71話-8、もう一夜限りのわがままを

 花梨と公の場で密談を交わした、約束の深夜一時前。


 食事、風呂、明日の準備を全て済ませた女天狗のクロは、自室にある扉を見据え、花梨が来るのを静かに待っていた。

 扉を見ていた目を掛け時計に滑らせ、現在の時刻を確認してみる。約束の時間まで残り一分を切っており、無意識の内に心と体がソワソワとし出す。


 そして、深夜一時ちょうど。視線を扉へ戻したと同時に、小さなノック音が数回鳴った。

 その微かな音を聞き逃さなかったクロは、すぐさま「開いてるぞ、入って来い」と言い、ノックした人物を部屋へと誘う。

 すると扉がひとりでに開き、パジャマ姿の花梨が「失礼しまーす」と、小声で呟きながら入り込んできた。

 疲れを見せないでいる花梨が扉を閉めると、クロの前まで歩いて来て、その場に正座をする。


「お疲れ様です、クロさん」


 花梨が元気に満ちている笑みを送ると、クロもほがらかな表情になり、口角を緩く上げた。


「よう、お疲れ。一時キッカリに来たな」


「はい。少し早くベッドから抜け出してきちゃったので、時間が来るまで扉の前で待機してました」


 そう明かして苦笑いした花梨が、指で頬をポリポリと掻く。釣られてクロも苦笑いすると、呆れ気味に腕を組んだ。


「相変わらず律儀だな、お前は。それで、ここに来た理由はあれか? 朝言ってたやつでか?」


 朝からずっと気になっていたのか。クロが予想を付けて口にすると、花梨は苦笑いを崩し、緊張を含んだ真面目な表情に変わった。


「はい、そうです。一つわがままに近いお願いがありまして、ここに来ました」


「お願い? なんだ? 言ってみろ」


 嫌な顔を一つせずクロが催促すると、花梨は何かを言う為に口を開くも躊躇ためらってしまい、何も言わずにこうべを垂らしていく。

 しかし覚悟を決めたのか。決心がついた眼差しをクロに戻し、太ももに置いていた手を握り締めた。


「クロさん。もう一夜だけ、私のお母さんになってくれませんか?」


「むっ……」


 まるで想定外なお願いに、クロは思わず言葉に詰まり、眉間に小さなシワを寄せる。

 その予期せぬクロの反応に対し、花梨は否定されたと思って表情を曇らせ、オレンジ色の瞳が潤んでいった。


「やっぱり、ダメ、ですかね……?」


 絶望すら頭に過る花梨のか細い声に、呆気に取られていたクロがハッとする。


「あっ、いや! どうしたんだ急に? ……はっはーん、なるほど? さては、露天風呂で味を占めたな?」


 場の淀み始めた空気と、花梨の機嫌を直すべく。クロはわざとらしく悪どい笑みを浮かべ、冗談を交えて言う。

 不安をまるごと払拭するような返しに、花梨は心の底から安心感を得られたようで、ほっと息を漏らした。


「その~、二日前にみやびの部屋に泊まったんですが……。お母さんであるかえでさんと仲良くしている光景を見て、我慢が出来なくなっちゃいまして」


 普段通りの様子に戻った花梨が、後頭部に手を当てながら理由を明かすと、今度は不安を与えないよう、クロは即座に「なるほどねえ」と返す。


 そのまま心の中で、そうか。今まで叶わなかった事を、私は叶えちまったんだ。一度味わったから、我慢してた事も出来なくなったって訳か。と、一夜限りで母親になった時の場面を思い返し、感傷に浸っていく。

