82話-3、お互い、無駄な争いは好まない

 河川敷に続く緩やかな坂道を下り、河童の流蔵りゅうぞうの雄叫びが届かない場所まで来て、川のせせらぎしか聞こえなくなった頃。


 会話を絶やさずにいたせいで、話すネタがとうとう底を尽き、各々が秋の景色に目を配っている中。

 花梨は、何気なく泳がせていた顔を酒天しゅてんにやり、背負っていたリュックサックに注目した。


酒天しゅてんさん。そのリュックサックの中に、何が入ってるんですか?」


「んえっ? この中っスか?」


 ぼーっとしていたせいか。抜けた返事をした酒天が、背負っていたリュックサックを前に持ってきて、中身を漁り出していく。


「えーっと……。冷やした超特濃本醸造酒ちょうとくのうほんじょうしゅに、とっくりとおちょこが三セット。それと温める為に、ガスコンロと小さな鍋、二リットルの水が入ったペットボトルっスね」


「おおー、秘湯でも飲む気満々ですねー」


「ええ。永秋えいしゅうに行く時も、熱燗と冷酒を必ず持ってってますからね。皆さんの分も用意してますが、どうっスか?」


 酒に酔った花梨に、甘えてきてほしいという目的を持っている酒天が、二人に薦めるも、雅は断るように手を横に振る。


「飲みたいのは山々なんですがー。私は、空を飛んで皆を秋国に連れて帰さないといけないんで、遠慮しときますー」


「そういえば、そんな事を言ってましたね。了解っス。花梨さんは、どうっスか?」


「うーん……、どうしょうかな?」


 飲んでほしいという強い願いを込めて聞くも、どこか悩み始めた花梨を見て、固唾をゴクンと飲み込む酒天。


「雅。雅は、お風呂に入りながらお酒を飲んだ事ってある?」


「たまーに、かえで様と飲んでる程度かなー。ぬるま湯で飲むと、体の中もポカポカに温まって最高だよー」


「へえ〜、そうなんだ」


 良い印象を与える雅の説明に、それなりの手応えを感じた酒天が、小さくガッツポーズをする。

 だんだんと興味を抱いてきた花梨は、再び「う〜ん……」と考え込み、思案している瞳を泳がせていく。

 目が回わりそうなほど長考していると、先を行く雅が不意に立ち止まり、右側にある森に向けて指を差した。


「ここから山の中に入ってくよー」


「っと。ようやくなんだね」


 酒を飲もうかやめようか、前の花見の時も考慮して考えていると、耳に入ってきた雅の説明に、花梨は顔を山へと移す。

 雅が差し示した指の先には、人一人が通れるぐらいの獣道があり、そこから奥へ続く悪路を認めた花梨が、「うわぁ」とばつが悪そうに呟いた。


「前回よりかは道があるけど……。この道、明らかに人が作った道じゃあ、ないよね?」


「間違いなく獣道っスね。道幅的に、やはり熊でしょうか?」


「匂いが薄っすらと残ってるから、少し前に通ってるねー」


 鼻が利く雅の言葉に、花梨とゴーニャは顔をぎょっとさせ。臨戦態勢に入った酒天が、握った拳で空いている手の平を叩く。


「うっし! 早速あたしの出番っスね! 花梨さん、ゴーニャさん、雅さん、あたしから離れないで下さいね!」


「分かりました!」

「了解でーす」


 元々ゴーニャは花梨に抱っこされているので、花梨はすぐさま酒天の左側に。雅は、やや先に行く形で右側に付く。

 即席の隊列を組むと、中央に紅葉の線が走る獣道を進み、森の中へと入っていった。

 赤と黄の雨がチラチラと降っている森の中は、木々が生い茂っていて木漏れ日が少ないものの。まだ日中ともあり、それなりに明るさが保たれている。

 が、雑草が伸び伸びと育っていて、見晴らしはかなり悪く、花梨は景観に目もくれず、辺りを警戒しながら足を運んでいった。


「いやー、緊張感があるねー」


「雅さん、本当にそう思ってらっしゃる?」


 後頭部に手を回し、のほほんと静寂を破った雅にに、本当に緊張している花梨がツッコミを入れる。


「失敬な、ちゃんと思ってるよー。ふあ〜……」


 更にツッコまれたいのか。呑気に大あくびした雅が、目に滲んできた涙を指でぬぐう。

 そんな緊張感の欠片すら無く、眠たそうにもう一度あくびをした雅に、花梨はオレンジ色のジト目で睨みつけた。


「やー、視線が痛いー。今は熊の匂いがしないから、安心してていいよー」


「あっ、そうなの?」


「そうっスね。気配がまったくしないので、近くには居ないっス」


 信頼が持てる二人の言葉に、花梨の緊張感が少しだけ解れ、強張っていた肩をストンと落とす。


「よかったぁ〜。それじゃあ、酒天さん。お酒の事についてなんですが」


「は、はいっス!」


 河川敷で聞けなかった話の続きともあり、今度は酒天に固い緊張感が走り、握った両手に力を込めていく。


「まだ答えが出ないので、秘湯に着いてからでも〜、いいですかね?」


「あ、ああっ! はい! 全然大丈夫っス! 別に、無理して飲まなくてもいいので、深く考えないで下さいっス」


「そうですか、分かりました」


 気遣い無用と知り、考え込む事をやめた花梨が、ニコリとほくそ笑み。自らチャンスを投げ捨てた酒天が、ぎこちない作り笑いを返す。

 そのまま花梨が前を向くと、酒天は一歩下がって全員の死角に回り、後悔の念をため息に乗せて吐き出した。




