★73話-7、決して怒らせてはいけない者
「おい、
無垢な微笑を浮かべた雹華の言葉を、確かに聞いたものの。頭が理解してくれず、唖然として眉をひそめたクロが再度問う。
「聞こえなかったのかしら? なら、何度でも言ってあげるわ。この温泉街を、跡形も無く潰してやるって言ったのよ」
同じ表情で、かつ同じ口調でハッキリと宣言されてしまい、翼の先まで凍りかねない悪寒に襲われるクロ。
先の攻撃で、
「お前はこの温泉街を、
「二人の名前を出せば、私を説得できると思ったの? もう遅いわ、空をごらんなさい」
既に何かを仕掛け始めていたようで。クロは左目で雹華に気を配りつつ、夜空を仰いだ瞬間。目に入った絶望的な光景に、放心させた口を小さく開けた。
「なんだよ、これ……?」
掠れ切った声を漏らしたクロの視界先、目に入る範囲の夜空を全て覆い尽くしている、途方にもなくあまりに巨大な氷塊。
温泉街はもちろんの事、右側は秋国山まで。左側はススキ畑まで届く程の大きさで、所々から自壊が起こっており、細かな氷を地面に点々と降らせている。
「どう? とても素敵な景色でしょう? 今の私が出来る、最大の攻撃よ。これを温泉街に落としたら、一体どうなっちゃうかしらねえ」
結果は言うまでもなく、ここに居る妖怪達、建物や山すらも平等に全てを圧壊。
困惑し切った黒い瞳を泳がせ、思考を張り巡らせているクロは、このとんでもない質量だ……。風で適当に破壊したとしても、一つの欠片で温泉街が潰れかねない。と来たる未来を想像する。
更に、
雹華へ横目を送り、今のあいつは隙だらけだ。高速で近づいて
諦めかけている目を、黒煙が漂う空間にやると、雹華の言葉を聞いた時点で、また
「……雹華、今からでも考え直してくれないか? 黒風は、下手したら
「口でなら何とでも言えるわよ? まさか、全部嘘じゃないわよね?」
追い詰められたクロの心に突き刺さる、なんて事はない雹華の幼稚な挑発。その心に芽生えてくるは、全身の血液が沸騰しそうな、我を失いかねない怒り。
黒風を放たなければ、来たるは温泉街の圧壊。しかし使い方を間違えれば、自分が隠世と現世を滅ぼしかねない。
温泉街の圧壊か、隠世と現世の消滅か。天秤に掛けようとするも、あまりに馬鹿げた考えに、怒りを増幅させて頭の中にある天秤を破壊し、怒りで紅く染まった目を虚ろにさせていく。
かつて、殺そうと決めていた父と母にすら使うのを
その黒風を、まさかこんな状況で使わざるを得なくなり、己の筋違いな弱さに憤慨して、呼吸を荒く乱していく。
そして、耐え難い怒りをなんとか抑え込んでいるクロは、紅く発光した鋭い眼光を氷塊へ送った。
「参った、降参だ」
「あら、降参しちゃうの? それまでして黒風を―――」
「
心臓を鷲掴まれ、雑に切り刻まれそうな殺意と怒りにまみれたクロの返答に、雹華は全身をバラバラに裂かれたような錯覚を覚え、背筋をゾッとさせた。
今、空に居るのはクロではなく、突如として現れた決して怒らせてはいけない天敵。そんな雰囲気を肌で、全身で、頭で感じ取った雹華の血の気が引いていき、ただえさえ凍てついている体を更に凍てつかせていく。
短い返答で、冷や汗すら滲んでくる恐怖に捕らわれ、挑発した事に後悔の念すら覚えた雹華が、震えた唇を動かし出す。
「じ、じゃあ……、どういう意味、なの……?」
死ぬ思いで絞り出せて、なんとか発せた雹華の消えそうな問いに、クロは氷塊を見据えたまま話を続ける。
「黒風を出さざるを得ない状況になっちまったから、降参だって言ったんだ。二度と使わないと誓って封印した黒風をだぞ? 眩暈がするほど最悪な気分だ。こんな気分になるなんて、幼少期以来だよ」
なんとか平常心を保っているクロは、ここまでの経緯と原因を作った元凶である、透明度の高い氷塊越しに映る満月に怒りの矛先を変え、湧き上がる怒りを鎮めよう試みる。
しかし、あまりにも遅すぎたせいか。最早耐えるのが精一杯であり、クロはそこで震えが大きい深呼吸を始めた。
「ま、待て、早まるな! まだ何か打開策はあるハズだ!」
晴れない黒煙の空間から、姿が見えない鵺の説得が飛んでくるも、クロはそちら側に顔すら向けず、今にも落ちてきそうな氷塊を睨みつけたまま。
「打開策? なら、今すぐ教えてくれよ」
「い、今すぐ……?」
ただ説得するだけで、考えも無しにクロを止める為に言ってしまった鵺は、
が、数秒の間を置き、「……ある、あるぞクロ!」と希望の光が差し込んでくる、力強い一押しが聞こえてきた。
「
「楓……? ああ、確かに。あいつの神通力があれば―――」
「だ、ダメよ!」
絶望的な場を覆す事が出来る提案に、クロの瞳に活力が戻ろうとするも、慌てた雹華が割って入る。
「か、楓ちゃんが来たら、黒風を見れなくなっちゃうでしょ!? もし呼ぼうとする素振りを少しでも見せたら、今すぐ氷塊を落とすわよ!?」
最早、単なるタチの悪い興味本位なわがままで脅す雹華。
その稚拙が極まった理由で、温泉街を滅ぼそうとしている駄々を耳にしてしまったクロは、プツンという糸が切れたような短い音を、耳ではなく、頭の中で聞き取った。
それとほぼ同時、虚ろに輝いていたクロの紅い瞳から、光がすうっと失われていき、妖しく細まっていく。
「雹華。いや、そこに居る
「なによ!?」
「もう、何も喋るな」
「うっ……」
クロが言い放った、不可視で暴力的な殺意の刃に体を切り刻まれ、二度目の錯覚的な死を迎える雹華。
肺と喉が潰れそうなクロの怒り。少しでも体を動かそうもならば、それすら逆鱗に触れかねない殺意。
そしてその怒りと殺意は、クロの先にある氷塊を歪ませる程の密度で、これ以上の挑発や質問は本当の死に直結する悟った雹華は、反射的に口を固く噤んだ。
乱れた呼吸を押し殺し、耐え難い緊張感のせいで暴れる鼓動を、なんとかして抑え込もうとしている中。
この場を怒りと殺意だけで掌握したクロが、「それと」と付け加え、発光している真紅の瞳を雹華へ向けた。
「もう、私を本名で呼ぶな。今まで聞き流してきたが、次は耐えられそうにない。分かったな?」
指示や命令というよりも、次は無い最初で最後の警告。その確たる死を与えかねない警告に、雹華は涙目になりながら身震いし、ぎこちなく何度も首を縦に振った。
雹華の命乞い染みた無言の了承に、クロは黙ったまま真紅の瞳を氷塊へ戻し、テングノウチワを握っているのかすらあやふやな手を背後へ振りかぶり、氷塊に狙いを定める。
「……黒風」
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