75話-9、一抹の不安と、現世と隠世について

「後はオーブンに天板を入れて、焼けば完成よ」


「ほ〜、案外簡単じゃねえか。しかし……」


 先生となった翡翠ひすいから、クッキーの作り方を手取り足取り教えてもらい。難なく作り終える事が出来た紅柘榴べにざくろが、背後にずっと居た花梨達に体を向ける。


「俺が用意した材料なら大体のもんは作れると思ってたけど、全然足りなかったみてえだな。わりぃわりぃ」


「あっははは……。私も最初は、材料を見てビックリしちゃいました」


「そうよ紅柘榴。最低でも、卵と牛乳は必要なんだからね。お菓子作りにはメレンゲが大事なのよ、メレンゲが」


 ここぞとばかりに翡翠が割って入ると、花梨から教えてもらった知識をそのまま披露し、人差し指を立てて得意気に語る。

 が、紅柘榴は初めて聞く単語だったようで。いまいちピンと来ておらず、難しい顔をして後頭部をガシガシと掻いた。


「なんだ、メレンゲって?」


「卵の卵白を泡立てた物よ。色んなお菓子に使うから、紅柘榴もしっかり覚えておいてね。……でしたよね、花梨さん?」


 紅柘榴がここへ来る前に、花梨から菓子作りのイロハを教えてもらったものの。やや確信を持てていない様子の翡翠が、おもむろに問い直す。


「合ってますよ。メレンゲを使うのは、主にパンケーキとかスフレケーキ。フォンダンショコラやテリーヌ。お菓子じゃないですけど、メレンゲでオムレツを作ると、ふわっふわになるんですよねぇ〜」


