きっと、僕は空っぽだ。

赤崎シアン

夜の散歩

「ちょっと歩いてくる」


 階段に足をかけながら横を通りかかった母さんに声をかける。


「え? 走るんじゃなくて?」

「うん」

「……そう」


 それきり母さんは何も言わない。決して態度が冷たいわけじゃない。これ以上追及すると僕が言葉を濁すのを知っているからだ。


 反対しない、ということは行ってもいい、ということだろう。

 僕は階段を一段飛ばしで駆け上がる。


 階段を上がってすぐ。右手にある部屋のドアを開けて電気を点ける。


 この部屋は不便なところが二つある。

 ひとつがドアを開けた状態だとクローゼットが開けられないこと。もうひとつが単純に部屋が狭いところ。


 外に出るには寒いだろうからコートを羽織りたい。コートはクローゼットの中にある。クローゼットを開けるにはドアを閉めなければいけない。

 実に面倒だ。


 ドアを閉めてクローゼットを開ける。中は少し汚い。普段使わないキャリーバッグなども入っているのだ。まあ、これでも綺麗になったほうだが。

 ハンガーに吊るされた服の中からコートを取り出す。布のコートではなくポリエステルのシャカシャカしたやつだ。去年、コートを買う時に布のものではなくこっちを選んだ。


 コートを掴み、クローゼットを閉じ、ドアを開ける。

 階段を下りながらコートに袖を通していく。


 行き先は決まっている。どうせならそこで飲み物でも買ってゆっくりするか。となれば財布だ。


 昨日から放ってあるバッグの中から財布を取り出してコートの左ポケットにしまう。

 ついでに机の上に置いてある自分のスマホを右ポケットに入れる。


 するとまた母さんが通りかかった。


「どうかしたの?」


 純粋に疑問をぶつけられた。

 別に母さんに話すほどの理由ではない。

 でも、何か言わないと変だ。母さんの前を通り過ぎながら小さく呟いた。


「……ちょっと頭を冷やしたくて」


 聞こえているかはわからない。

 でも母さんは何も言わなかった。


 玄関への短い廊下を歩きながらコートのチャックを閉める。ボタンも留めておく。

 履きなれたスニーカーに足を突っ込み、のところに指を入れて最後まで足を入れる。反対も同じように。


「いってきます」


 どうせ誰も聞いていないだろうがいつもの癖で言ってしまった。


 上と下、両方の鍵を開けてドアガードも開ける。ドアを押し開けて外に出る。

 ドアが自然に元に戻ってガチャンという音を立てて閉まる。

 一応、鍵をかけておく。上下両方ともだ。

 鍵は左ポケットにしまって、ポケットのチャックを閉める。


 よし、行こう。足を前に踏み出す。


 寒い。思ったよりも寒かった。

 自然とポケットに手が伸びてしまう。

 コートのポケットは埋まっているのでズボンのポケットに手を突っ込む。


 家の角を左に曲がる。


 静かだ。たまに換気扇から食器を洗う音が聞こえてくるが、ここには重苦しいとした空気が張り詰めていた。

 その空気につられて僕の感情も冷え切っていく。


 突き当りを右に曲がる。


 食器を洗う音も聞こえなくなった。

 さらに僕の心は重くなっていく。


 次の突き当りを左に曲がる。


 足音は鳴らさない。そのせいか周りから音が無くなった。


 十字路を右に曲がって少し広い通りに出る。


 ここからはずっと真っ直ぐだ。何も考えずに歩いて行ける。


 思い出すのは昨日のこと。いや、今日だったか。

 弱ったことを言っている人に最低なことを言ってしまった。

 まるで瀕死の敵にとどめを刺すように。


 最初はそんなつもりはなかった。ただ、夜になるにつれて無くなっていく感情に身を任せて言葉を吐き出したかっただけだった。

 だが、タイミングが悪かった。

 吐き出した言葉は僕の肌を切り裂くのではなく、相手の心臓に突き刺さってしまった。

 どうしようもなかった。相手の僕への好感度は翼をを引き千切られた鳥のように地に落ちた。


 人を傷つけた。

 無感動だった僕の心にはその事実だけが残った。


 車も通らない。人もいない。ただひたすらに静かな闇の中を歩いていく。

 街灯はあるので完全な闇とは言えない。だが昼間に比べれば数百倍は暗い。

 そのくらいがちょうどよかった。僕の今の心を表しているみたいで面白かった。


 有り体に言えば、僕はうつ病だ。心が沈み込んで動けなくなる病。

 しかし学校に行けないほど重篤な症状ではない。現に一昨日だって学校に行ってきた。

 ではうつ病ではないのではないか? 時々自分でもそう錯覚することがある。

 実際、一昨日は全くうつ病っぽくはなかった。新しくできた友達と笑って過ごした。


 でもそれは


 僕はを付けている。

 愛想よく笑ったり。わかりやすく落ち込んだり。心配して声をかけたり。不貞腐れて口を尖らせたり。そういう表情のできる人間に化けている。

 その仮面を付けている間はそういう感情が生まれてくる。


 でも、夜になるとこの仮面は自然に外れてしまう。その時が問題だ。

 仮面を外した僕は仮面をつけているの時のような人間味を持っていない。

 慈悲もない。容赦もない。辛辣で、冷徹で、鋭く、冷たく、暗い言葉しか吐けない。


「ははっ……」


 乾いた笑い声が僕の口から漏れる。


