71話-9、改めて気付かされた己の立場(閑話)

 切なる二度目のわがままで娘となった花梨が、母親になったクロの温かな胸元で、約二十四年分の涙を流して泣き明かした、午前二時前。

 泣き続けたせいで瞳を赤くさせている花梨が、別れを惜しまず扉の前まで歩いて行くと、クルリと振り返り、クロに無邪気な笑顔を見せた。


「お母さん、今日は本当にありがとう!」


「ああ。お前、今日は仕事をして疲れてるだろ? さっさと寝ろ」


「うん! またここに来る時は、こっそりメールをするね」


 花梨がそう言うも、クロは全てを見透かしているような表情を浮かべ、腕を組む。


「どうせ、毎日来るつもりでいるだろ?」


「それは流石に悪いから、週六ぐらいで我慢するよ」


「ほとんど変わんねえじゃねえか」


 クロがおどけた笑いを飛ばすと、やや本気の冗談を交えた花梨も微笑み返し、ドアノブに手を掛ける。


「それじゃあ、おやすみなさい。お母さんっ」


「ああ。おやすみ、花梨」


 手を振っている花梨が部屋を後にすると、クロはすぐさま忍び足で扉に向かっていく。

 そのまま扉に耳を当て、遠くで扉が閉まった音を確認すると、部屋の中央へ戻り、テーブルの前に腰を下ろした。


「……そうか。私はこの姿のままで、花梨の母親になっちまったのか」


 先ほどの出来事を思い返すように、天井に向かって独り言を呟くと、途端にクロの顔が情けない程までに緩み、テーブルに突っ伏していく。


「花梨に、ああ言われちゃあ仕方ないよなあ~。ったく~、あいつもちゃんとわがままを言えるじゃねえかあ~」


 一人で居るせいか。感情の抑制が効かなくなり、近くにある座布団を思いっきり抱きしめた。


「大好きなクロさんだからこそ、お母さんになってほしいっ、てかあ~? なんだよもう~、可愛いなあいつは~。うへへへへへへ……」


 抱きしめていた座布団に熱い頬ずりをすると、デレデレとしている表情のまま、小型の冷蔵庫に手を伸ばす。


「ダメだ。嬉しすぎて寝れんぞ、今日は。ここは祝い酒でも―――」


「クゥ~ロォ~……!」


 意識が甘い桃源郷を彷徨っている最中。入口から唐突に床を這う殺意のこもった声が聞こえてきて、クロがふと我に返る。

 眉をひそめたクロが扉に顔を向けると、そこには奥歯を思い切り食いしばり、ドス黒い髑髏柄のオーラを全身に纏い、血の涙を流しているぬらりひょんが扉の前に立っていた。


「ぬおわっ!? ぬ、ぬらりひょん様!?」


 その、悪鬼羅刹を彷彿とさせるぬらりひょんの姿を認め、クロは驚愕して全身に大きな波を立たせる。

 クロが怯んだ隙に、ぬらりひょんは瞬時にクロとの間合いを詰め、胸ぐらを鷲掴み、底無しの怒りでつり上がっている鋭い眼光で捉えた。


「貴様ァ~! このワシを差し置いて、花梨の母親になりおってぇ~……!」


「へっ?」


「ワシだってなぁ……、ワシだってなぁッ! 威厳を保つ為に、花梨におじいちゃんと呼ばれたいのを我慢してるというのに! なのに貴様はァ! 羨ましいにも程があるぞ!! ああッ!?」


