86話-6、その怒り、無意識の内に
「さぁて、そろそろ行くか」
暗闇をぼんやり照らす喫煙所で、タバコを二本吸い終わり。昂る気持ちを僅かに落ち着かせた
静寂を纏う空気を肩で切りながら歩き出し、誰も居ない三階を過ぎ、四階まで上り。支配人室の左隣にある、ぬらりひょんの自室前まで行き、扉を静かにノックした。
「入れ」
ノックを止めたと同時、中からぬらりひょんの声が聞こえてきたので、鵺は扉を開けて入り。音を立てずに閉め、ゆらりと振り向いた。
初めて拝む、移り変わった視界の先。妖怪の総大将が住む部屋としては質素が目立つ、何の変哲もない部屋が広がっていた。
内装等は、花梨やクロの部屋とほぼ違いなく。三階の客室にも勝るとも劣らずな印象を受け、思わず「へぇ」と声を漏らす鵺。
真紅の瞳を泳がせ、粗方部屋内を見終えた鵺は、ぬらりひょんとクロが囲っているテーブルへ視線をやり、緩くほくそ笑んだ。
「よう、ぬらさん、クロ」
「やあ、鵺」
「お疲れさん。そんなに意外か? ワシの部屋は」
表情で感じていた事を悟られると、鵺は鼻で笑ってからテーブルの元へ歩み、クロの隣で腰を下ろした。
「意外過ぎて驚いたぜ。まさかぬらさんも、普通の部屋に住んでるだなんてな」
「この方が何かと落ち着くし、くつろげるんだ。一切手を加えておらず、皆と同じ家具を使っている」
「だから、私の仲間達も気軽にここへ来れるんだ。皆、ぬらりひょん様と和気あいあいとしてるよ」
「変に威厳を見せると、そこら辺の妖怪は萎縮しちまうかんなあ。まあ、確かに。やけに落ち着く空間だな」
来て早々、和やかな雰囲気の中で会話が始まると、クロがコップを鵺の前に置き、
「ほら。私が注いでやるから、お前も飲め」
「おお、サンキュー」
半分ぐらいまで注がれると、鵺はちょうどクロの背後にある、棚の上に大事そうに飾られた超特濃本醸造酒の空き瓶を見つけ、興味が空き瓶に逸れていった。
「なあ、ぬらさん。なんで空き瓶なんか飾ってんだ?」
「ああ。その空き瓶は、花梨が初めて『居酒屋浴び呑み』の手伝いに行った時、
「へえ〜、なるほど。私もあれが飲みたかったなあ」
鵺が心の底から残念そうに呟くと、酒を注ぎ終えたクロは、一升瓶をテーブルに置き、凛とした眼差しを鵺へ向けた。
「でだ、鵺。なんで急に、私達に怒気を飛ばしてきたんだ?」
「あ? 怒気?」
「お前さん、ワシの部屋の近くで電話をしていただろ? クロと飲んでいると話した途端、扉越しから強烈な怒気を感じてな。お前さんが言った、めちゃくちゃ大事な話と何か関係しているのか?」
クロとぬらりひょんが話を切り出すと、部屋の和やかな雰囲気は一転、ピリッと肌を刺す空気へと変わっていく。
しかし鵺は、二人に言われるまで怒気を飛ばしていた事に気付いていなく。黙ったまま後頭部を掻き、二人に言われても、まだ実感が湧かねえ。そんなに怒ってたのか、私。と、無意識の内に起こした行動に、心の中で舌打ちをした。
「まあ、関係してるっちゃしてる。つっても、私に怒りを向けられた心当たりなんて、二人共ねえだろ?」
「そうだな。特に、これといった心当たりは無い。けど、きっと私達は、知らない内にお前に何かをしたんだろ?」
「いや、私は何もされてねえ。キレる理由だって、さっきの切っ掛けがなけりゃあ、今頃ベッドでスヤスヤ眠ってたさ」
大事な話の部分とやらに軽く触れると、ぬらりひょんの右眉が上がり、「切っ掛け?」と問い返す。
その間に鵺は、超特濃本醸造酒を一気に飲み干し、立てた膝に腕を置き、空いたコップをゆらゆらと揺らした。
「いやな? ほんの数十分前に、秋風からとんでもねえ質問をされちまってよ」
「花梨から? どんな質問をされたんだ?」
視界の外からクロの催促が聞こえてくると、鵺はコップに向けていた目をクロにやり、再び下へ落とした。
「『鵺さんは、『モミジ』という人をご存知ですか?』って、聞かれたんだ」
「なっ……!?」
「
驚愕色に染まった声が、前方と左側から飛んでくると、鵺は澄ました顔で超特濃本醸造酒入りの一升瓶を持ち、コップに注いでいく。
「紅葉って……」
「まさか、秋風 紅葉の事を言っているのか?」
「ああ。赤が濃いポニーテールで、顔が自分と似てたって言ってたから間違いねえ」
容姿まで割れている事まで明かされると、ぬらりひょんはテーブルに両手を突き、その場にバッと立ち上がった。
「な、なんで花梨が、紅葉の顔を知っているんだ……?」
「夢で見たんだとよ」
穏やかな声色で鵺が続けると、違う方向から重なって聞こえてきた、「夢?」という声。
「そ、夢。なんでも秋風は、秋国に来てから、とある夢を連続で見るようになったらしい。夢の内容は、紅葉とカーキ色のジャンパーを着た男性の会話だと言ってた」
「カーキ色のジャンパーって……。もしかして、
「紅葉が居るなら、そう考えるのが妥当だろう。しかし何故、花梨はワシらではなく、鵺に質問をしてきたんだ?」
