロの肩に手を回し、グイッと身を寄せる。


「だろ? そして、その秋風が今苦しんでるんだ。だから私は、秋風を助ける為にここへ来た訳よ。今あいつを助けられるのは、私だけだからな。でよ、クロ。お前だって、そんな秋風を助けてやりたいだろ?」


 言い包めに入ろうとするも、クロからは次の言葉が出ず、思い詰めるように目を左側へ逸らし、床に落としていく。

 そのまま黙り込んでから数秒後。クロは覚悟を決めた眼差しを鵺に戻した。


「もちろん助けてやりたいよ。私だって、苦しんでる花梨なんて見たくない。だけどな、鵺。ぬらりひょん様だって、日々それ以上に苦しんでるんだ。お前は、さっきぬらりひょん様に、秋風家の全てを背負ってるって言ったよな?」


「ああ、言ったな」


「そう、背負ってるんだ。瀕死の鷹瑛たかあきから花梨を託されて、自ら親になると決心した瞬間から、全てを背負ったんだ。そして、花梨に私達なりの愛情を注いで、高校を卒業するまで育ててきた。だからこそ、花梨に打ち明けるのが辛いんだよ。いつまでも躊躇う程に」


 鵺とは異なる気迫さを宿し、ぬらりひょんがいつまでも打ち明けられない事情を語り出すと、クロは鵺に折られた腰を正していく。


「途中まで打ち明けるのは簡単さ。花梨、お前は建設途中の秋国で、この隠世かくりよで産まれたとか。一歳になるまで、ここで暮らしてただとか。そこまでは、温泉街の皆や私、お前だって言える」


 先ほどまで押されていたクロが一転。神妙な面立ちになると、肩に回されていた鵺の腕を下ろし、自分の両手を鵺の肩に置いた。


「だけどお前は、その先の事を花梨に言えるか? まだ微かに息があった鷹瑛を、既に息絶えてた紅葉もみじを見捨てて、お前だけを助けて吹雪く外に飛び出し。私とぬらりひょん様に抱えられてる中、火の海に飲み込まれた家に、お前は血塗れの手を差し伸ばし、『パパ』、『ママ』とずっと泣き叫んでた事を、簡単に伝える事が出来るのか?」


「……あ」


「花梨に全てを伝えるというのは、そういう事だぞ? 鵺」


 全てを花梨に明かす事。それは、突如として訪れた家族との別れ、凄惨たる過去の出来事を、まだ何も知らぬ現実を花梨に突きつける事までもが含まれており。

 最愛なる後輩が苦悶している事実を知ると、更に苦悩し、葛藤し続けていたぬらりひょんを悪者だと決めつけ、一方的に責め立てていた己に呆れ返り。

 瞳孔が収縮し、目を見開いた鵺は、魂が抜けたように全身が脱力していき、よろける様に棚へ寄りかかっていった。


「……ああ、そうだ。全てを背負うって、そういう事なんだよな……」


 弱々しく掠れ切った声を、息を吐くように鵺が呟くと、クロは何も言わぬまま鵺に横目を流し、床へ落としていく。


「……クロ、私な? 何度も何度も焦らされて、やきもきして、我慢の限界がきて怒りながら訴えかけてきた秋風が、可哀想になってよ。なんとかしてぬらさんを説得して、秋風に全てを明かしてもらいたかったんだ」


 鵺が胸の内を明かし出すも、声にはいつもの張りが無く。それでもクロは耳を傾けようと、再び横目をやり、顔を鵺の方へと向けた。


「そうすりゃあよ? 温泉街の奴らも、秋風が赤ん坊の頃は、ここであんな事やこんな事があったんだぞって、和気あいあいと話せる事が出来ると思ってたんだ」


 虚勢の空元気を見せる鵺も、クロの方に顔をやるも。真紅の瞳は笑っていなく、目的を見失ったかのように曇っている。


「そんなの、ぜってえ楽しいに決まってる。仕事なんか後回しにして、笑い合いながら四六時中語れるだろうよ。お前らだってそうだろ? 私だってそうさ。朝から晩まで、喉が枯れるほど秋風と語り明かしたい。語り明かしたかったのに……」


 行き着く先まで来ると、鵺の表情からは空元気さえ無くなり、小刻みに震えるこうべを垂らしていった。


鷹瑛たかあき紅葉もみじぃ……。なんで、なんで死んじまったんだよぉ……」


「……鵺」


 花梨との約束を果たせず、行き着く先の非情な現実まで見出すと、床まで顔を垂らした鵺が嗚咽し、悔し紛れに拳を握っていく。

 その、初めて見る鵺の透明な涙に、クロは心に刺さる何かを感じ取り。そのまま唇を噤むと、クロは嗚咽している鵺の体を強く抱き締めた。

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