79話-1、朝から騒がしいカメラマン
いつもより温かな朝焼けが温泉街を照らしている、朝の七時半前。
超高性能の一眼レフカメラを片手に持ち、全身を小刻みに震わせていた雹華が、歯を食いしばりながら目を瞑る。
「ダメよ雹華、一線を超えちゃ……! 花梨ちゃんの、可愛い寝顔を撮るだなんて……」
全身に力を込め、意に反して構えようとする体に抵抗し、無いに等しい自制心を必死に保とうとする雹華。
が、無駄な抵抗も虚しく。体が勝手にカメラを撮る姿勢に入っていき、ピンと伸びている人差し指が、シャッターのボタンへ落ちていく。
「誰か、誰か助けて……! このままだと、歯止めが効かなくなっちゃ―――」
「まーた朝から暴れてんのか、お前は?」
「その声は、クロちゃん!?」
背後から、呆れた様子でいる救世主の声が聞こえてこようとも、雹華は振り返ろうとはせず、あえてズラしていたカメラのピントを合わせた。
「助けてクロちゃん! 私が過ちを犯す前に、早く!」
「一枚ぐらい、どうって事はないだろ? 起きてから事情を説明すれば、花梨も分かってくれるさ」
「ダメよ! もしこれを許したら、今度は花梨ちゃんの入浴姿を―――」
雹華が本当の過ちを犯す宣言しようとした直後。クロは刹那で雹華との間合いを詰め、隙だらけの両頬を鷲掴む。
あまりの速さに理解が追いつかず、遅れて頬に違和感を覚えた雹華の目が、大きく見開いていく。
「雹華。私の頬つねりは、
「……知っているわ。とんでもなく痛いらしいわね、そのつねり。けれども、やって、クロちゃん」
「はっ? 本当にやっていいのか?」
よもやの催促にクロが問い掛けると、雹華は意を決したように、生唾をゴクリと飲み込んだ。
「ええ、お願い。頬がなくなるかもしれないのは分かっているけども、指が言う事を聞いてくれないの」
諦めの色さえ
カメラをしかと握っている右手の人差し指は、確かにじわじわとシャッターのボタンに迫っていて、今にも押しかねない状態であった。
「お前……、指か体にも脳があるのか? どれだけ花梨の寝顔を撮りたいんだよ」
「……だって、本当に可愛いんだもの」
「まあ、お前の言ってる事は分かる。いつも幸せそうに寝てんだよなあ、花梨の―――」
「あのー、クロさんと雹華さん? 何をやってるんですか?」
話の馬が合ってしまい、クロが語り出そうとするも、第三者の呆けている声が割って入る。その声に二人が目をぱちくりとさせ、声がした方に視線を持っていく。
視線の先には、両脇にゴーニャと座敷童子の
「あら、起きちゃったのね。おはよう、花梨ちゃん」
そう何事も無かったかのように挨拶を交わした雹華が、軽くなった指をシャッターボタンに落とし、寝起きの花梨を連射で撮り始める。
過ちを犯す事もなくなったので、クロは雹華の頬から手を離し、雹華の横に回って
「よう花梨、おはよう。こいつ、朝からお前の寝顔を撮ろうとしてたんだぜ?」
早々に悪事をバラしたクロが、雹華の体を肘で小突く。
「私の寝顔、ですか?」
「ごめんなさいね。あまりにも可愛いかったから、つい」
包み隠さず謝るも、雹華の指はシャッターボタンから離れず、連射の勢いは更に増していくばかり。
その、今後もやらかしかねないであろう雹華に、花梨は一旦苦笑いするも、窓から差し込む朝日の光より明るくニコリと笑った。
「別に、寝顔ぐらいなら撮っても構いませんよ」
「えっ? 本当っ!?」
「はい。でも、少し恥ずかしいので、後で見せて下さいね」
「後で見れせばいいのね!? 分かったわっ! ぃよっしゃぁぁああああーーーーッッ!!」
よほど嬉しかったのか。花梨の携帯電話から鳴り出した目覚めのアラーム音を、掻き消す勢いで雄叫びを上げた雹華が、渾身のガッツポーズをする。
アラーム音よりもけたたましい雄叫びに、ゴーニャと纏も目を覚ました最中。朝の役目を果たしたクロは、雹華に「よかったな」と声を掛け、扉へ向かって歩いていく。
「朝飯はいつもの所に置いといたから、とっとと食っちまえよ」