「その夢に、私の名前が出てきたらしいんだ」
鵺の言葉を一寸の曇りもなく信じたぬらりひょんが、疑問に思った事をそのまま口にすると、鵺が話を続け、酒をクイッと飲み込む。
「お前まで、花梨の夢に?」
「ああ。秋風の話だと、鷹瑛が私の名前を言ってたようでな。他にも、紅葉が『牛鬼牧場』でピクニックをやりたいだとか。鷹瑛が秋国が本格的に始動したら、出来る機会が減るだとかも、言ってたらしい。お陰で、私の逃げ場が無くなっちまったよ。お前ら、この会話に聞き覚えはねえか?」
探りを入れるべく、鵺は鋭い眼差しの横目を二人に送り、顔色を
「いや、ないな。その会話は、どこでしたとか言ってなかったか?」
「ああ〜、それは聞いてねえ。今思うと、夢の内容全部聞いときゃあよかったな」
「秋国が、本格的に始動したら……」
思わせ振りにぬらりひょんが呟くと、鵺とクロの注目が、腕を組んで視線を右へ逸らしているぬらりひょんに集まっていく。
「ぬらりひょん様、何か心当たりでも?」
「まだ推測の域でしかないが。もしかすると、クロよ。ワシらも、その夢に出てくるかもしれんぞ?」
「私達が、ですか?」
まだぬらりひょんが思う推測の全容が分からないでいるクロが、思考を放棄して聞き返すと、ぬらりひょんは黙って重く頷いた。
「内容から察するに、秋国の建設は完了しているはずだ。問題は、会話をしている場所とタイミング。秋国の部屋でしているのであれば、まだ若干の猶予はある。だが、プレオープン前日で、なおかつ実家でしているのであれば……」
「プレオープン前日って……、鷹瑛と紅葉が……」
推測を進めていく内に、凄惨たる光景が蘇ってきてしまったのか。クロの声に震えが混じり、か細くなっていった。
「そうだ。ワシらが行った時には、既に紅葉は息絶えていて……。鷹瑛は、瀕死の状態でタンスに寄りかかっていた。そして、鷹瑛から花梨を託された後。放たれた火の手が部屋まで回ってきて、慌てて血塗れの花梨を抱きかかえ、吹雪いている外へ飛び出し、一旦秋国へ避難させた」
当時、念願だった二人の夢を潰えさせた出来事を、ぬらりひょんが鮮明に語ると、ぬらりひょんにトドメを刺すタイミングを見極めた鵺が、ニヤリと口角を上げる。
「秋風は、その夢を連続で見続けてる。遅かれ早かれ、あんたらが夢に出てくるのは明白だ。で、その秋風は好奇心の塊。あんたらまで夢に出てきたら、間違いなく私みたいに質問されるだろうよ」
畳み掛け始めた鵺が、場の主導権を握ると、鵺はクロに妖々しい眼差しで睨みつけ、じわりとぬらりひょんへ移していく。
「そ、そうだ! 鵺! お前は花梨に質問されて、なんて答えたんだ?」
一瞬だけ怯んだクロが、気になっていたであろう別の質問を投げ掛けると、鵺はぬらりひょんを捉えていた凍てついた眼光を、クロに戻した。
「安心しな。私の口からは、まだ何も言えねえんだって言っといた」
「あ、ああ、そうか。それならよか―――」
「でよ? その後に秋風が、こう続けたんだ」
あえて、安堵した様子を見せたクロの声に重ねた鵺の追撃に、クロの表情が強張っていく。
「『あ〜あ、これも語り部さん絡みだったかぁ〜。またお預けじゃんか〜』ってな」
「語り部?」
「ああ。どうやら秋風も秋風で、色々と探りを入れてるっぽいぞ。でな、その時の秋風、どんな感じだったと思う?」
話を終盤に持ち込むと、鵺の眼光に先ほどとは比べ物にならない程の怒気が宿り、身構えていなかったクロが萎縮し。その様を認めた鵺が、ぬらりひょんに横目を移す。
「どんな感じだったんだ?」
「明確な感情を込めて怒り、不貞腐れたんだ」
「か、花梨が、怒って不貞腐れた?」
肌を刺す怒気に当てられようとも、表情一つ崩さぬぬらりひょんが問い掛け。視線が外れて落ち着きを取り戻したクロが、信じられないと言わんばかりに、オウム返しをした。
「ああ。私だって、それなりに長い年月を秋風と過ごしたつもりだ。けどあいつは、一度だって怒った事は無かったさ。てめえらは、秋風を十七年間育ててただろ? その間、あいつは怒った事なんてあったか?」
「不貞腐れたりした事はあったが、怒った事は一度も無かった」
「私の時もだ。そもそも花梨は、相手に心配されるのが苦手で、負の感情や本音は絶対に表に出さなかった。だから、どうしても我慢が出来なくなって、泣きそうになった時は、決まってどこかに隠れて一人で泣いてたぐらいだぞ」
「ふ〜ん、出来た愛娘じゃねえか」
よくよく思い返してみれば、花梨はよく笑い、どんな環境下でも楽しんでいたという印象を思い出し、そういや秋風の奴。私の会社に居た時も、一度も涙を見せた事が無かったな。と納得する鵺。
しかし鵺は、まあ、これで多少なりとも場が整った。後は二人を脅し、心を揺るがすだけだな。と己の流れに持ち込んだ事を確信すると、コップに残っていた酒を飲み込んだ。
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