80話-8、甘い抱擁は、天を穿つ怒りをも沈める

 目がベロンベロンに据わっている花梨が、文句を聞き入れ過ぎて意気消沈しているぬらりひょんの背後へ回ると、見るも無残に萎びた後頭部をペチペチと叩き出した。


「ねーねー、ぬらりひょんしゃまー。あたしににゃにをゆーのー?」


「……花梨。それ、ワシの後頭部……」


「ありぇ? ぬらりひょんしゃま、顔がにゃいよ? いつからのっぺらぼーににゃったの?」


 話をまったく聞いていない花梨が、無くなったぬらりひょんの顔を探すように、辺りをキョロキョロと見渡し始める。

 そんな奇行を繰り返す花梨を、遠目から眺めていたぬえかえでは、噴き出すのを我慢する為に、固く閉ざした口を手で覆い隠した。


「なっ? 酔ってる時のあいつ、やべえだろ?」


「確かに。あれは流石に、ワシでも手に負えんの」


「ひえー……。花梨さんの酔い方、紅葉もみじさんより酷いっスね」


 花梨の様子を見に来た酒天しゅてんも、鵺の横に付いて会話に加わると、静観していた雹華ひょうかが「そうね」と続ける。


「お酒は、酒天ちゃんが勧めたのかしら?」


「そうっス。コップ一杯分だけ飲んだら、あの有り様になりまして」


「コップ一杯か。あいつにしちゃあ、かなり飲んだ方だな」


 大人になった花梨と一番長く接していて、唯一酒の限度を知っている鵺が、残り少ない春雨をすすった。


「鵺さん。花梨さんは、現世うつしよではお酒を飲んでなかったんスか?」


「ほぼまったくだな。私が強引に勧めない限り、居酒屋に連れてっても、緑茶かジュースしか飲まなかったぜ」


「むう、そうなんスね。ならば、次から気をつけ―――」


「楓しゃーん、マジックちょーらい」


 花梨に対する酒の許容量を知った酒天が、今日の反省を今後に生かすべく、脳裏に焼き付けようとしている最中。

 全員が眉間にシワを寄せる花梨のお願いに、反応せざるを得ない楓が、困惑気味になった糸目を更に細めた。


「マジック? いったい何に使うんじゃ?」


「いーからいーから、はーやーくぅー」


 理由を知りたい楓が真っ当な質問をするも、返ってくるのは、腑抜けている理不尽な催促のみ。

 本当は従いたくない催促であるが、断れば何をされるか分からないと判断した楓は、近くにあった未使用の割り箸を手に取る。

 すると、割り箸は螺旋を描いた白い煙に包まれていき、数秒してから煙が風に流されていくと、中から黒色のマジックが現れた。


「ほれ花梨、受け取れ」


 放り投げようとしたものの。今の花梨では絶対に受け取れないと悟り、神通力を駆使し、浮かせたマジックを花梨の元へ飛ばしていく楓。

 そのまま、受け取る構えすらしていなかった花梨のひたいにコツンと当たると、花梨は目の前に落ちたマジックを拾い、緩い笑みを浮かべた。


「ありがとー。それじゃー、早速ぅ」


 理由を言わぬまま花梨は、マジックの蓋をキュポンと音を立たせながら取り、ぬらりひょんの後頭部にかざした。


「……花梨? お前さん、いったい何をしているんだ……?」


「えっとー、たしかぬらりひょんしゃまの顔はー、こーだったかにゃ?」


「はっ?」


 萎びた後頭部から感じる、何かになぞられているような感触。キュッキュッと等間隔に聞こえてくる、耳障りな甲高い音。

 その、最初から分かり切っている嫌な予感に、意気消沈していたぬらりひょんの心境に、焦りという名の気力が宿っていく。


「花梨? もしかして……」


「あー、顔描いてるんだから動いちゃダメだってー」


「やっぱり! おい花梨! やめっ……」


 慌てたぬらりひょんが振り向こうとするも、花梨は逃げようとする後頭部を鷲掴み、普段では見せつけぬ力でその場に固定。

 じたばたと暴れ出したぬらりひょんを差し置き、何事も無いように落書き染みた顔を描き続けた。


「ちょ、貴様! なんだこの力は!? さては剛力酒ごうりきしゅを飲んだな!?」


「えっとー。ぬらりひょんしゃまの目は、こんにゃ感じだったでしょー? 口はー、こう!」


 本来の顔から飛んで来る怒号に、まったく意に返さぬ事なく描き進めては、ぬらりひょんの後頭部に落書きを増やしていく花梨。

 綺麗に描かれた丸の中に、点がポツンとある目。ぬらりひょんの心境を映しているのか、細い線で描かれたつり上がっている眉。

 三日月のように簡素な口。そして、全てのパーツを描き終えると、花梨は後頭部からマジックを離し、三日月の口を強く突っつき出した。


「あっはー、プニプニしてるぅ〜。ぬらりひょんしゃまの口、やーらかーい」


「グッ……! ぐぬぬぬぬ……!」


 やはり愛娘であろうとも、愚行の数々を許せるはずもなく。

 ぬらりひょんのひたいと後頭部に複数の怒り筋が立ち、右手に作った拳を小刻みに震わせては、奥歯をギリッと食いしばっていく。


「ヤバッ……。ぬらりひょん様、めちゃくちゃ怒ってるっスよ……」


「あー、大丈夫大丈夫。すぐに収まっから、黙って見てろ」


 怒髪天を衝く勢いで怒り出したというのに対し、鵺はニヤニヤしながら見ているだけで、酒天が温め直した焼き鳥を頬張るばかり。


「鵺ちゃん、本当に大丈夫なの? 怒りすぎて、熱気がここまで届いているんだけど……」


