61話-1、とある名が記された日記

 花梨達が忘れられないひと時を過ごした、翌日の夕方頃。


 今日の野暮用を片付けたぬらりひょんは、くたびれた身体で椅子に座り、支配人室をいつもより色濃くキセルの煙で染め上げていた。 

 数え切れないほどのキセルを吸い、吸い殻を灰皿に捨てた途端。扉からノック音が数回聞こえてきて、「失礼しまーす」という聞き慣れた声と共に、扉が勝手に開く。


 扉を開けた人物は、ゴーニャが購入した赤いパーカーを身に纏っている花梨であり、左手には所々がほつれていて傷んでいる、青い古ぼけた本を携えていた。


「お疲れ様です、ぬらりひょん様」


「おお、花梨か。どうしたんだ?」


「私の部屋にあるベッドの下で、こんな物を見つけたので持ってきました」


 花梨が支配人室に来た理由を説明すると、持っていた青い本を書斎机の上に置いた。

 「ふむ」と短い言葉を漏らしたぬらりひょんが、その青い本を手に取ると、裏表を返してまじまじと眺め始める。


「本、だな。なんでお前さんの部屋にこんな物が?」


「ほら、前に私の部屋にゴキブリが出たじゃないですか。その時に一回見つけたんですけど、色々とゴタゴタしてて忘れちゃってまして。たぶん、誰かの日記か小説だと思うんですよねぇ。表紙に薄っすらと、名前っぽい文字が書かれているんですよ」


「名前?」


「ええ、紅葉こうようって書いてあります」


 紅葉こうようという単語を耳にした瞬間。ぬらりひょんの瞼が限界まで見開き、体に凍てついた衝撃が走る。

 そのまま心の中で、紅葉こうよう? 違う、恐らくそれは紅葉もみじと読む。すなわちこれは、花梨の母親の日記……! あやつめ、部屋に忘れていったのか? いや、問題はそこじゃない……。と、心臓の鼓動を速めていく。