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――




 花梨から、今日一番の目標が達成できるか怪しい回答を貰った後。

 熊の脅威が一時的に無くなった事もあり、四人は周りの景観を堪能しつつ、獣道すら無くなった山中を進んでいく。

 降り止む事を知らない、紅葉の雨。時々聞こえてくる、姿の見えない小川のせせらぎ。年季の入った倒木に生えている、傘が大きな白いキノコ。

 細々な箇所まで見れる余裕が出来て、足場が悪い山中を軽々と歩いていく花梨は、キノコが目に入る度に腹を『ぐぅ〜』と鳴らしていた。


「あ〜あ、お腹すいてきたなぁ」


「えっ? もうっスか? 定食屋付喪つくもを出てから、まだ二時間も経ってないはずじゃあ……」


「逆ですよ、酒天さーん。もう・・二時間も経ってるんで―――」


 常識が通用しない花梨の腹に、常人には通じない指摘をしていた雅が、何かの気配を感じ取ったようで。

 いきなり立ち止まり、辺りの様子を探るように狐の耳を押っ立て、ピクピクと動かし始めた。


「足音からして三匹だねー」


「そうっスね。だんだん近づいてきてるっス」


「あ、あの〜、皆さん? もしかして……?」


 一点の方角に顔を向けた二人に、的中しているであろう嫌な予感が芽生えた花梨が、小声で恐る恐る問い掛ける。


「ええ、熊っス。一匹は、かなりでかいっスね」


「や、やっぱり……」


 ハッキリと言われてしまったが故に、花梨は萎縮して縮こまってしまい、酒天の傍にそっと付く。

 物音を一つも立てず、息を殺して立ち尽くし。気配を察し、動物の鳴き声すら止み、不気味で重苦しい静寂が辺りを覆っていく。

 無音に近い空間を、瞳を動かして辺りの様子をうかがっている最中。枯れ枝を乱暴に踏んだような、重量感のある音が等間隔に聞こえてきた。


「な、何かい、むぐっ」


「静かに」


 迫りくる足音の主を刺激させまいと、咄嗟に花梨の口を手で塞ぐ酒天。

 ほぼ同時。近くの茂みがガサガサと音を立たせながら揺れ動き、その茂みの中から、ゆうに三メートル以上はありそうな熊が、ぬっと姿を現した。


「むうっ……!」


「うわー、大きいねー」


 巨大な野生の熊を目にし、あまりの大きさに体を硬直させる花梨と、息を吐くように透明な感想を漏らす雅。

 すると、茂みから全身を出した熊が、丸い耳をピクリと反応させ、酒天達がいる方へゆらりと顔を向けた。

 そこから全員、時が止まったように動かなくなり、極度に緊張している花梨だけが、無駄に体力を消費していく。


 一時間以上も立ち尽くしたような、二時間以上硬直していたような、時間の間隔が曖昧になってきた一分後。

 酒天達を眺めていた熊は、興味を無くしたようにそっぽを向き、振動を感じる足取りで歩き出し、違う茂みへと入っていった。

 そして、その熊を追うように二匹の小熊が素早く横切り、再び長い静寂が訪れる。

 そこから更に一分後。思い出しかのように鳥のさえずりが聞こえてくると、酒天は花梨の口から手を離し、ほっと一息ついた。


「どうやら、行ったみたいっスね」


「みたいですねー。いやー、何事も無くてよかったよかったー。ねー、かりーん。……花梨?」


 安心させる為に、雅が相槌あいづちを求めるも、花梨からの返答は無く。おかしいと思った雅が、ぽやっとしている顔を花梨へ移す。

 その花梨はというと、ただ呆然と熊が居た場所を見据えていて、一向に動き出そうとはしない。


「花梨くーん。おーい、生きてるー?」


 脅威は去ったものの。意識が未だに虚空の熊に捕らわれている花梨に、雅は花梨の前に立ち、顔の前で手を振る。

 そこで、ようやく意識を取り戻したのか。花梨が「……へっ? はっ!? ふおっ!?」と声を発した。


「く、熊っ! 熊はっ!?」


「おかえりー。もう去ったよー」


「さ、去った!? ……はあ〜っ、よかったぁ〜……」


 遅れて現状を理解した花梨が、肺の中に溜まっていた空気を全て吐き出し、気疲れした体が項垂れていく。


「なにー? 意識が飛んでたのー?」


「と、途中から、飛んでたかもぉ……」


「まあ、あの状況なら無理もないっス。叫ばなかっただけでも、すごいと思うっスよ。それに、ゴーニャちゃんもよく叫ばなかったっスね。偉いっス」


 普通の人間であれば、パニックに陥りそうな状況だったのに対し、沈黙を貫き通していた二人に、酒天はニッと笑いながらフォローを入れる。


「ご、ゴーニャは、結構前から、寝てました……」


「ありゃ、そうなんスね」


 疲弊し切っている花梨が説明すると、ゴーニャの「すぅ、すぅ」という安らかな寝息が、答えるように後を追う。


「あっはは、可愛い寝顔だなー。どうする花梨、一旦休憩するー?」


「そうだね……、少しだけしたいや」


 縋る思いで願うと、花梨は膝から崩れ落ち、もう一度大きく息を吐き出す。

 移動するのも悪いと察した二人も、紅葉の絨毯に腰を下ろし、辺りを警戒しながら休憩をしていった。

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