★73話-8、敵は中に蠢く者のみ

 誰にも聞こえないように技名を呟き、テングノウチワを素早く二度振る。その軌跡から現れたのは、光をも飲み込まんとするほど闇が濃い、扇状の形をした二枚の風。

 飛ぶ速度は速く、障害物が無い空中を悠々と不気味に飛び、一直線に氷塊へ向かっていく。


 誰も声を発さず、二枚の黒風くろかぜを見守っている中。透明度の高い氷塊に、黒風が溶け込むように着弾。

 直後。黒風が爆発的な速度で氷塊の周りを覆い出し、三度まばたきをした頃には、目に見える範囲の氷塊は全てうごめく黒に染まっていて、夜空の闇と同化していた。


「嘘……? 私の氷塊が、あっという間に、飲み込まれちゃった……?」


 先のクロの警告を破り、頭の中で思った事を、そのまま口から漏らす雹華ひょうか


「黒風。当たる物は全て霧状以下まで切り刻み、かつ無限に増殖を繰り返す風だ。たとえそれが、人だろうが水だろうが大地だろうが魂だろうが、神だろうとも関係ない」


 気だるそうに黒風の説明を挟んだクロが、蠢く夜空を仰ぎつつ話を続ける。


「黒風は物に当たった瞬間、五百枚以上の新しい黒風を生み出す。で、その新しい黒風も五百枚。更に新しい黒風も五百枚と、気持ち悪い速度で増殖していく。もうあれは氷塊じゃない。中身も全て黒風になっていて、後はひたすら巨大化していくブラックホールみたいなもんだ」


 黒風の効果を語るも、あれだけ見たがっていた雹華は、徐々に巨大化していく闇の塊を凝視していて、音を立たせながら固唾を飲み込んでいた。

 それは、念願ともいえる黒風を拝めたからではなく、こちらに向かって飛んで来ないかを恐れ、目が離せないからであった。


「あれは防御しようとも、結界を張ろうとも意味を成さない。いとも容易く食らい破る。当たった時点でそいつは終わりだ。魂ごと切り刻まれるから、死んでからも悲惨な運命を辿る事になる。もしくは、この世を一生彷徨う霧になるかもな」


 淡々とした口調で説明を続けるクロは、育ちゆく黒風をただ眺めているばかり。


「ちなみに黒風は、私が解除しない限り、未来永劫増殖し続ける。だから隠世かくりよを食らい尽くした後は現世うつしよへ。そこから全世界に広がり、遅かれ早かれ地球は消滅するだろうよ。あくまで予想だがな」