 更に、となると、全ては私の責任だ。花梨のこの思い、しっかりと応えてやらなくちゃな。と考えを固め、花梨に温かみのある笑みを見せつけた。


「ったく、しょうがないな。もう一度だけだぞ?」


「ほ、本当ですかっ!?」


「ああ、本当さ。なってやるよ、お前の母親に」


「うわぁ~っ……! ありがとうございます! クロさん!」


 昨夜から切に願っていた夢が叶うと、花梨は屈託の無い満面の笑顔になり、少しだけクロとの距離を詰めていく。

 花梨の想像以上の喜びに、クロも嬉しい気持ちが込み上げてくるも、「よし」と切って話を続けた。


「やるからには徹底的にやるぞ」


「へっ? 徹底的に、ですか?」


「ああ、徹底的にだ。これから以後のルールを設ける。敬語は禁止。今から私の事をお母さんと呼べ。いいな?」


 突然ルールを設けてきたクロに、花梨は驚いて目が点になり、その点と化した目をぱちくりとさせる。


「えっ……? そ、そこまでやるんですか?」


「当たり前だろ? 今から私とお前は“血の繋がった家族”だ。母親と娘の関係だぞ? 家族に気遣いは一切無用。もっと気軽になり、喋り方も崩せ。分かったな? 花梨」


 “血の繋がった家族”。その言葉に花梨は心を強く打たれ、点になっていた目を大きく見開き、呼吸を震わせては飲み込んでいく。

 短い沈黙の後。花梨の表情が柔らかくなっていき、ふわっと無邪気に微笑んだ。


「分かったよ、お母さん・・・・。これでいい?」


「ああ、やれば出来るじゃないか。流石は私の娘だ」


 早速クロに褒められたせいで、花梨の無邪気な微笑みに明るさが増していく。が、すぐにその微笑みが消え失せ、強張ったものへと変わった。


「でさ、悪いんだけども……。このあとの事、まったく考えて、ないんだよね」


「はっ?」


 花梨の歯切れが悪い返しに、クロが素に近い言葉を発し、目を細める。気が引けている花梨は、顔の前に両手をパンッと合わせ、頭を深々と下げた。


「本当にごめんっ! 私にはおじいちゃんしかいなかったから、どう接すればいいのかも分からないんだ。お母さん、何か、ない……?」


「何かって、私に聞くのかよ……。う~ん……」


 物心がついた時から父と母がおらず、接し方すら分かっていない花梨の、欲が皆無な無い物ねだりに、母親となったクロが思考を張り巡らせていく。

 まずは架空の祖父を演じていた頃の記憶を掘り返し、花梨に与えられなかった物がないか、朧気な過去の記憶を探っていく。

 しかしいくら思い返そうとも、元々花梨には物欲すら無かった事を思い出し。次にクロは、形無き物に焦点を合わせていった。


 祖父を演じている時にも、あげられなかった物。形が無くともいつでも娘に与えられる、母親が持つべき物。

 考え抜いた末にクロは、たった一つの温かみが深い物を思いつくと、娘である花梨に顔をやり、両手を大きく広げた。


「よし花梨、来い。母親である私が、ありったけの愛情をくれてやる」


「愛情?」


「そうだ。思いっきり抱きしめてやるから、私の元まで来い」


「ええっ!? そ、それはいくらなんでも、恥ずかしいよぉ」


 まだ娘を演じ切れていないようで。花梨があたふたと恥じらいを見せると、母親になり切っているクロがクスリと笑う。


「おいおい。この部屋には、私とお前しかいないんだぞ? 羞恥心なんか捨てて、私に甘えてこい」


「うう~……。わ、分かったよ」


 身内にすら甘えた事が無かった花梨は、恥ずかし気に頬を赤らめつつ、立ち膝でクロの元へ近づいていくと、その身をクロの体に預けていく。

 花梨が恐る恐るクロの背中に両手を回すと、クロも同じく花梨の背中に両手を回し、体をガッチリと抱きしめた。


 そこから二人は一言も喋らず、黙ったまま身を寄り添い続ける。十秒ほどすると、クロを抱きしめていた花梨の力が、少しずつ加わっていった。


「……お母さんの体、とっても温かいや」


「それが、母親の愛情ってヤツさ。存分に噛み締めろよ」


 短いやり取りを終えると、クロは花梨の背中に回していた手を動かし、トン、トンと、等間隔で叩き始める。

 背中から感じる心地よい振動に、花梨の大人びた心がだんだんと童心に帰り、我慢のタガが外れていき、クロの肩に顔をうずめた。


「……お母さん」


「んっ、どうした?」


「頭、撫でて」


 花梨の甘い初めてのわがままにクロは、人知れず母性のある笑みを浮かべた後。背中に置いていた手を頭に移し、ゆっくりと撫で始める。

 すると途端に、花梨の全身がふるっと震えた。撫でる度に二度、三度と小刻みに震えると、花梨が「ふふっ」と声を漏らす。


「……そっか。ゴーニャはいつも、こんな気持ちになってたんだなぁ」


「ゴーニャ、ねえ。お前は今、どんな気持ちなんだ?」


「……なんて言えばいいんだろう? 初めて味わう気持ちだから上手く言えないけど、とにかく嬉しくて、幸せな気持ちでいっぱいになって、ずっとされたいって思っちゃって、もっと甘えたくなっちゃうような感じ、かな?」


