79話-4、万全を期す牢氷に、来る者は居らず
分厚い氷に覆われた扉に向かい、狂気に満ちた高笑いを発し続けていた雪女の
「待ち焦がれていたわあ。この瞬間を、ずっと」
背筋に悪寒が走る口調で呟き出した雹華が、花梨が居る方へバッと振り向き、両手を大きく広げた。
「私と花梨ちゃんが、二人っきりになれるこの瞬間をねえッ!」
雹華が放つは、善悪を含まぬ、純粋な欲望に満ちた咆哮。その欲深い咆哮を真っ向から浴びた花梨が、握った拳を胸に当てる。
「雹華さん。いったい何をするつもりで、いるんですか?」
怯むことなく質問をすると、雹華はクスリと微笑する。
「あら。察しがいい花梨ちゃんなら、もう分かっているんじゃないの?」
「……くっ!」
妖しい雰囲気を漂わせている雹華の返しに、先に立てていた予想が当たってしまったのか。顔を強ばらせた花梨が両拳を前に構え、臨戦態勢に入る。
「ウフフッ、やる気満々じゃない。ただの人間が、雪女である私に勝てるとでも思っているのかしら?」
「そんなの、やってみないと分からないじゃないですか!」
明らかな虚勢を張った花梨の叫びに、雹華は花梨の目論見に感付き、ターコイズブルーの瞳を艶めかしく細めた。
「大声を上げても無駄よ。私達がいくら叫ぼうとも、激しく暴れようとも、外には決して音が漏れないからね」
「そ、そんな、まさか……。ゴーニャーーっ!!
試しにと花梨が大声で二人の名を叫ぶも、密閉された部屋内に声は響く事すらなく、しんと静まり返っていくのみ。
「アッハッハッハッハッ!! 無駄よ、無駄無駄ァッ! さっき言ったでしょ? この部屋には、特殊な氷に覆われているってねえ!」
勝ち誇ったように嘲笑う雹華が、扉の前まで歩み寄っていき、先ほど張った氷を手の甲でコンコンと叩く。
「この氷、
特殊な氷の性質を明かした雹華が、凍てついたを眼差しで花梨を捉える。
「で、でも! ここはスタッフルームじゃないですか! その内に店員さんが来て、異変に気づくはずです!」
「その点は、心配無用」
どうにかして粗を探そうとする花梨に対し、雹華は余裕の表情で腕を組む。
「店員達にも、新たな体の冷やし方を教えてあるから、本当の休憩を取る時にしか訪れないわ。それにね」
悠々と説明を続ける雹華が、花梨の元へ一歩、また一歩と歩み出す。
「店員達がここへ来る場合、私に必ず一報を入れるよう指示してあるから、突然現れる事はまずありえないわ。更に、今日の
「じゃあ、もしかして……」
「そう、万全の状態よ。だから―――」
そう言葉を溜め、全速力でロッカーの元へ走り出す雹華。ロッカーの前まで来ると、二つの扉を乱暴に開け、中にあった何かを掴む。
そのまま、目にも止まらぬ早さで花梨が居る方へ向き、手で握った何かをガシャンと音を立たせながら置いた。
置いた物は、共に雹華の首ほどの高さまである黒い三脚で。左の三脚には、望遠レンズが装着されている一眼レフカメラ。右の三脚には、最新鋭のビデオカメラが装着されていた。
「始めるわよっ! 超撮影会をねえっ!!」
「おおっ、やったー!」
一触即発の状態から一転。両手を高らかに上げ、満面の笑みで飛び跳ねる花梨。
雹華が笑い出した時点で、ある程度の予想を立てていたものの。確信を得られず、様子を
二つのカメラを微調整している雹華の元まで来ると、花梨は待ってましたと言わんばかりに無邪気な笑みを浮かべ、雹華も華奢な笑みで返した。
「もう、花梨ちゃんったら。今日はすごくノリがいいじゃない。私もつい、演技に熱が入っちゃったわ」
「えへへっ。なんていうか、仲間だと信じていた人の罠にハマり、窮地に追い込まれた人の役を演じてみました。いや〜、楽しかったです」
「ウフフッ。花梨ちゃん、そういうシチュエーションが好きなのね」
「ええ、そりゃあもうっ。そこから敵を倒しつつ脱出するのが、鉄板の流れです」