 黒風の効果と威力、来たる世界の終末を語り終えると、クロは「でだ」と付け加え、黒風と化した氷塊を見据えている雹華に、純粋な殺意を含んだ真紅の瞳をやった。


「そんな、世界を滅亡させかねない黒風を出させたお前の罪は、あまりにも重いぞ」


「えっ……?」


 体も向けたクロは、腕を組みながら降下を始め、まるで感情を全て捨て去ったような瞳で、雹華を見下す。


「お前は単なるわがままと好奇心で、私が絶対にやりたくない事をやらせたんだ。それ相応の覚悟は出来てるんだろうな?」


「お、おい……、クロ?」


 様子が明らかにおかしいクロに対し、見かねたぬえが黒煙の空間を解きつつ、クロの名前を呼ぶ。

 しかしクロは、地面に降りてからも鵺の問い掛けを無視し、黒風とは別の恐怖に怯えている雹華の元へと歩き出す。


「私は、黒風を出したくないと何度も言ったよな?」


「あうっ……」


「それなのにお前は、この温泉街を人質に取り。かえでを呼ぼうとしても脅し。私の弱みを握って黒風を出させやがったよな?」


「あ、いやっ……、その……」


 距離を詰めてくるクロの顔は、背後に佇む青白い光を放っている満月のせいで、逆光が起きていて見えにくいものの。

 発光した真紅の瞳だけがハッキリと見えており、雹華が感じている底無しの恐怖を後押しし、身震いさせている体を更に震え立たせていく。


「それにお前は、ぬらりひょん様と花梨をも殺そうとしたよな?」


「そ、それは……」


「ぬらりひょん様は、私をクソッタレな父と母から引き離してくれて、この温泉街に保護してくれた偉大な恩人なんだ」


 先の巨大な尖り矢で、鵺と共に永秋えいしゅうごと消し飛ばそうとした場面を蒸し返し、歩みを進めるクロ。雹華との距離、残り十メートル。


「花梨は、私が十七年間愛情を込めて育ててきた愛娘だ。お前じゃないが・・・・・・・、雹華はよく知ってんだろ?」


 最早、未曽有の恐怖でクロの語りが聞き取れず、滲んできた涙で視界がボヤけ、パニックを起こし始めている雹華。その雹華との距離、残り五メートル。


「その愛する二人を殺すと言い。あまつさえ、紅葉もみじ鷹瑛たかあきの夢が沢山詰まったこの温泉街を、潰すとかも言ったよな?」


「いや……、やだ……。こ、来ないで……」


 雹華が掠れ切った声を絞り出すも、クロは歩みを一切止める事無く、とうとう雹華の目の前に立つ。


「お前、ふざけるのも大概にしとけよ?」


「ヒィッ……!?」


 戦意を完全に喪失し、今まで体験した事の無い恐怖に蝕まれた頭では、この場から逃げ出すという考えすら浮かばず、ただ涙を流す事しか出来ない雹華。

 金縛りにでもなったかのように体が動かせず、クロと合わせている視線を逸らしたいのにも逸らせず、死んだ方がマシと思えるほどの恐怖を募らせていく。


「あ、ああっ……」


「全てを終わらせよう。何か言い残したい事はあるか?」


「おい、それ以上はやめろ」


 今のクロでは、雹華を確実に殺すと懸念した鵺が、クロの右肩を鷲掴み、骨を折る勢いで力を込める。

 そこでやっと第三者の存在に気付いたクロが、死神を宿す真紅の瞳を鵺へ移した。


「なんだ? こいつの味方をするのか?」


 普段のクロの面影は微塵も無く、全てを見境なく切り刻まんとする凍てついた眼光に、鵺は一瞬怯むも表情には出さず、クロを睨みつける。


「てめえ、雹華を殺すつもりでいんだろ? 流石にそれはやらせねえぞ?」


「時間が無いんだ、邪魔をしないでくれ」


「あ?」


 まるで話を聞こうとしないクロが、肩を鷲掴んでいる手を強引に払い、鵺の体をトンッと押す。

 やや距離が離れた瞬間を見計らい。クロはテングノウチワを下から上に振り抜き、左右の彼方まで続く行く手を阻む風の壁を出現させ、鵺を隔離させた。


「あっ! てっめえ! 今すぐこの風を消しやがれェ!!」


「その風に触るのはやめておけ。触れた箇所が雑に削れるから、見るも無残な状態になるぞ」


 クロの警告に、鵺は風の壁に焦点を合わせてみる。よく見てみると、幾重にも連なった細かい鉤爪状の風が、下から上に向かって流れていた。

 触れた途端、その鉤爪に身を裂かれるか。そのまま引っ掛かり、壁に全身を持っていかれながら引き裂かれる二択の未来を想像すると、為す術もなく怒りが浸透し、全ての歯が砕けんばかりに噛み締める。