 最初は菓子について説明をしていたが、途中から話が脱線し、内容がお菓子から主食へと移行していく。

 パンケーキは先ほどの勉強会で軽く触れていたが、残りのお菓子名には一切触れておらず。とりあえず『合ってますよ』だけを聞き取った翡翠は、ほっと肩を撫で下ろした。


「メレンゲねえ。今度現世うつしよに行った時、スーパーで購入してくっかなあ」


「そういや紅柘榴って、どのひずみから現世うつしよに行ってるんスか?」


 現世うつしよに行ける歪みの在り処を、秋国にある物しか知らない酒天しゅてんが、おもむろに質問を投げ掛ける。


「ん? 近くの洞穴に、歪みが一つあってよ。人気ひとけが無い森の中にある泉に出るから、かなり気軽に行けるんだぜ」


「へえ〜、この近くにもあるんスね。その森から熊童子くまどうじのバーまで、どのくらいで行けるんスか?」


「あ〜、徒歩で十分ぐらいか?」


「近っ! な、なら、『秋国』は知ってるスか?」


 声を急に上げた酒天の質問攻めに対し、紅柘榴は目を丸くさせつつも、「ああ、行った事もあるぜ」とあっけらかんと答えた。


「あるんスか!? なら話は早いっス! その秋国に、居酒屋浴び呑みっていう店があるんスけど、あたし、そこで働いてるんスよ」


「マァジか!? っか〜! たまに莱鈴らいりんさんのとこに行ってんだが、知らなかったぜ。勿体ねえ事してたなあ。行く行く! 明日から頻繁に行くぜ! それに……」


 会話に花が乱れ咲き、酒天に固い約束を交わした紅柘榴が、二人の会話を目で追っていた花梨に顔を移す。


「秋風、あんたも秋国にいんだろ?」


「はい、居ますよ」


「なら翡翠も一緒に連れて行くから、そこでも菓子の作り方を教えてくれよ。暇な時で構わねえからさ」


「あっ、いいですね! 是非お待ちしてます!」


 紅柘榴のやる気を垣間見せる提案に、花梨は喜々と賛同もするも、「でも」と付け加え、酒天に気になっている顔を合わせる。


「前に永秋えいしゅうでも言ってましたけど、現世うつしよって一体なんなんですか?」


現世うつしよって言うのは、簡単に言うと現世げんせっスね。花梨さんが元々住んでる世界の事を指すっス」


現世げんせ? えっと、それじゃあ秋国とか、ここは現世げんせじゃないんですか?」


「そうっス。こっちは隠世かくりよという世界でして……。なんて言えばいいっスかねえ〜」


 ばつが悪そうに言葉を濁した酒天が、表情を曇らせ、獣のそれに近い金色の瞳を天井へ逃がした。


「ぶっちゃけると、死後の世界だ。流石に黄泉は知ってんだろ? その黄泉も、この世界のどっかにあんのさ」


「死後の、世界……?」


 にかわに信じ難い紅柘榴の説明に、花梨は眉間に深いシワを寄せ、酒天と紅柘榴の顔を高速で見返していく。


「それじゃあ、私……。死んじゃってるって、こと?」


「いやいや! ちゃんと生きてるっスよ! 花梨さん、何度か現世げんせに戻った事があるじゃないっスか!」


「あっ、そう言われてみれば……」


 花梨が予想通りと言わんばかりの反応を示したせいで、酒天は安心させるよう慌てて説明を挟み、ほっとため息をつく。


「それに、秋国がある隠世は、現世うつしよに限りなく近い隠世でして。ちょっとした条件を満たせば、誰でも気軽に来れるんスよ」


「ちょっとした条件、ですか。例えば、どんな条件があるんですかね?」


「例えば〜……。霊感がある人とかっスね。花梨さん、あたしの代わりに、駅事務室の見張り番をしてくれた事があったじゃないっスか?」


「はい、ありますね」


「その駅事務室と扉の先にある駅が、ちょうど現世と隠世の境目でして。扉の前に隠世へ通ずる歪みっていうのがあるんス。で、その扉は普通の人間には見えないんスが、霊感がある人だと見えちゃうので、中に入って来れるって訳っス」


「へぇ〜。私が見張り番をやった時に、人間の女の子が入ってきちゃったんですけど、その子には霊感があったから、駅事務室に入って来れた訳なんですね」


「んげっ、そんな事があったんスか……?」


 最早、懐かしささえ覚える花梨の災難に、酒天はお気の毒にと言いたげな表情をすると、花梨は「えへへへ……」と苦笑いをした。


「た、確かに……。子供には霊感があるって聞きますから、もしかしたらそうかもしれないっスね」


「なるほど……。しかし、隠世かぁ」


 物思いにふけるようにか細く呟き、握った手を口元に添え、視線を右にズラす花梨。

 今まで現世と隠世については一切知らず、現世よりも隠世の雰囲気や空気に懐かしさを覚えており、我が家に帰ってきた気分にさえなっていた。

 そんな自分と向き合いつつ、初めて秋国に来た時、どこか懐かしさを感じたけど……。あの感じは、一体なんだったんだろ? と一人頭を悩ませていく。


「花梨さん? 急に黙り込みましたけど、どうかしたんスか?」


「う〜ん、こんな事を言ったら変に思われるかもしれないんですけど……。私、初めて秋国へ来た時、懐かしさを感じたんですよね」


「へっ? 懐かしさ……、っスか?」


「はい。それに現世から隠世に帰って来た時にも、こっちの方が我が家に帰って来た感があったというか……。元々私、隠世の方が肌に合ってるのかなぁ? 酒天さん、これっておかしいですよね?」


「あ、あ〜、その〜……。な、なんて言うんスかねえ?」


 『あなたは隠世で産まれました』だなんて、今は口が裂けても言えるはずもなく。正直者な酒天は焦りに焦り、言い訳すら思いつかず。金色の瞳を泳がせては、ぎごちない愛想笑いで誤魔化していく。

