36話-1、妖狐の日
温泉街がいつもより騒がしく感じる、朝七時十分頃。
静かだった部屋内に、携帯電話から目覚ましのアラーム音が鳴り始める。その中で花梨は、自分の体がソフトクリームになっていて、ゴーニャにペロペロと舐められている夢を見ていた。
溶けたり減ったりはしないものの、顔の部分を何度も美味しそうに舐められ、訳が分からぬ状況下に花梨は、混乱はしながらゴーニャに語りかける。
「ゴーニャ~……、私だよぉ~……。舐めるのをやめ、……ハッ!?」
横を向いて寝ていた花梨が、ゴーニャに顔を舐められている夢から覚め、カッと目を見開くも、その感触は未だに続いている。
朧げだった意識がだんだん覚醒してくると、眠気とは違う重みを体に感じ、二度
すると、体の上にゴーニャが覆いかぶさるように乗っており、その視線を徐々に上へと持っていくと、ペロペロと頬を舐めていた。
「このアイス、味がしないし全然溶けない……」
「あ、アイスを舐めてる夢を見てるのか……。ほら、起きて起きて」
ゴーニャが体に乗っているせいで腕が動かせず、体を小刻みに揺さぶっていくと、ゴーニャは舐めるのを止め、閉じていた目を細く開けた。
「おはよう、花梨っ……」
「おはようゴーニャ、アイス美味しかった?」
「アイスぅ……?」
「あ~、分からなければいいや。とりあえず動けないから、体から降りてちょうだい」
まだ寝ぼけているゴーニャが、小さなあくびを一つつき、体を回転させて花梨の前へと落ちていく。
体の自由が利くようになった花梨は、固まっている体をグイッと伸ばしてからアラームを止め、ベッドから降りていった。
ゴーニャも後を追うようにベッドを降り、仲良く私服に着替える。眠たい目を擦りながら歯を磨き、眠気を飛ばすように冷たい水で顔を洗う。
そして、部屋に戻ってテーブルの前に腰を下ろし、テーブルの上を見てみると、皿に拳大のいなり寿司が六つ盛られて置かれていた。
「大きないなり寿司だなぁ」
「確か、定食屋
「よく覚えてたね。あっ、そうだ。ゴーニャ、妖狐に
「―――ッ! 食べるっ!!」
妖狐の姿で食べる油揚げを使った料理は、
その反応を見て微笑んだ花梨は、妖狐に
髪飾りを受け取ったゴーニャは、かぶっていた帽子をベッドの上に置き、すぐさま髪飾りを頭に付ける。すると、ゴーニャの足元から白い煙が現れ、螺旋を描きながら体を包み込んでいく。
その白い煙が徐々に霧散していくと、中からパリッとした清楚な巫女服を身に纏い、モフモフな狐の耳と尻尾を生やしているゴーニャの姿が現れた。
「あっはぁ〜、いつ見てもカワイイなぁ~。それじゃあいただきまーす」
「いただきますっ!」
手を合わせて朝飯の号令を唱えると、花梨は大きないなり寿司を片手で掴み、大口を開けて一気にかぶりついた。
最初に、酢飯を包んでいる油揚げのさっぱりとした甘みが、口の中へと広がっていく。
次に、やや酸っぱめながらも、適度に味付けされた酢飯の味が顔を出し、程よい甘さの油揚げが尖った酢の風味を中和していく。
ゴーニャは一口目を食べた時点で手が止まっており、狐の耳をピンと立て、目と口を大きく開き、はち切れんばかりに尻尾を振っていた。
「う~ん、大きいながらも味がしっかり付いてるや。んまいっ。ゴーニャはもう、言わずもがなって感じだね」
「おいひい~っ!」
「幸せそうな顔をしちゃってまぁ。ふふっ、写真撮っちゃおっと」
食欲よりも写真欲が
シャッター音が絶えず鳴り響く朝食が終わると、ゴーニャは元の姿に戻り、皿を水洗いしてから荷物を確認し、自分達の部屋を後にして支配人室に向かっていく。
支配人室の前に着いてから扉を三度ノックすると、中から「入れ」という、低音で不機嫌そうなぬらりひょんの声が聞こえてきた。
扉を開けて中に入ると、いつもならすぐに、書斎机の椅子にふんぞり返っているぬらりひょんの姿が目に入るが、今回は椅子の背もたれ部分が花梨達を先に出迎える。
花梨が不思議に思うも、背もたれ部分の向こう側からキセルの白い煙が昇っており、ぬらりひょんが椅子に座っている事が伺えた。
「おはようございます、ぬらりひょん様」
「おはようさん。話を始める前に、お前さん達に一つ言っておく事がある。ワシの姿を見ても絶対に笑わないと誓え」
「へっ? それって、どういう意味ですか?」
「いいから誓え」
花梨とゴーニャは、お互いに顔を見合わせてから首を
その言葉を聞いたぬらりひょんが、一度大きなため息をつくと、座っている椅子を花梨達の居る方向へと回転させていく。
そしてその椅子には、ツルツルの頭に狐の耳を生やし、自分の身長と同じぐらいある大きなモフモフの尻尾を背中からチラつかせ、眉間に深いシワを寄せたしかめっ面のぬらりひょんが座っていた。
服も普段着ている深緑色をした和服ではなく、まったくと言っていいほど似合っていない清楚で煌びやかな巫女服を身に纏っている。
その異様で、違和感が積み重なった不気味な姿を見た二人は、笑うどころか若干引いており、今まで感じた事のない衝撃の方が遥かに勝っていた。