「クッソ……! 雹華ァ! どこでもいい! 今すぐ逃げろ!」


「……やだ。誰か、助け、て……」


 鵺が大声で促すも、恐怖で思考が完全に停止し、足がすくんで歩く事すらままならないでいる雹華は、ガタガタと震えているだけで、その場に立ち尽くしたまま。

 鵺がこちら側に来る素振りを見せず、壁にも触りそうにない事を確認したクロは、体を背後に居る雹華へと戻す。


「で、何か言い残したい事はあるか?」


「いや……、いやぁ……」


 クロの先が無い問い掛けに、雹華はただ泣きじゃくるだけで、命乞いはおろか、逃げ出す素振りさえ見せない。

 まともな言葉を返せず、無抵抗で攻撃する意思も無い雹華に、クロは真紅の瞳を右へ逃がした後、雹華にやった。


「じゃあ、私に何か言う事はないか?」


「……あ、あなた、に?」


「そうだ、たった一言でいい。それを言えば、今すぐ楽にしてやる」


「雹華! さっさと逃げろっつってんだろうがあ!!」


 死を待ち呆ける雹華に、鵺は吠えながら圧縮した黒煙を風の壁に放つも、当たった箇所から荒く削れて上へ流れていく。

 全身を暴力的な殺意に締め付けられている最中。最適解であろう一言を頭に思い浮かべ、涙で表情をくしゃくしゃにさせている雹華が、震えた唇を動かし出した。


「……ご、ごめん、なさい」


「なんだ? 聞こえないぞ。ハッキリ言え」


「ご、ごめんなさい! もう、二度としません……! 許して、下さい……!」


 雹華の思い浮かべた一言。それは、何の変哲もないただの謝罪。当然、許されるとは毛頭思っていない。むしろ、死は逃れられない運命だとさえ悟っている。

 頭を下げてもらえなかったものの。満月の光に侵された者から謝罪を受け取れたクロは、そこで一度瞳を閉じる。

 少しの間を置いて開けると、真紅色に染まっていた瞳は黒色に戻っており、二人に気付かれぬようため息を吐き、テングノウチワを下に構えた。


「二度としませんじゃない、二度と私達の前に現れるな」


「クロッ! やめろぉぉぉおおッッ!!」


「……あばよ」


 鵺の絶叫に、風の壁が大きく歪むも、背中を殴る声にクロはお構い無しに、テングノウチワを上に向けて振り抜く。

 その軌跡から現れるは、雹華の全身をふわりと包み込み、決して抗えない眠りへと誘う、淡い桃色の風。

 春の陽気を思わせる穏やかな温かさを肌で感じ、優しい花の香りを吸い込んだ雹華は、目をトロンとさせ、後ろに倒れ込んだ。

 するとクロは、すかさず雹華の背後へ回り込み、右手で背中を受け止めると、左手を膝に添え、慣れない手つきで横抱きをした。


「……く、クロ?」


 クロの予想すらしていなかった一連の行動に、理解が追いついていない鵺が、抜けた声で問い掛ける。

 その問い掛けに呼応するかのように、目の前を遮っていた風の壁が、霧散するように消えていく。

 上へ流れていく鵺の声を聞き、りんとした表情に戻っているクロが、振り向き様に「なんだ?」と、あっけらかんと言った。


「あれ……? あ、いや……。今、雹華にぶつけた風って、黒春くろはる、だよな?」


「そうだ」


「……じゃあお前、雹華を殺すつもりは、元々なかったのか?」


 鵺が恐る恐る質問すると、クロは肩を落としつつ鼻からため息を漏らす。


「当たり前だろ、雹華は私の親友だ。私が殺そうとしてたのは、雹華の中に蠢いてた奴だけさ」


「ああ、なるほどねえ。……んだよそりゃあ~」


 そこで緊張の糸が切れてしまったのか。鵺は腑抜けた表情をしながら膝から崩れ落ち、地面に尻をつけ、疲れ切った顔を夜空へ向ける。

 目線の先には、黒風が未だに増殖しているかと思いきや。クロはいつの間にか黒風も解除していたようで。

 夜空を覆い尽くしていた氷塊と共に消え去っており、代わりに青白い光を放ち続けている、全ての元凶である満月が浮かんでいた。


「……ったくよぉ。雹華を殺すつもりがなかったんなら、最初からそう言ってくれよなあ」


 夜空にボヤきを入れた鵺が、懐からタバコを取り出す。


「すまん。あの時は本気で怒ってたから、合図を送る余裕すらなかったんだ」


「ああ、やっぱり途中からマジで切れてたのか。……マジ切れした時のお前、ありえねえほど怖かったわ。二度と見たかねえぜ」


 さり気なく本音を漏らした鵺に、クロは凛とした苦笑いを浮かべ、タバコの煙が漂う夜空に顔を向ける。


「もう怒らないさ。これ以上の事がない限りな」


「そうか、それを聞けて安心したわ。もう流石にねえだろ、これ以上の事なんてよ」


「あってたまるか。仲間や親友と戦うのは、もう二度とゴメンだ」


「……だなあ」


 今回の敵は、仲間であり親友。攻撃はおろか、傷つける事すら許されない状況での戦闘に、本来の戦い方を出来なかった二人は、揃って満月に蔑みを含んだ細目を送る。

 しばらくすると、雹華が意識を失ったせいか。温泉街を覆っていた分厚い氷が溶け始め、流れる前に気化し出し、白い煙となって消えていく。

 そして残ったのは、大通りで倒れている数多の妖怪達と、満月が出ている夜にはあまりにも似つかない、平和な静寂だけであった。

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