「ふ~ん。なら、ずっとやっててやろうか?」


 クロのあまりに強い誘惑に、花梨は夢心地になっているとろけた横目を送る。


「お母さん、二時には寝るんでしょ? 流石にずっとは悪いよ」


「なら、そろそろやめるか?」


 意地悪そうに言ったクロがニヤリと笑うと、花梨は何も言わず、再びクロの肩に顔をうずめていく。


「……やだ、もっと撫でて」


「ははっ、そうか。私の事は気にすんな。お前が満足するまで、ずっとこうしててやるよ」


「……うん。ありがと、お母さん」


 いつまでも甘えたくて、追加のわがままで限りある時間が増えると、花梨はまどろみに落ちていく意識を必死に保ちつつ、延長された時間を堪能していった。


 心の芯まで温まるような、母親の温もり。体から漂ってくる、花梨も使用しているボディソープの薔薇の匂い。

 背中から感じる、心地よい等間隔の振動。頭から伝わってくる、娘を想う母親の体温。その全てから愛情と母性を感じ取り、全身で味わっていく花梨。

 至福のまどろみに酔いしれ、意識がだんだんと途切れ途切れになってきた頃。花梨を寝かさんとしたのか、クロがおもむろに語り出した。


「花梨、お前は本当に偉い奴だよ」


「……んっ」


「よく今まで欲を表に出さず、我を押し殺して我慢してきたな。だが、それはもうしなくていいんだぞ」


「……なんで?」


「それはな花梨。お前には、私が居るからだ」


「お母さんが?」


「そうだ。どんな些細でくだらないわがままでもいい。全部私が必ず受け止めてやる。だからお前は、全力で私に甘えてこい」


「……いいの? 怒らない?」


「怒るもんか。愛娘のわがままだぞ? それ聞いて叶えてやるのが、母親の務めってもんだ。違うか?」


「どうだろ、分かんないや」


「なら、分からせてやるよ。お前は二十四年間も我慢してきたんだ。溜めてもんを全部、私に吐き出しちまえ」


「……分かった。じゃあ、クロさん・・・・


 唐突に花梨が娘を演じるのを止めると、寄せていた体を離し、近い距離でクロの顔を見据える。

 その花梨の表情には一抹の不安がこもっており、オレンジ色の瞳を泳がせてはクロに戻し、視線を下に落としていった。


「私のもう一つのわがままを、聞いてくれませんか?」


「なんだ? 言ってみろ」


 花梨が普段通りの態度で接してくると、クロもりんした表情へと戻し、不安を与えない為に即答する。

 そして二度目の覚悟を決めると、花梨は下に落としていた視線をクロに移し、瞳を閉じる。そのまま軽く息を吸い込むと、幼さが垣間見える瞳をクロに見せつけた。


「こうやって二人だけで居る時は、これからずっと私のお母さんに、なってくれませんか?」


 切なる願いを込めた二度目のわがままを言うと、花梨の瞳に薄っすらと涙が滲んでいく。その願いを確かに聞いたクロは、予想通りと言わんばかりにほくそ笑んだ。


「言うと思ったよ。私がお前の母親になって、本当にいいのか? 後悔しないか?」


 クロが念入りに確認してくると、花梨は首を力強く横に振った。


「後悔なんて絶対にしません。こんな私の事を想ってくれていて、私の事をなんでも知っていて、私を愛娘だと言ってくれた大好きなクロさんだからこそ……、私のお母さんに、なって、ほしいんです……」


 日記にすら書かない本音を全て曝け出すと、感情が込み上げてきたのか。右目から一粒の涙が零れ落ち、火照っている頬をつうっと伝っていく。

 心の奥底に閉まっている本音を晒し、人前では絶対に見せない涙まで流した花梨に対し、クロは、これは、本気だな。と確信し、花梨の頬を伝っている熱い涙を親指でぬぐった。


「分かった」


「……えっ?」


「なってやるよ、お前の母親に。ずっとな」


 改めて宣言したクロが「ただし」と付け加え、自分の唇の前に人差し指を立たせる。


「二人で居る時だけだぞ? 間違っても誰かが居る時の前で、私をお母さんと呼ぶなよ? 恥ずかしいからな」


 優しく砕けた口調で言ったクロが、右目でワンパクなウィンクを送った。

 クロが快諾してくれると、夢が叶い、何もかも我慢出来なくなった花梨は、呆けている表情のまま両目から大量の涙を流し、クロの胸元に飛び込んでいった。


「……ありがとう、本当にありがとうっ! お母さんっ……!」


 愛娘となった花梨が胸元で大泣きし出すと、母親となったクロは、花梨の体をそっと抱き返し、頭を撫で始める。


「よしよし。今まで我慢してきた涙は、ここで全部流しちまえ。一粒残さず、私が受け止めてやるからな」


 そう言ったクロは天井を仰ぎ、悪いな紅葉もみじ、花梨がこう言ってるんだ。お前の代わり、やらせてもらうわ。と今は亡き本当の母親に断りを入れ、花梨の体を強く抱きしめてやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る