映画の影響なのか。自分が思い描く理想的なシーンを恥ずかし気もなく語ると、カメラの微調整を終えた雹華が「なら」と続ける。
「初めてここで研修をした時、雪の女王様を演じもらった時があったけど、案外ハマっていたのね」
「ああ〜、ありましたね。なんて言えばいいんだろう? 逆境かな? とにかく、私が不利になるシチュエーションが好きです」
「で、実は本気を出していなく、大技を放って大逆転勝ちするんでしょ?」
「そうですそうです! いやぁ〜、雹華さんも分かっていますねぇ〜」
過去、ここで研修という名の撮影会を
しかし今回は、花梨も前々からとある姿で撮影会をやってみたいと思っていたので、その予兆を感じ取ってから、事前にスイッチが入ってしまっていた。
雹華に触発され、花梨もウズウズとし出しすと、肝心の雹華は安堵でもしたのか、場の空気には合わないため息を漏らす。
「でも、演技を始めた時に、携帯電話で助けを呼ばれなくて本当によかったわ。それだけが、ちょっと怖かったのよね」
ため息の次に漏らしたのは、場合によっては起こり得ていた可能性がある大惨事。その雹華が危惧していた後ろ向きな発言に、花梨は首を横に振り、「いえいえ」と口にした。
「そんな事を絶対にしませんよ」
「えっ?」
「だって、雹華さんが私の事を信頼してくれているように。私も、雹華さんの事を信頼していますからね」
かつて、雹華に心を強く打たれた言葉をあやかり、絶対なる信頼感を寄せている旨を伝えた花梨が、全てを許容するような笑みを送る。
まるで、氷を瞬く間に溶かしてしまいそうな暖かな言葉に、雹華は目を限界まで見開き、口をポカンと開けた。
そして、全身に花梨の言葉が沁み渡った頃。雹華の右目から、涙が音も無く零れ落ち、頬を伝っている最中に口元を手で抑えた。
「……ごめんなさい、花梨ちゃん。今まで花梨ちゃんの事を天使だと思っていたけど、完全に見誤っていたわ。もはや聖母。いや、女神様だわ……」
「と、とうとう女神にされちゃいましたか、私」
最早、雹華の涙は止まる事を知らず。左目からも感涙が溢れ出し、大袈裟に両膝を崩してはすすり泣く。
「これから花梨ちゃんを、女神様かお母さんって呼んでもいいかしら……?」
「あれ、前回と立場が逆転しちゃったぞ? あの、普段通りでお願いします……」
これ以上泳がせると、呼び名も変わりかねないと感じた花梨は、雹華に手を差し伸べる。が、その女神の手を認めた雹華は首を横に振り、自分の力で立ち上がると、涙まみれになっている手を純白の着物で拭き取った。
更に袖から一枚の白い布を取り出し、顔を丁寧に拭き、豪快な音を立たせながら鼻をかむと、落ち着いた様子でニコリと微笑んだ。
「分かったわ、花梨ちゃん。それじゃあ、本題に入りましょうか。何かこの姿で演じてみたいとか、やってみたいシチュエーションとかはある?」
「あっ、はい、あります!」
「あら、とてもいい返事ね。教えてちょうだい」
「えっとですね〜。前から、天狗の姿でやってみたい事があったんですよ」
天狗もとい堕天使の言葉を聞くや否や。雹華の両目が、部屋にあるどの光源よりも、力強く輝き出す。
「だってぇんしぃッ!! ナイスなチョイスじゃないのぉッ!」
防音氷を貫きかねない声量で叫ぶも、花梨は微動だにせず、背中に背負っていたリュックサックを床へ降ろす。
「んっふふ〜。雹華さんも好きな姿だと前々から知っていたので、賛同してくれると思ってました」
「好きも何も、大好物よっ! それじゃあ、早速天狗になってちょうだい!」
既に興奮が最高潮に達し、握っている両手を上下にぶんぶん振っている雹華が、我の強い催促をする。
その防音氷を溶かしかねない熱い催促に、花梨は「はい、分かりました」と言うと、リュックサックから天狗になれる紫色の
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