「あっ、あ~……」


 目前に迫る悪鬼羅刹が、我を失うほど怒り狂っている理由が分かると、クロはバツが悪そうにしている目を逸らし、頬をポリポリと掻く。


「あれは~、その~……。なんと言いますか……、ねえ?」


 盗み聞ぎでもされていたのか。弁解も出来ずにいると、ぬらりひょんは「けっ!」と捨て台詞を吐き、胸ぐらから手を離す。


「やっと千里眼を習得出来たから、試しに花梨の寝顔でも拝もうとしていたらどこにもおらず、必死に探していたら……。おのれ、ワシがやりたい事を全てやりおってからに!」


「せ、千里眼で覗いてたんですね……」


「そうだ! ったく!」


 何を言おうとも不機嫌でいるぬらりひょんに、クロは臆しながら言葉を返す事しか出来ず、なけなしの苦笑いをする。

 しかし今、現状を全て把握されているのは逆に好機だと早まってしまい、クロは後先を考えぬまま口を開いた。


「す、すみません、ぬらりひょん様。こんな状況で申し訳ないのですが、私からも一つだけ、お願いがありまして……」


「ああ~っ? よくもまあ、そんな事が言えたもんだなあ。言ってみろ!」


 ぬらりひょんのガサツな対応に、クロは、まずい、タイミングを完全に誤った……。と、予想出来ていた後悔の念に駆られつつ、話を続ける。


「その~なんですが……。一ヶ月間、いや! 一週間でもいいので、私と花梨の休みを被らせていただけないでしょうか……?」


「なんでだ!?」


 思わず仰け反るほど凄まじい威圧感がある返答に、クロは再び体に波を立たせ、やり場に困っている目を泳がせていく。


「か、花梨の母親になったからには、あいつともっと長く接してやって、母親の愛情を与えてやりたいと思いまして……。無理でしたら、素直に諦めます……」


 震え切っているクロの願いに対し、ぬらりひょんはわざと不快感の強い舌打ちを鳴らし、蔑んだ細目を送った。


「貴様ァ。長年ワシの傍に居たのにも関わらず、未だに己の立場を理解していないようだな? いい機会だ。貴様が頭で理解するまで、ワシが言い聞かせてやる」


 願いを根本から否定するようなぬらりひょんの言葉に、クロは、ああ、こりゃダメだな……。すまん、花梨。と、話が始まる前に全てを諦め、こうべを垂らしていく。


「その前に、ワシが出す質問に全て答えろ」


 ぬらりひょんの問い掛けに、クロは頭を上げて「質問、ですか?」と抜けた声で返す。


「そうだ。過去、家族の復讐に囚われていた貴様を保護し、温泉街で自由気ままに暮らさせようとしていたのに。貴様は唐突に、永秋えいしゅうの女将がやりたいと言い出したよな? あれはなんでだ?」


「あれはっ、その、ですね……」


「下手な嘘はつくなよ? 正直に答えろ」


 はぐらかそうとする前に釘を刺され、八方塞がりとなったクロは、短いため息をつき、肩を落とす。


「あの時、紅葉もみじを永秋の女将にさせようという案が出たじゃないですか? それで、紅葉と一緒に仕事がしたくて、私も名乗り出ました」


「なんで紅葉と一緒に仕事がしたかったんだ?」


「それは単純に、紅葉の事が好きだったからです。紅葉は私にロクでもないあだ名をくれて、クソッタレな本名から私を救ってくれました。私は紅葉の事を、勝手に恩人だと思ってます。だから、そんな大好きな恩人と共に仕事が出来たら、絶対に楽しいだろうな、と……」