 眩暈がしそうなほど大きな焦りを募らせ、ひたいから汗が滲み出し、喉を鳴らして生唾を飲み込んだぬらりひょんが、鋭い眼差しを花梨に向けた。


「お前さん、この本の中身は……、読んだのか?」


「読もうとはしたんですが……。名前の下に書いてある『読んだ者には、死を与える』という警告文が先に目に入ったので、怖くて読めませんでした……」


 苦笑いして頬をポリポリと掻いた花梨がそう言うと、ぬらりひょんは視線を青い本に戻し、目を細めて確認してみた。

 するとそこには花梨の言う通り、掠れているが殴り書きされた赤い文字で『読んだ者には、死を与える』とあり、思わず口元をヒクつかせる。


「だ、だいぶ物騒だな……」


「ですよねぇ。ぬらりひょん様は、この本が誰のだか分かりますか?」


「……さあな、見当がつかん。とりあえず、ワシが責任を持って預かっておこう」


 嘘を挟み、安堵のため息をついたぬらりひょんが、深く追求させない為に話を終わらせると、この件について触れさせない様に、別の話題に切り替える。


「それよりも花梨、その赤いパーカーはどうしたんだ?」


「これですか? ふっふーん」


 ぬらりひょんの問い掛けに対し、花梨は満面の笑みで両腕を大きく広げ、その場でクルッと一回転した。


「このパーカーは、ゴーニャがくれたプレゼントなんですよ! どうですか? 似合ってますよねっ」


「ほう、ゴーニャからのプレゼントか! そりゃよかったじゃないか、すごく似合っとるぞ」


「えっへへ~、ありがとうございます! 私の一生の宝物ですっ!」


「そうかそうか、あやつはパーカーを贈ったのか。お前さんが喜んでなによりだ」


 表情がほころんでいるぬらりひょんが、「それと」と付け加え、キセルに詰めタバコを入れる。


「お前さんが考えた店の進捗具合は、どうなっているんだ?」


「えっと、お昼頃に青飛車あおびしゃさん達に差し入れをしてきたんですが、お店自体は出来ていました。後は内装と、設備の取り付け、配線等が完了すれば完成だそうです」


「おお、ならばもう少しじゃないか。待ち遠しいな」


「ですねっ。それでは失礼します!」


 要件を済ませた花梨が微笑みながら一礼すると、パーカー姿を褒められたせいか、足取り軽く支配人室を後にする。

 その嬉々としている背中を見送ったぬらりひょんは、再びキセルの煙をふかすと、煙が広がっている天井に向かい、温かな笑みを送った。


「ゴーニャのプレゼントが成功したみたいで、よかったよかった。後でお祝いの言葉を掛けてやらんとな。しかし……」


 ふと表情を曇らせたぬらりひょんは、花梨の母親である紅葉もみじの青い日記に顔を戻し、「ふむ……」と言いつつ、右眉を跳ね上げる。


「日記の中身が気になるな……。少しだけなら読んでも構わんだろう。どうせならクロも巻き込むか」


 湧いてきた好奇心に抗わぬまま身を任せると、和服の袖から携帯電話を取り出し、クロに電話を掛け始める。

 一コール目、二コール目を過ぎてもクロは電話に出ず、九コール目に差し掛かると、そのコール音が途中で途切れた。


「もしもしぃ~……?」


「むっ、寝てたのか。すまんすまん」


「なんだよオッサン……。せっかく花梨達と楽しく遊んでる夢を見てたのによぉ……。いま、何時だと思ってやがる……」


「お、お前さん、寝起きだと相当機嫌が悪いようだな……。初めて知ったわ……。もう夕方の四時過ぎだぞ」


「四時ぃ~……? げっ、本当だ……。……すみませんでした。それで、私に何の用ですか?」


「花梨が面白い物を持ってきたんだが、一緒に読まんか?」


「面白い物、ですか。なんだか分かりませんが、今そちらに向かいます」


 寝起きのせいか、声がまどろんでいるクロが通話を切り、待つこと一分。

 扉から微かなノック音が聞こえてきて、扉が開くと、寝ぐせが盛大に立っていて、大きなあくびをしているクロが部屋に入ってきた。

 着ている修験装束しゅげんしょうぞくはしわくちゃになっており、寝ぼけ眼を擦っているクロが書斎机の前まで来ると、再び大きなあくびをつき、黒い瞳に涙を滲ませる。


「お疲れ様です、ぬらりひょん様」


「お疲れさん。寝起きのお前さんと、仕事中のお前さん。まるで別人だな」


「今日はたまたまです、恥ずかしいのであまりジロジロ見ないで下さい。それで、面白い物とはなんですか?」


「これだ、見てみろ」


 そう言ったぬらりひょんが青い日記を差し出すと、瞼が半分閉じているクロは、その青い本を手に取り、瞼を更に細めた。


「こりゃまた古びた本ですね。これがどうしたんですか?」


「そいつは紅葉の日記だ。花梨の部屋にあるベッドの下から出てきたらしい」


 懐かしい名前を聞くや否や。耳を疑ったクロの寝ぼけ眼がカッと見開く。


「紅葉の日記!? なんでまた、ベッドの下から紅葉の日記なんかが……?」


「大方、紅葉か鷹瑛たかあきのどっちかが蹴っ飛ばしたか、何かしらの拍子で潜り込んだんだろう」


「はぁ~……。花梨がここに来る時の為に部屋を封印していたとはいえ、まさか二十三年間もベッドの下に潜んでいたなんて……」


「そう思うと、保存状態はかなり良好だな。でだ、クロよ」


 話を切ったぬらりひょんの口調が、突如として悪巧みを考えているような少年の物へと変わる。

 勘が鋭く、その口調で大体の予想がついたクロは、ぬらりひょんが喋り出す前に割って入った。


「まさか、この日記を読むつもりですか? 読んだら私達、死んでしまいますよ?」


「少しぐらいならバレやせんて。実はお前さんも、中身が気になっているんじゃないのか?」


「うっ……。ま、まあ、多少は……」


 歯切れがやたらと悪いクロに対し、ぬらりひょんが勝ち誇ったように鼻で笑うと、口角をいやらしくつり上げる。


「やはりな。紅葉には悪いが、読ませてもらおうかの」


「化けて出て来なきゃいいんですが……。しかし、好奇心には逆らえません。お供しましょう」


「よし、死なば諸共だ。早速読むぞ」


 はなから諦めがついていたクロは、ぬらりひょんの横に移動し、持っていた日記を書斎机の上に置く。

 そして、いやらしい笑みを浮かべているぬらりひょんが、紅葉の日記を丁寧に開いた。

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