82話-5、なんやかんやあったけど、まあ、いいか

 茨木童子の酒天しゅてんにとって予期せぬ嬉しい流れが続き、この上ない満足感に浸ってから、三十分が経過した頃。

 ゴーニャと妖狐のみやびが、露天風呂内を泳いでいる姿を眺めていた花梨が、うつつを抜かした瞳を酒天へやった。


「酒天さん。そろそろ、お酒を貰ってもいいですかね?」


「おっ、ついに飲むんスね! 分かりました! 冷酒と熱燗、どっちにします?」


 ようやく訪れた今日最大の好機に、酒天は途端に鼓動を早め、鼻息を荒くしていく。


「え〜っと、体が火照ってきちゃったので、冷酒をお願いします」


「冷酒っスね! 少々お待ち下さい!」


 ついいつも癖で、接客対応時のノリで喋った酒天は、濡れた両手をタオルで拭き、近くに置いていたリュックサックを漁り出す。

 まだ封を開けておらず、冷ややかな水滴が滴る超特濃本醸造酒ちょうとくのうほんじょうしゅを取り出し、周りをタオルで拭き取っていく。

 次に、とっくりとおちょこを取り出すと、とっくりに酒を注ぎ、おちょこだけを花梨に差し出した。


「ささっ、花梨さん。いであげますよ」


「すみません、ありがとうございます!」


 貰ったおちょこを手の平に乗せると、酒天は慣れた手つきで酒を注いでいく。並々まで注がれると、花梨は「おっとっと」と言いつつ、口をすぼめた。


「う〜ん、お米のいい匂いがする」


「花梨さん花梨さん、乾杯しましょう!」


「いいですね。それじゃあ」


 酒天がとっくりを置き、おちょこに持ち替えると、二人はおちょこを当てて『チン』と鳴らし、「かんぱーい!」と声を上げた。

 そのまま一気に飲み干し、酒天は「ぷっはぁ!」と今日一番の唸りを上げ。花梨は「ふうっ」と、落ち着いた様子で息を漏らした。


「お酒がキンキンに冷えてるから、火照ってる体にちょうどいいや。んまいっ」


「花梨さんとこうやって一緒に飲むのは、あたしの店で初めて出会った時以来っスねぇ〜。いやぁ、美味いなぁ〜」


「そっか。そんな前になるんですね」


 酒天の懐かしさが込み上げてくる言葉に、花梨は初めて酒天と出会った時の記憶が蘇り、自然と笑みをこぼす。

 当時は剛力酒ごうりきしゅを先に飲んでいて、副作用で茨木童子になっており、いくら酒を飲んでも酔わない体になっていたものの。

 今回は酒に弱い人間の姿のままともあり、なるべく抑えておこうと決めた花梨は、おちょこの底にあった数滴を残さず啜った。


「あの時は確か、『桃源鬼とうげんき』っていうお酒を飲んでましたよね」


「ああっ、そうですそうです! 懐かしいっスねー。あの時の花梨さん、鯛茶漬けをすごく美味しそうに食べてましたよね」


「あっははは……。そういえば、意識が少し飛んでましたね。でも、本当に美味しかったなぁ。あの鯛茶漬け」


 かつて、まかない料理として出てきた鯛茶漬けの味を思い出し、ヨダレを垂らしてにへら笑いをし出した花梨の腹から、『くぅ』という音が鳴る。