 神妙な面立ちでクロが質問に答えると、ぬらりひょんは一旦袖からキセルを取り出すも、詰めタバコを入れずにしまい込んだ。


「やはりな、そうだと思ったわ。でだ、酷な事を言うが、その紅葉は、女将をする前にこの世を去ってしまった。紅葉が居ない永秋で女将をするのは、非常につまらんだろう?」


「そ、そんな事ないです! 私は永秋の女将を、誇りを持ってやってます! 仲間達と分け隔てなく仕事が出来てますし、色んな客と出会えて、毎日楽しく過ごせてますよ!」


「本音はどうなんだ?」


 顔色一つ変えず、ぬらりひょんが淡々と質問を続けると、クロは唇を固く噤み、目線を床に落としていった。


「……本音は、今言った通りです。嘘は一切ついてません。ですが今日、花梨の母親になったので、少しだけ、仕事を休んでみたいという気持ちが、湧いてきました……」


「そうか」


 あっけらかんと言ったぬらりひょんが、体を正面にやり、半目でクロの顔を捉える。


「それを全て踏まえた上で、貴様の立場を分からせてやる」


「……はい、お願いします」


「いいか、クロよ。お前さん・・・・は、自由の身だ」


「……えっ?」


 まるで予想外なぬらりひょんの言葉に、クロは下げていた目線をぬらりひょんへ戻す。


「花梨と休みを被せてほしい? 仕事を休みたい? なら、そうすればいいだろう。ワシの顔色なんか一切うかがうな。お前さんは、自分がやりたいようにやればいい」


「……あ、あの」


「ワシは、お前さんの意見を一番に尊重するし、必ず叶えてやる。休みたい時に休み。遊びたい時に遊び。仕事をしたい時にすればいいさ」


 先ほどとは打って変わり、ぬらりひょんの慈愛を帯びた語りに、クロの涙腺がだんだんと緩み、黒い瞳に涙が滲んでいく。


「……いいん、ですか?」


 未だに信じられないでいるクロの震えた問い掛けに、ぬらりひょんはしっかりとうなずいた。


「お前さんが己の立場を理解するまで、何度でも言ってやる。お前さんは、自由の身だ。花梨と休みを被せてほしい? なら、ずっとそうしてやる。休みが欲しいのであれば、いくらでもくれてやろう。だから、なんの気兼ねもなくワシに言ってこい」


 強張った心に強く響く温かみが深い言葉と、全てを許容するようなぬらりひょんの微笑みに、今にも溢れ出しそうな涙のせいで、クロの瞳が歪んでいく。


「……そう、だったんだ。私って、そんな立場にいたんだ……」


「そうだ。お前さんは真面目過ぎるし、一つの事に囚われがちだぞ? 何の為にお前さんを、家族から引き離してやったと思っとるんだ。その漆黒の翼は飾りじゃないだろ? 自由気ままに羽ばたいてこい」


 分からないでいた己の立場を完全に理解すると、クロは限界まで溜まっている涙を堪えるべく、顔中に力を込め、瞳を閉じる。

 しかし量があまりにも多かったせいで、両目から涙がぼろぼろと零れ落ちていき、頬を伝って畳の上に落ちていった。


「涙は似合わないと豪語していたお前さんが、そんなに泣くとはな。珍しいじゃないか」


「……仕方ないじゃないですか。ぬらりひょん様に、私のお願いを拒絶されるとばかり、思ってましたから……。だけども、改めて私の立場を教えてくれて……。あんな嬉しい事まで言われたら、流石に私だって、我慢出来ませんよ……」