「あっ、はい! ありがとうございます!」
「ありがとう、クロちゃんっ!」
清々しい元気のあるお礼と、興奮が止まぬ荒々しいお礼を聞いたクロが手を振りつつ、花梨の部屋を後にする。
クロの背中を見送ると、花梨達は体を伸ばしてからベッドを抜け出し。着替え、歯磨きを済ませ、部屋へと戻った。
「あら、今日は冷やし中華ね」
先にテーブルの上にある朝食を認めた雹華が、真っ先に料理名を口にし、遅れを取った花梨もテーブルに注目する。
四つある大皿には、均等に添えられた錦糸卵、千切りにされたキュウリとハム、トマトやチャーシューが麺を覆い隠していた。
その色彩豊かな山の頂上には、あると嬉しい紅しょうが。
「朝から冷やし中華って珍しい気もするけど、美味しそうだなぁ」
「サッパリしているから、つい多めに頬張っちゃうのよね」
「分かります分かります! 一気にすするのが、冷やし中華の醍醐味ですよね」
雑談を交わしながらテーブルを囲み、それぞれ腰を下ろしていく四人。
花梨が率先して皿と箸を配り終えると、一斉に手を合わせて「いただきます」と朝食の号令を唱え、冷やし中華に箸を伸ばしていく。
まず初めに、花梨はカラシを巻き込まぬよう具材をかき混ぜ、全体に中華風の汁を馴染ませると、箸で大量の麺をすくい、一気にすすっていった。
先に、食欲を増幅させるまろやかな酸味を感じ取るも、噛んでいく内に麺のほんのりとした甘みが加わっていき、酸味を抑えていく。
少しだけ具材も巻き込んでいたようで。キュウリのシャキシャキとした食感も忘れずに楽しみ、喉を鳴らして飲み込んでいった。
「う〜ん、これこれ! 朝から冷やし中華もアリだなぁ、んまいっ」
「ここへ持ってくる前に、冷蔵庫で冷やしてくれていたのね。とても冷えていて美味しいわ」
「おそばとかうどんと、また違う麺だわっ。おいひいっ」
「鼻がツーンとする」
カラシの塊を口に入れてしまったのか。無表情ながらも、体を小刻みに震わせ、涙目になりつつ鼻の穴をおっぴろげる纏。
「ちゃんとよく混ぜないからですよ。でも、案外やっちゃうんだよなぁ」
「よく混ぜたつもりでも、意外と塊が残っちゃうのよね」
「ですねぇ。私もしっかり混ぜないと」
己に言い聞かせた花梨は、カラシが盛られている箇所を起点に皿を傾け、汁を集めてからかき混ぜていく。
汁が満遍なく濁ると、麺と具材にも行き渡るように絡めていき、念には念を入れて少なめに麺をすする。
酸味よりも先に、カラシのツンとした辛さが先行するも、すぐに鼻を駆け抜けていき、清涼感のある空気が後を追っていった。
「私、この一瞬だけ鼻がツンとする感覚が好きなんだよな〜」
「花梨は好きなのね。私は好きじゃないわっ」
「そういやゴーニャ、お寿司を食べた時にワサビでツーンとなっていたもんね」
「うんっ。あの時は涙もいっぱい出たし、大変だったわっ」
ゴーニャがこの温泉街に来てから日も浅く、花梨から今の名前を貰った日の事。まだ何もかも知らなかったゴーニャは、夕食に出てきた寿司を食べていた時、誤ってワサビ入りの寿司を食べて悶絶した事があった。
もはや、懐かしささえ覚える過去の出来事を思い返し、鮮明に当時の事を思い出した花梨が、やんわりとほくそ笑む。
「なにそれ、見てみたい」
定期的に涙目になっていた纏が、鼻をすすりながら言う。
「残念ね、私は同じ過ちを繰り返さないわっ。今回だって、しっかりと避けてあるんだから」
「なら溶かして食べてみて。美味しいよ」
「今の纏が言っても、説得力がないからイヤよ」
「おのれ五分前の私」
そう近い過去に居る自分を責め立てては、麺をすすって体を小刻みに揺らし、鼻の穴をぷくりと広げる纏。
そして、その顔を見てしまった全員が笑い出すと、纏も無表情をやや崩して僅かに笑みを浮かべ、和気あいあいと冷やし中華を食べ進めていった。
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