 やっちまったな。ついに。二人目の犠牲者だ。


 僕は僕を客観視できる。僕は心を外に出すことができる。

 仮面とは別に僕は第三者目線で僕のことを見ることができる。

 これは僕が壊れた時に出来るようになった。

 とても便利な能力だ。端から見ていれば他人ごとなのだから痛みは感じない。

 僕の脆い心は無敵になった。


 相手を傷つけてしまった。でも僕は罪悪感を感じなかった。僕の心は全く動かなかった。


 相変わらず酷い奴だ。人間性の欠片もない。


 僕は僕をそう評価した。


 目的の公園が見えてきた。

 この町内で一番大きな公園だ。こちらから見て左側は木がたくさん生えていて、手前側は草の生えた広場になっている。ここには桜の木も植わっていて一週間くらい前は満開で綺麗だった。でも今はすべて散ってしまって葉が出てきて全体的に緑っぽくなっている。


 広場では犬と飼い主がボールで遊んでいた。どうやら飼い主が投げたボールを拾いに行かせているみたいだ。

 多分犬はゴールデンレトリーバーだろう。暗い中でも明るい毛色が見える。体も大きい。

 なぜか虚しい感じがした。


 公園を通り抜けていくと小さな商店街がある。

 コンビニと八百屋とパン屋とクリーニング屋……は無くなったんだっけ。あと銀行がある。ATMが二台あるだけだが。


 コンビニに入って温かい飲み物が売っている棚を見てみる。

 缶コーヒーがたくさん。ペットボトルのコーヒーがたくさん。

 ペットボトルのコーヒーを手に取ってレジに出す。

 なぜこれを選んだかと言うと、単純明快、安くなっていてお得な気がしたからだ。


「テープでいいです」

「はい、ありがとうございます」


 店員さんは高い声で返事をしてくれる。

 バーコードを読み取ってレジを打ち、ボトルにシールを張る。


「百五十円です」


 財布を出して小銭のところを覗いてみる。……ちょうどある。

 百円玉と五十円玉を出して青いトレイのようなものに乗せる。


「ちょうどお預かりします」


 店員がトレイからお金をレジに入れる。僕はコーヒーを手に取った。


「レシートはご利用になりますか?」

「じゃあください」


 なぜか貰ってしまった。

 財布のレシートを入れるところに突っ込む。

 財布を閉じて左ポケットに入れてチャックを閉じる。

 店を出ようとすると高い声の「ありがとうございました」が飛んできた。


 なんとなく公園に戻ってみた。

 キャップを開けてコーヒーを口に含む。苦い。微糖って意外と苦いんだな。

 時計があったので見てみるとちょうど九時を指していた。


 もうちょっとゆっくりできる。


 コンビニの前を横切り、商店街の中にあるベンチに腰掛けた。

 コーヒーをちびちび飲んでいく。

 もともとコーヒーが好きなわけではない。ただ今日はコーヒーの気分だったのだ。


 苦いな。それに口に渋いのが残る。

 でもこんなこんなもんだろう。


 自然とコーヒーの苦さと相手を傷つけた罪悪感を重ね合わせていた。

 苦さが体を満たしていく。その感覚が感じない罪悪感の代わりだった。


 罪悪感を感じなければいけない、といい子の仮面は思っているのだろう。

 そのせいで勝手に手がコーヒーを口に運んでいる。

 理性では感じなくても僕がそうあるべきだと思っているのだろう。

 全く律儀な奴だ。そんなんじゃまた壊れるぞ。


 コーヒーが半分ほどになったので立ち上がる。

 そろそろ帰ろう。大分頭も冷えてきた。


 家の方向に足を向け、歩みを進めていく。

 時々、コーヒーを飲みながらゆっくり歩いていく。


 傷つけた相手には謝った。謝っただけで「許してくれ」とは言っていない。

 他の人から「文があまりにも理性的だ」と言われた。当たり前だ。僕は謝罪だけをしたかった。感情の含まれない純粋に過ちを認める宣言をしたかっただけだ。

 相手からの返事はない。仕方がない。とどめを刺したのだ。一応、生きてはいるみたいだったが。


 コーヒーが空になった。罪悪感を飲み干した。

 少し気が楽になった。代わりとはいえ罪悪感を感じたのだ。

 体が少し軽くなったように感じた。馬鹿みたいに単純だな、僕は。


 通りを遡って左に曲がる。


 今日は眠れるかな。コーヒー飲んじゃったし。

 明日休みだし、夜更かししてもいいか。


 次の角を右に曲がる。


「はぁ……」


 自然とため息が漏れた。

 僕が僕に呆れているんだろう。多分。


 今度は角を左に曲がる。


 明日殺されてもおかしくないだろうな。誰の恨みを買ってるかわからないし。


 最後に自宅の角を右に曲がる。


 左のポケットに手を突っ込んで鍵を取り出す。

 車の脇を抜けてドアに向かう。

 二段上がって流れるように鍵穴に鍵を差し込む。上、下。

 鍵を抜いて、一度姿勢を正して大きく息を吐いた。


「ふう……」


 目を開いて、ドアに手をかけ、引いて開ける。

 途端に明るさが目に入ってくる。

 帰ってきた。居心地のいい世界に。


「ただいま」


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きっと、僕は空っぽだ。 赤崎シアン @shian_altosax

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