82話-3、お互い、無駄な争いは好まない
河川敷に続く緩やかな坂道を下り、河童の
会話を絶やさずにいたせいで、話すネタがとうとう底を尽き、各々が秋の景色に目を配っている中。
花梨は、何気なく泳がせていた顔を
「
「んえっ? この中っスか?」
ぼーっとしていたせいか。抜けた返事をした酒天が、背負っていたリュックサックを前に持ってきて、中身を漁り出していく。
「えーっと……。冷やした
「おおー、秘湯でも飲む気満々ですねー」
「ええ。
酒に酔った花梨に、甘えてきてほしいという目的を持っている酒天が、二人に薦めるも、雅は断るように手を横に振る。
「飲みたいのは山々なんですがー。私は、空を飛んで皆を秋国に連れて帰さないといけないんで、遠慮しときますー」
「そういえば、そんな事を言ってましたね。了解っス。花梨さんは、どうっスか?」
「うーん……、どうしょうかな?」
飲んでほしいという強い願いを込めて聞くも、どこか悩み始めた花梨を見て、固唾をゴクンと飲み込む酒天。
「雅。雅は、お風呂に入りながらお酒を飲んだ事ってある?」
「たまーに、
「へえ〜、そうなんだ」
良い印象を与える雅の説明に、それなりの手応えを感じた酒天が、小さくガッツポーズをする。
だんだんと興味を抱いてきた花梨は、再び「う〜ん……」と考え込み、思案している瞳を泳がせていく。
目が回わりそうなほど長考していると、先を行く雅が不意に立ち止まり、右側にある森に向けて指を差した。
「ここから山の中に入ってくよー」
「っと。ようやくなんだね」
酒を飲もうかやめようか、前の花見の時も考慮して考えていると、耳に入ってきた雅の説明に、花梨は顔を山へと移す。
雅が差し示した指の先には、人一人が通れるぐらいの獣道があり、そこから奥へ続く悪路を認めた花梨が、「うわぁ」とばつが悪そうに呟いた。
「前回よりかは道があるけど……。この道、明らかに人が作った道じゃあ、ないよね?」
「間違いなく獣道っスね。道幅的に、やはり熊でしょうか?」
「匂いが薄っすらと残ってるから、少し前に通ってるねー」
鼻が利く雅の言葉に、花梨とゴーニャは顔をぎょっとさせ。臨戦態勢に入った酒天が、握った拳で空いている手の平を叩く。
「うっし! 早速あたしの出番っスね! 花梨さん、ゴーニャさん、雅さん、あたしから離れないで下さいね!」
「分かりました!」
「了解でーす」
元々ゴーニャは花梨に抱っこされているので、花梨はすぐさま酒天の左側に。雅は、やや先に行く形で右側に付く。
即席の隊列を組むと、中央に紅葉の線が走る獣道を進み、森の中へと入っていった。
赤と黄の雨がチラチラと降っている森の中は、木々が生い茂っていて木漏れ日が少ないものの。まだ日中ともあり、それなりに明るさが保たれている。
が、雑草が伸び伸びと育っていて、見晴らしはかなり悪く、花梨は景観に目もくれず、辺りを警戒しながら足を運んでいった。
「いやー、緊張感があるねー」
「雅さん、本当にそう思ってらっしゃる?」
後頭部に手を回し、のほほんと静寂を破った雅にに、本当に緊張している花梨がツッコミを入れる。
「失敬な、ちゃんと思ってるよー。ふあ〜……」
更にツッコまれたいのか。呑気に大あくびした雅が、目に滲んできた涙を指で
そんな緊張感の欠片すら無く、眠たそうにもう一度あくびをした雅に、花梨はオレンジ色のジト目で睨みつけた。
「やー、視線が痛いー。今は熊の匂いがしないから、安心してていいよー」
「あっ、そうなの?」
「そうっスね。気配がまったくしないので、近くには居ないっス」
信頼が持てる二人の言葉に、花梨の緊張感が少しだけ解れ、強張っていた肩をストンと落とす。
「よかったぁ〜。それじゃあ、酒天さん。お酒の事についてなんですが」
「は、はいっス!」
河川敷で聞けなかった話の続きともあり、今度は酒天に固い緊張感が走り、握った両手に力を込めていく。
「まだ答えが出ないので、秘湯に着いてからでも〜、いいですかね?」
「あ、ああっ! はい! 全然大丈夫っス! 別に、無理して飲まなくてもいいので、深く考えないで下さいっス」
「そうですか、分かりました」
気遣い無用と知り、考え込む事をやめた花梨が、ニコリとほくそ笑み。自らチャンスを投げ捨てた酒天が、ぎこちない作り笑いを返す。
そのまま花梨が前を向くと、酒天は一歩下がって全員の死角に回り、後悔の念をため息に乗せて吐き出した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