「美味しかったっスよねぇ。……もしかしたら、正式なメニューにすれば、それなりに売れるかも?」


「あっ! 締めにとかいいんじゃないんですか? サラサラサラ〜って食べられますし、満足度も高いと思いますよ」


「締め……。酒の締めにはラーメンとかありますけど、お茶漬けの人気も高いんスよね。今度、店長に交渉してみようかな?」


 商売魂に火がついた酒天が、空いていた手を顎に添え、獣染みた金色の瞳を右側へ逸らす。

 今度は左側へ瞳を流すと、「米の量は半号ぐらいに……」とか、「刺身、炙りと選べたりすれば……」と、商品化した時の構想をぶつぶつと呟き出した。


「私からも、是非お願いします! もし正式なメニューになったら、いっぱい食べにいきますからね!」


 一人でも利益が出そうな心強い後押しに、構想が固まりつつある酒天の口角が緩く上がり、顎に添えている手を湯に沈めた。


「なら、その期待に応えなくてはですね。明日にでも、店長に言ってみるっス!」


「やったー! ありがとうございます! ではでは」


 また食べられるかもしれないという、定かではない希望を持った花梨は、酒天のとっくりを手に持ち、ニコリと笑う。


「メニュー化祈願として、一杯どうぞ」


「おおっ、こりゃ飲まないワケにはいかないっスね。ありがとうございます!」


 大好きな人からの祈願酒ともならば、絶対に成し遂げなければならないと意気込んだ酒天は、注がれた酒を一気に飲み干した。


「ふうっ、なんとも力強い酒っスねぇ。今のあたしなら、なんでも出来そうな気がするっス」


 気持ちが普段より前向きになった酒天が、今度は花梨のとっくりを持ち、ゆらゆらと揺らす。


「ちょっと早いっスけど、祝い酒はどうっスか?」


「祝い酒かぁ。そう言われると、飲まざるを得ませんね」


 あまり飲まないようにしようと決めていたが、花梨も乗り気になってしまい、注がれた二杯目の酒をコクリと飲む。

 そして、酒に弱い花梨は気持ち良く酔い出してしまい。酒に対するタガがゆっくりと外れ、そこから始まるは、何かと意味を込めた酒注ぎの応酬。

 四巡目までは、適当な理由を探して酒を注いでいたが、七巡目からは普通に注ぎ合い。最終的には、自分のおちょこに酒を注いで笑い合っていた。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 酒注ぎの応酬が終わるも、酒を飲む手と口が止まらなくなってから、十分が経過した頃。


「うわぁ〜、酒天しゃんのほっぺ、しゅごい伸びりゅ〜」


「あえ〜……」


 少し前の出来事が全て嘘のように、へべれけ状態となった花梨は、無抵抗でいる酒天の両頬をこねくり回していた。

 両頬が見事なまでに伸び切っている酒天は、こ、これさえ乗り切れば……、花梨さんは、あたしに甘えてきてくれるはず……! と、あまり慣れない痛みに耐え、閉じない口に酒を無理やり流し込む。