 クロが大粒の涙を流しながら本音を言い、止めどなく流れる涙を何度もぬぐうも、次々に溢れ出していく。


「すまんすまん、つい羨ましくなってしまっての。我を失っとったわ。最後に泣いたのは、紅葉にあだ名を貰った時だったか?」


「……そうですね」


 弱々しくか細い声で返し、とうとう目元を手で覆い隠して泣き出すクロ。暫くしてやや落ちついてくると、クロは手の甲で涙を拭い取り、鼻を大きくすすった。


「久しぶりに大泣きしたら、色々とスッキリしました。本当にありがとうございます、ぬらりひょん様」


「ふっ。相変わらず強い奴だな、お前さんは。それじゃあこれからは世話役ではなく、母親として花梨の事を頼んだぞ。クロよ」


「はいっ、任せて下さい!」


 ぬらりひょんから新たなる使命を受け取ると、クロはりんとしながらも、母性がる柔らかな笑みを浮かべた。











―――――仕事後の花梨の日記



 今日はここ最近で、特に内容が濃い一日だったや。


 早朝から度肝を抜かされたよね。だってさ、私がクロさんの代わりに、永秋の女将をやる事になったんだもん。

 更にそこからも驚きの連続だったよ。ゴーニャはいつの間にか身長が伸び始めてるし、突然クロさんの弟子にされたし。

 クロさんの仲間である女天狗さん達は、私達を強者だと認定して、こぞって怖がってくるし……。


 なんでも、新しく仕事仲間となった八葉やつはさんいわく、相手を桁外れに強い人だと認識していまうと、反射的におののいてしまうんだって。

 これは天狗の里で過ごしてきた名残とか言っていたけど、天狗の里って、いったいどんな所なんだろう? たぶん、相当怖い所なんだろうなぁ……。


 それ故に、女天狗のおさであるクロさんは、新人さんと顔合わせをすると、怖がられて必ず泣かれてしまうんだって……。

 クロさんが怖いっていう印象は、まったくないんだけどなぁ。女天狗さんにしか分からない事情とか、何かとんでないオーラとかを感じ取っているんだろうか?


 そして、クロさんの背中を見ながらドタバタとした午前中を過ぎれば。午後からは私がクロさんの代わりをして、永秋の女将として受付をする事になったんだ。

 ゴーニャは私のサポートを。八葉さんには、元気活発な夜斬やぎりさんがサポートに入り、いざ仕事の再開だ。


 これまで色んな妖怪さん達に出会ってきたけども、受付に立って女将をしてみたら、更に色んな妖怪さん達と接する事が出来たよ。

 初めてのお客様である山姥やまんばさん。身体中に目が付いている百々目鬼どどめきさん。その後にも、からかさ小僧さん。濡女さん。

 前に『着物レンタルろくろ』で着物の着付けを手伝った、二口女さん。他にも沢山の妖怪さん達とお話が出来て、すごく楽しかったや!


 そう言えばクロさんってば、お客様からもすごい人気があるんだ。大半のお客様達が、クロさん宛にお菓子や食べ物の差し入れをしてきたんだ。

 そのせいもあって、夜にもなれば受付内の奥には梱包の山が出来てて、棚にある袋が一部取れなくなっちゃったんだよね。あれはかなりビックリしたよ。


 それで仕事が終わったら、ここからが私にとって本番の時間だ。クロさんとも約束が出来たし、夜中の一時になったら、クロさんの部屋に行ってこよう。

 大きな願いを込めた、私の最初で最後のわがままだ。クロさんは私のわがままを、聞いてくれるだろうか?

 かなり緊張してきちゃったけど、しっかりと言うぞ。



 ここからは追記!



 大好きなクロさんが、私のお母さんになってくれた!! 嬉しい! 本当に嬉しいや! 私とクロさんが二人で居る時だけだけども、それでもすごく嬉しい!!

 これからはお母さんに、いっぱい甘えてやるんだ。最初はすごく恥ずかしかったけど、もっともっとお母さんに抱き締められて、頭をずっと撫でられたいや。


 ゴーニャは、ずっとこんな幸せな気持ちでいたんだなぁ。ならばこれからはもっと、ゴーニャを抱きしめてあげて、頭を撫でてあげないとね。

 ずっと出来るかと思っていたけど、ゴーニャだってその内身長が伸びていって、いつかは大人になっちゃうんだ。今の内にいっぱい甘えさせてあげよっと。


 こんな私にも、お母さんになってくれる人がいた。かえでさんの言う通りだったや。勇気を振り絞って言って、本当によかった。


 お母さんには週六で部屋に行くとか言っちゃったけど、本当は毎日行きたいんだよね。ふふっ、黙って行っちゃおうかな~。

 でもやっぱり、お母さんだって大変な仕事を毎日しているから、休憩をしたいと思ってるはずだ。極力我慢しないと。


 大好きなクロさんが、私のお母さんか。嬉しいなぁ、本当に嬉しいや。早く明日の夜にならないかな。すっごく楽しみだし、待ち切れないや!

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