花梨から、今日一番の目標が達成できるか怪しい回答を貰った後。
熊の脅威が一時的に無くなった事もあり、四人は周りの景観を堪能しつつ、獣道すら無くなった山中を進んでいく。
降り止む事を知らない、紅葉の雨。時々聞こえてくる、姿の見えない小川のせせらぎ。年季の入った倒木に生えている、傘が大きな白いキノコ。
細々な箇所まで見れる余裕が出来て、足場が悪い山中を軽々と歩いていく花梨は、キノコが目に入る度に腹を『ぐぅ〜』と鳴らしていた。
「あ〜あ、お腹すいてきたなぁ」
「えっ? もうっスか? 定食屋
「逆ですよ、酒天さーん。
常識が通用しない花梨の腹に、常人には通じない指摘をしていた雅が、何かの気配を感じ取ったようで。
いきなり立ち止まり、辺りの様子を探るように狐の耳を押っ立て、ピクピクと動かし始めた。
「足音からして三匹だねー」
「そうっスね。だんだん近づいてきてるっス」
「あ、あの〜、皆さん? もしかして……?」
一点の方角に顔を向けた二人に、的中しているであろう嫌な予感が芽生えた花梨が、小声で恐る恐る問い掛ける。
「ええ、熊っス。一匹は、かなりでかいっスね」
「や、やっぱり……」
ハッキリと言われてしまったが故に、花梨は萎縮して縮こまってしまい、酒天の傍にそっと付く。
物音を一つも立てず、息を殺して立ち尽くし。気配を察し、動物の鳴き声すら止み、不気味で重苦しい静寂が辺りを覆っていく。
無音に近い空間を、瞳を動かして辺りの様子を
「な、何かい、むぐっ」
「静かに」
迫りくる足音の主を刺激させまいと、咄嗟に花梨の口を手で塞ぐ酒天。
ほぼ同時。近くの茂みがガサガサと音を立たせながら揺れ動き、その茂みの中から、ゆうに三メートル以上はありそうな熊が、ぬっと姿を現した。
「むうっ……!」
「うわー、大きいねー」
巨大な野生の熊を目にし、あまりの大きさに体を硬直させる花梨と、息を吐くように透明な感想を漏らす雅。
すると、茂みから全身を出した熊が、丸い耳をピクリと反応させ、酒天達がいる方へゆらりと顔を向けた。
そこから全員、時が止まったように動かなくなり、極度に緊張している花梨だけが、無駄に体力を消費していく。
一時間以上も立ち尽くしたような、二時間以上硬直していたような、時間の間隔が曖昧になってきた一分後。
酒天達を眺めていた熊は、興味を無くしたようにそっぽを向き、振動を感じる足取りで歩き出し、違う茂みへと入っていった。
そして、その熊を追うように二匹の小熊が素早く横切り、再び長い静寂が訪れる。
そこから更に一分後。思い出しかのように鳥のさえずりが聞こえてくると、酒天は花梨の口から手を離し、ほっと一息ついた。
「どうやら、行ったみたいっスね」
「みたいですねー。いやー、何事も無くてよかったよかったー。ねー、かりーん。……花梨?」
安心させる為に、雅が
その花梨はというと、ただ呆然と熊が居た場所を見据えていて、一向に動き出そうとはしない。
「花梨くーん。おーい、生きてるー?」
脅威は去ったものの。意識が未だに虚空の熊に捕らわれている花梨に、雅は花梨の前に立ち、顔の前で手を振る。
そこで、ようやく意識を取り戻したのか。花梨が「……へっ? はっ!? ふおっ!?」と声を発した。
「く、熊っ! 熊はっ!?」
「おかえりー。もう去ったよー」
「さ、去った!? ……はあ〜っ、よかったぁ〜……」
遅れて現状を理解した花梨が、肺の中に溜まっていた空気を全て吐き出し、気疲れした体が項垂れていく。
「なにー? 意識が飛んでたのー?」
「と、途中から、飛んでたかもぉ……」
「まあ、あの状況なら無理もないっス。叫ばなかっただけでも、すごいと思うっスよ。それに、ゴーニャちゃんもよく叫ばなかったっスね。偉いっス」
普通の人間であれば、パニックに陥りそうな状況だったのに対し、沈黙を貫き通していた二人に、酒天はニッと笑いながらフォローを入れる。
「ご、ゴーニャは、結構前から、寝てました……」
「ありゃ、そうなんスね」
疲弊し切っている花梨が説明すると、ゴーニャの「すぅ、すぅ」という安らかな寝息が、答えるように後を追う。
「あっはは、可愛い寝顔だなー。どうする花梨、一旦休憩するー?」
「そうだね……、少しだけしたいや」
縋る思いで願うと、花梨は膝から崩れ落ち、もう一度大きく息を吐き出す。
移動するのも悪いと察した二人も、紅葉の絨毯に腰を下ろし、辺りを警戒しながら休憩をしていった。
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