 時には限界まで引っ張られ、そこから上下に動かされ、ぐりんぐりんと回される酒天の両頬。

 来たる至福の時間だけを待ち、動き回る痛みに慣れてきたかと思えば、花梨の手がピタリと止まり、据わった視線が下がっていく。


「んー? 酒天しゃんのむにぇ、にゃんか大きくにゃい?」


「む、むにぇ?」


「うん、むにぇ」


 謎の単語を復唱した花梨は、タオルの上から胸があろう部分に手を添え、ほぼ無いに等しい胸を押し込んだ。


「むー……。酒天しゃん、しーぐらいありゅんじゃにゃいのぉ? ずるいじょ」


「しー? ……あっ、胸の大きさっスか? 測った事ないんで、正確な大きさは分からないっス」


「わかんにゃいのー? じぇったいしーはあるよー。みてー、あたしのむにぇ。じぇんじえんにゃいの」


 どこを見ているのか分からない虚ろな目で、自分と酒天の胸を見比べた花梨が、再び自分の胸に手をかざし、スカッスカッと無いアピールをする。


「ねー? どこにもにゃいでしょ?」


「す、すみません。ノーコメントでお願いします……」


「のーこめんと? お米がにゃいの?」


「お米? え〜っと……。お米は、元々持ってきてないっス」


 真面目な性格ゆえ、会話の大暴投をしっかりと受け止めてしまい、困惑しながら花梨に優しく投げ返す酒天。

 しかし、受け止める事すら出来ない花梨は、酒天の返しに納得がいかず、頬をプクッと膨らませた。


「むにぇはあるのに、なんでお米はにゃいのー? だから、あたしのむにぇが大きくにゃらにゃいんだぞー」


「お米を食べると、胸が大きくなるんスか? それは知らなかったっス」


「ふぇ? そーにゃの?」


「……え?」


 最早、会話の大暴投すら成り立たず。どうすればいいのか分からなくなった酒天は、思考も体も硬直してしまい、花梨を見据えたまま動かなくなる。

 が、今の花梨には知った事ではないようで。硬直した酒天へ、お構い無しに距離をずいっと詰めていく。


「ねーねー、あたしのお米とむにぇはー?」


「え、え〜っとっスねぇ……」


「あーっ。もしかして、角のにゃかにあったりしてー」


「角!? いやいや、そんな所に無いっス……、ちょ、花梨さん!?」


 酒天のひたいから生えている赤黒い角に、焦点を合わせた花梨は、酒天を逃がさまいと体に跨り、ちょこんと座る。


「ありぇ? 酒天しゃん、顔がまっかっかだじょ? だいじょーぶ?」


 生涯で初めて、体に跨られたせいか。それとも、大好きな人と密着してしまったせいか。

 恥ずかしさが込み上げてきている酒天の顔は、茹でダコのように赤みを帯びていて、頭からは薄っすらと湯気が昇り始めていた。


「か、花梨、さん? いいっ、一旦、降りまひょ……? ねっ?」


「かじぇでもひーたにょ? ちょっとおでこ貸ひてー」


「ひぇっ? おでこ?」


 まるで話を聞こうとしない花梨が、自分の前髪を捲り上げ、声を上ずらせた酒天のひたいと自分の額を、コツンとつけた。


「……とあっ!? と、はっ、ふぉぁああああああっ!?」


「ねー、どんどん熱が上がってってりゅ。ヤケドしそー」


「か、花梨、さん……。は、はなっ、離れっ……」


 自分のせいだとは露知らず。悪気なく熱を確かめている花梨が、追い打ちをかけるように、額をグリグリと擦りつける。


「酒天しゃん、寝たほーがいーんじゃにゃい?」


「ね、寝るっ!? ……あ、ああっ、体調が悪いから!? そそそっ、そっスね! それじゃあ寝るので、一回離れて下さいっス!」


 言葉の意味を履き違え、更に酷く動揺するも。すぐに理解し直し、活路を見出して花梨を引き離そうと試みる酒天。

 甲高い早口の指示を出されると、花梨はゆらりと顔を遠ざけ、酒天を上から覗きながらニヒッと笑った。


「そっかー、寝りゅんだぁ。じゃー、あたし、も……」


 そう言った花梨が、力を無くしたように体を倒し、酒天の体に覆いかぶさる。


「って、ちょ!? だから花梨さん!? ……あれ? 花梨、さん?」


 再び求めていた窮地に立たされて声を荒げるも、花梨の様子がどこかおかしいと察した酒天が我に返り、落ち着きを取り戻しつつ問い掛けた。


「すぅ、すぅ」


「……もしかして、寝た?」


 今は花梨の後頭部しか見えないものの。微かに聞こえてくる寝息に似た呼吸音と、等間隔に体を浮き沈みさせている事から、寝落ちしたと判断した酒天は、大きなため息を吐きながら空を仰いだ。


「た、助かったぁ〜……。まさか、ここまでとは……」


 自分には早すぎた欲求だと猛省し、もう一度だけ疲れ切ったため息を吐き出す。


「しかし、このままだと動けないっスね……。起こすワケにもいかないし……」


 寝落ちしたのにも関わらず、花梨は抱き枕の要領で酒天の体に抱きついていて、両手の自由までも奪っていた。

 酒が飲めず、動く事すらままならず。全ての行動を制限されて途方に暮れた酒天は、諦めを含んだ横目を花梨へ送り、口角を緩く上げた。


「なんやかんやあったっスけど……。まあ、いいか」


 一応、目標は叶ったと自分に言い聞かせ、現状を楽しむ事にした酒天は、ひつじ雲が浮かんでいる空を見上げ、ふわりとほくそ笑む。

 そして、花梨を起こさない様にしながら両手を逃がし、近くにあるとっくりとおちょこを手に取り、生涯で一番美味くなった酒を啜った。

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