「いいからいいから。これから、お前が羨ましがる事が始まんぞ」


 熱に敏感な雹華が念を押すも、鵺は今後の展開が分かっているような様子でいて、名残惜しみつつ最後の春雨をすすっていく。


「私が、羨ましがる事?」


「ほれ。あれだ、あれ」


「たーっ!」


 鵺が指を差した直後、花梨が新たな愚行に走ったのか。花梨の弾けた声を耳にしてから、雹華は鵺が差した方へ顔を持っていった。

 あまり見たくない視線の先。背後からぬらりひょんに抱きついていた花梨が、甘えるように頬ずりをしていた。


「ぬらりひょんしゃま、キセルの匂いがするぅ〜」


 シラフでは絶対にやらないであろう花梨の行動に、ぬらりひょんは顔を呆然とさせた後。愛娘を溺愛する、デレデレとした親バカ顔にすり変わり、奇声染みた笑い声を放ち出す。


「ああ〜、そうかそうかぁ。ワシはキセルの匂いがするのかぁ〜。花梨や。ワシを、おじいちゃんと呼んでくれんか?」


「え〜、にゃんで〜?」


「いいからいいから。ほれ、早く」


「ん〜と、おじいちゃん!」


 最早、プライドや威厳の欠片すら捨てたぬらりひょんの願いが叶うと、とっくに酒が抜けているのにも関わらず、ぬらりひょんの頬がほんのりと赤く色付いていく。


「ぬふふふふ……。花梨や。もう一度、もう一度おじいちゃんと呼んどくれ」


「いーよー、おじいちゃんっ!」


「うぇへへへへへ……。本当に可愛い奴じゃなあ、お前さんはぁ〜。ああ、もっと、もっと頼むぅ」


 始まるは、誰かが止めなければ永遠に終わりそうにない、歯止めが元から皆無な娘と祖父の応酬。

 誰が見ても恥ずかしさが込み上げてくるやり取りに、雹華だけは瞳孔が開き切っていて、わなわなと体を震えさせていた。


「なに、あれ? ものすごく羨ましいんだけど?」


「だから言っただろ? 私も散々やられたぜ、あれ。いくらやめろっつっても、ずっと引っ付いたままなんだよ」


「ずっと!? ていうか鵺ちゃんも、あんなご褒美をされていたの!?」


「ああ。一回やられっと、一時間以上はああだぞ」


 呆れ返った鵺の説明に、確証を得られた雹華の目が瞬時に血走り、純白の両手をバッと広げる。


「花梨ちゃんっ! 私の方が断然抱きやすいわよッ! さあ、思いっ切り飛び込んできてちょうだいッ!」


「やー、おじいちゃんがいいー」


「んがっ……!?」


 間髪を容れぬ花梨の拒否に、玉砕した雹華がショックのあまりに気を失い、膝から崩れ落ちていく。

 しかし、この甘えっぷりをチャンスだと確信した楓が妖しく笑い、正座をさせた太ももをポンポンと叩いた。


「花梨や、ワシの所へ来い。存分に甘えさせてやるぞ?」


「やだー、おじいちゃんがいーのー」


「グッ……!?」


 まさか、自分まで拒否されるとは思っていなかったようで。顔を気まずそうに強ばらせ、逆立った楓の狐の尻尾と耳が、力無く垂れていった。


「あらあら。これだと、今のぬらりひょん様には勝てそうにないわね〜」


 周りの凄惨たる結果を目にし、挑む前から無難に諦めた釜巳が、やや残念そうにほくそ笑む。


「しかも、秋風っつう最強の盾が出来ちまったから、ぬらさんに文句が言えなくなっちまったぜ」


 元から分かっていたものの。途中から出来た目的が果てせなくなった鵺が、ボヤキを入れながら唐揚げを口に入れる。


「いいなー、ぬらりひょん様。あたしにもあんな風に、一度でいいから甘えてきてほしいっス」


 ようやく心身共に一息つけた酒天も、思わず本音をポロリとこぼし、これ以上本音が出ないようカキフライを頬張った。


「なんだあ酒天。てめえも、そんなクチだったのか?」


「えへへへ……。あたしも皆さん同様、花梨さんの事が大好きですからね。すごく羨ましいっス」


「ふ〜ん、そうか。ならよお……」


 ソワソワと花梨へ横目を送る酒天を見て、悪巧みを思いついた鵺が、いやらしい笑みを浮かべた顔を酒天に近づけていく。


「日を改めて、もう一回酒を飲ませちまえよ」


「えっ? 日を改めてっスか?」


「おうよ。仕事帰りでも休日でもいいから、お前の店とかに誘って、酒を少しだけ飲ませちまえばいい。そうすりゃあ、お前にベッタリ引っ付いてくるぜ?」


「あたしに、ベッタリ……!」


 正義感が人より何倍も強く、悪しき行為を誰よりも嫌う酒天が、魅力がギッシリと詰まった悪魔の囁きに心が揺らいでしまう。

 普段であれば、決して耳を傾けない囁きではあるが。すっかりと魅了されてしまい、見開いた顔を花梨へ向けてからスクッと立ち上がった。


「あ、あたし、ちょっとみやびさんの所へ行ってくるっス!」


「おう。誰だか知らねえけど行ってこい」


 何故とは問わず、酒天の欲が垣間見える背中を見送ると、鵺は満足気に表情をほころばせ、「頑張れよ」と誰にも聞こえない声で後押しをする。

 そして、未だにぬらりひょんと戯れている花梨に顔をやると、「すまねえ、秋風。ちょっとだけ、あいつのワガママに付き合ってやってくれ」と再び呟き、温くなったビールを飲み干していった。

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