口を小刻みにヒクつかせ、思わずぬらりひょんのような人物に指を差した花梨が、震えた声で喋り始める。
「ぬ、ぬらりひょん様……、ですよね?」
「指を差すな指を。ふんっ、そうだ。無様な恰好だろう?」
「な、なんとも言えないですけど……。なんで妖狐の姿なんかに?」
「とりあえず窓から外を見てみろ」
「外、ですか」
終始静かな怒りがこもっているぬらりひょんの言葉を聞くと、花梨は唖然としているゴーニャを抱っこし、ぬらりひょんの背後にある窓から外の様子を覗いてみた。
いつもであれば、秋が映える木造建築の店が並んでいる温泉街には、異形な姿をした妖怪達が大通りを
しかし今では、その建物の前に運動会などで使用する白いテントが立ち並んでおり、大通りを歩いているのは妖狐のみで、他の妖怪達の姿は一切見当たらない。
和風で落ち着いた色の中に、強い原色が混じっている温泉街の風景を垣間見た花梨達は、目を丸くして呆気に取らつつ、妖狐達しかいない温泉街を眺め続けた。
「妖狐さんしか、いないですね。これは一体どういう状況ですか?」
「ここ『あやかし温泉街、秋国』では、店を構えている妖怪に好き勝手し放題する事を許す日を設けてあってな。んで、今日は『妖狐の日』で、妖狐神社の
「へぇ〜。じゃあ、温泉街が妖狐さんまみれになっている原因は、楓さんのせいなんですか?」
「ああ。温泉街に店を構えている妖怪も客も、全員ひっくるめて問答無用で妖狐にしておる。なんでも、妖狐の素晴らしさを
その説明に花梨は、そういや楓さんと初めて会った時、妖狐不足とか言っていたような気が……。と、既に遠い過去のように思える言葉を思い出す。
白いテントに目を移すと、銀色に光る鍋やコンロが設置されているのが伺え、妖狐達がそのテント内に大量の油揚げ、うどん、米俵を運んでいる姿も見えた。
「食材なんかを運んでますけど、何か振る舞うんですかね?」
「油揚げを使った料理を作り、それらを無料で提供するらしいぞ。それで、油揚げの虜になった妖怪を一気に引き入れるとか言ってたな」
「確かに、妖狐になった時に食べる油揚げは美味しいですけど、手口がエグいですねぇ……」
「そう言ってるが、そのエグい手口を手助けするのが今日の仕事だからな?」
「んげっ、そうなんですね……」
今日の仕事内容が分かると、花梨の表情からやる気が若干薄れ、窓から離れつつゴーニャを床に降ろす。
ぬらりひょんがキセルに詰めタバコを入れ始め、狐の耳をピクッと動かしながら話を続ける。
「それじゃあ、妖狐神社に楓がいるから説明を受けてこい」
「分かりました。よしゴーニャ、行こっか」
ゴーニャと手を繋いだ花梨が、支配人室の扉に向かっている途中、ぬらりひょんが「ああ、そういえば」と、わざとらしく声を上げ、ニヤリと口角を上げる。
「クロも妖狐になっとるから、行く前にちょっかいを出してこい。今なら一階の食事処にいるだろう」
「クロさんも、ですか。なるほどぉ? わっかりましたぁ!」
ぬらりひょんの言葉に触発され、悪巧みスイッチが入った花梨は、不敵に笑いながらゆっくりと扉を閉め、支配人室を後にする。
階段を降りつつ辺りを見渡してみると、漆黒の翼を背中に生やしている女天狗の姿はどこにも無く、目に入ってくるのは、
三階、二階と目に見える光景を眺めつつ一階に着き、こっそりと食事処に近づいていくと、厨房でクロの顔をした妖狐が、大きなあくびをかきながら料理の仕込みをやっていた。
終始ニヤついている花梨が、バレないようクロの元へと歩み寄り、隙だらけの背後に回る。
「クーロさんっ」
「んっ? ああ、花梨か。おはようさん」
「おはようございます! クロさんも妖狐の姿になってるんスねぇ~。その姿、すっごくカワイイっスよぉ~」
その挑発とも取れる言葉を耳にしたクロは、仕込みをしている手を止め、黙ったまま花梨に詰め寄りながら両頬を手でつまみ、力の限りグイッと引っ張った。
「
「いだっだっ! あいだだだだっだだだっ!」
手足をバタつかせている花梨を睨みつけていたクロが、つまんでいた頬をパッと離す。そして、鼻をふんっと鳴らしてから料理の仕込みを再開し、悶えている花梨に聞こえるよう愚痴を零す。
「まったく、あの
「いてててて……。クロさんの妖狐姿ってものすごく珍しいですよね。巫女服も本当に似合ってますよ」
「そんなお世辞はいらん。私の事はいいからさっさと仕事に行け」
「はーい、それじゃあ行ってきます! 帰りに写真を撮らせてくださいね!」
そう一方的な約束を交わした花梨は、赤くなっている頬を擦りつつ、クロに手を振りながらゴーニャと共に入口へと向かっていく。
二人の後ろ姿を見送ったクロは、自分が着ている巫女服を引っ張り「そうか、この姿似合ってるのか……」と、満更でも様子で呟き、狐の耳と尻尾を嬉々に動かしながら料理の仕込みを続けた。
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