 なにか起死回生の話題はないかと、焦りが渦巻く頭の中で霞んだ思考を混ぜ込み、顔を歪ませる酒天。

 そして、頭から煙が出んばかりにパンクしている中。酒天は一つの打開策を見出し、「あっ!」とわざとらしく声を上げた。


「か、花梨さん! 永秋えいしゅうでぬらりひょん様に、味がどうとか聞いてたじゃないっスか! 今目の前に、本物の人魚が居るので聞いてみたらどうっスか!?」


「えっ? 人魚さんにあの質問をするのは、何かとまずいんじゃないですかね?」


「あ、えあっ……。じゃ、じゃあ、あたしが聞いてみるっス!」


 話題を強引に切り替える事に必死で、後先なぞ度外視している酒天が、早足で二人の元へ歩み、紅柘榴の両肩を鷲掴む。


「紅柘榴! 人魚の肉って、どんな味がするんスか!?」


「は? 味?」


「そうっス! 教えてほしいっス!!」


「突然そう叫ばれてもなあ。味、ねえ……」


 酒天の鬼気迫る圧が強い質問に、紅柘榴は臆する事無く視線を逸らし、目を細めていく。

 が、やはり知らなかったのか。逸らした視線をすぐに酒天へ戻し、両手がくい込んでいる肩をすくめた。


「流石に共食いは趣味がわりぃし、誰も知らねえだろうな。どうせなら、ぬらりひょんに聞いてみろよ。確かあいつの知り合いに、八百比丘尼やおびくにが居たはずだぜ」


「んえ? そうなんスか?」


「ああ。どっかの市長兼、イタコもやってるとか言ってたな」


「……尼僧で、市長でイタコ? なかなか濃いキャラっスが、それは知らなかったっス。誰から聞いたんスか?」


「誰って、熊童子くまどうじからだぜ?」


「熊童子からっスか!? ……ああ、なるほど。あのバーは妖怪もかなり訪れるから、自ずと情報や噂が集まってくるんスね」


 一旦は驚愕するも、冷静に自己解決した酒天が納得すると、紅柘榴は「そうそう」と相槌を打ち、腰に手を当てる。


「私も一端の『情報屋』だからな。情報収集も兼ねて行ってんのさ。酒がある場所に、新鮮な情報ありってな」


「はあ〜……。紅柘榴の本職って、情報屋だったんスか……。だから莱鈴さんの名前が、唐突に出てきたんスね」


「ああ。互いに手の届かない情報を売り買いしたり、共有し合ったりしてんのさ。私の店は現世にあるから、知りたかったら後で場所を教えてやるよ」


「おっ、ありがたいっス。手が空いた時にでも覗きに行ってみるっスね」


 己の素性を明かした紅柘榴が話を終えると、タイミングを見計らっていた花梨が、「すみません、八百比丘尼ってなんですか?」と疑問を放つ。


「ん? 八百比丘尼っていうのはだなあ。人魚の肉を食って、長寿を手に入れた女子修行者……、またの呼び名を比丘尼びくに。八百歳まで若い見た目を保ったまま生きてたもんだから、それらを合わせて八百比丘尼と呼ばれてんのさ」


「八百歳……、すごいなぁ。途方にもなく長いや。やっぱり人魚の肉を食べると、不老不死みたいな体になっちゃうんですね」


「だな。それと、人魚の肉を食うと人魚になる〜みたいな言い伝えもあっから、不老不死というよりも、体の内側だけ人魚になったとも言えるな」


「はえ〜……、色んな話があるんですね。と言う事は人魚さんの寿命も、そんなに長いんだなぁ」


 話が進めば進むほど枝分かれしていく情報に、花梨はだんだんと興味や好奇心が芽生えていき、同時に妖怪の事についても気になり出していく。

 興味と好奇心が膨らみ続け、他の事についても知りたくなってくると、花梨は「紅柘榴さん!」と弾んだ口調で呼び掛け、瞳をワンパク気味に輝かせた。


「お? 急に改まってきたな、どうしたよ?」


「八百比丘尼や人魚さんの事もそうなんですが、他にも面白い言い伝えや妖怪さんの事について、教えてくれませんか?」


 花梨の質問に胸が躍ったのか、はたまた情報屋の血が騒いだのか。紅柘榴の右眉が陽気に跳ね上がる。


「ほ〜う。いいのかあ、情報屋の俺にそんな事を聞いて? 俺の話は長くなるぜ?」


「はい、是非とも教えて下さい!」


「あっはははは。趣旨が完全に変わっちゃったっスねえ」


「面白そうだから、私も聞こうかしら」


 なんとか話をすり替える事に成功した酒天が、安堵の表情を浮かべながらから笑いし。

 今後もお菓子作りを学べる確約を得られた翡翠も、普段より賑やかな現状を楽しみ、四人分の飲み物を用意するべく、キッチンに向かっていく。

 そして、今度は教わる立場に回った花梨と、妖怪の講師と化した紅柘榴は、自分が作ったクッキーを振る舞いつつ、嬉々と語り明かしていった。

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