形見の財布

@kanamezaki

形見の財布

男ばかり四人で二時間ほど雑多な居酒屋で飲んだ後、女の子と飲もうと声高に言い出したのは幹事役の後輩だった。店員が釣銭を持ってくるのを待つ僅かな間に降って湧いた様な提案だった。腕時計を見ると二十二時を回っている。


 可愛い娘がいるんですよ、などと秘密を打ち明けるかの様に付け加えたが興味は湧かなかった。返答をしないまま他の二人の出方を伺う。二人は顔を見合わせ、ヘラヘラと笑いながら断り文句を作るも、気持ちはもう次の店に行ってしまっているのが目に見えて分かった。


 僕はここで帰りたかった。外で飲むのはあまり好きではなかったし、そもそもこの後輩とは一年しか一緒に仕事をしていない。他の二人もそうだ。それなのに何故、このメンバーに入れられたのか不思議で仕方無い。


 彼は入社後、僕が所属する部署に配属されたのだが、数ヶ月すると営業部への話が出て、年度が変わると目立った慌ただしさも無く異動してしまった。


 明るいし、話のテンポは良いし、フットワークも軽い。時に上司に怒鳴られ挫ける。しかし、それはただのパフォーマンスで本人は何の打撃も受けてはいなかった。そんな後輩だから、今の顔色を見ていると異動は正解だったのだろう。


 仕事は金と割り切る、ほろ酔いの後輩はビール片手にそう言い放ったが、僕は賛同する事が出来無かった。細かくて地味な事務屋、自分にはそれが合っている。派手な生活など必要なかった。有り難い事に妻も同じ考えだった。


 きっと何かと忙しい営業部の面子は出払っていて、飲み会の相手は捕まらなかったのかもしれない。この様子では、一緒に飲めれば相手は誰でも良かったに違いない。


 奢りますよ、と強気な事を言う。まだ結婚していないのならちゃんと貯金しておけ、と忠告するも彼は、大丈夫、と大袈裟に首を縦に振りながら何度も繰り返した。まとまった金が必要になる時、その実感や危機感がある程度収入があるまだ若い彼には無いのだろう。


 おそらく彼らは何があっても行くつもりだ、僕は仕方無くついて行く事にした。


 行きつけにし始めたらしいキャバクラに入ると、案内されたボックス席に座る。彼らはまだ酒も出されていないのに雰囲気だけで盛り上がっていたが、僕は日常からかけ離れた煌びやかな空間にどうにも落ち着けず、脇に置いた通勤鞄の持ち手をきつく握り続けていた。


しばらくすると隣に女の子がついてくれた。薄ピンクのロングドレスを纏い、滑らかな白く丸い肩を露出させている。アップにした髪の下に見えるうなじが美しい女の子だった。三十歳手前ぐらいだろうか。若いと聞いて想像した姿と少し違った。


 ここでする話はどのみち中身の無い話だ、適当に相槌を打ちながら女の子が作ってくれたやや濃い目の酒をちびちびと飲む。


 後輩が何か言う度、周りは手を叩きながら笑った。二人は時折、隣の女の子にだらしない口元を寄せ、耳打ちをして囁き合っていた。ただそれだけなのに、酷く卑猥な光景に見えた。二人揃って妻帯者だからか。


何が楽しいのか僕には理解出来ず、独り冷めている所為で居心地の悪さをより一層感じていた。グラスの中の氷がじわりと解け、傾いた。


 不意に楽しそうに喋る女の子の手が、僕の太ももに触れた。ただの弾みであるのは分かったはずなのに、無意識にその綺麗に装飾が施された手を払いのけていた。


しまった、そう思った時には遅かった。申し訳無くその女の子を見ると変わらず笑顔のままで、ごめんなさい、と小さな声で謝った。しかし、それが本心でないのは瞳で直ぐに分かった。


つまらない男、とでも言いたそうに。



「ちょっと、ゴメン」



 僕は鞄を抱き締めて席を立った。



「先輩、まさか帰るんじゃないでしょうね?」



 後輩の酔っ払った声が飛ぶ。



「帰らないよ!」



 肩越しに振り向き一瞥をくれてやると、丁度通りかかったボーイにお手洗いの場所を尋ねた。客に手を振る女の子の直ぐ後ろを擦り抜け、脇目も振らず駆け込んだ。


 個室に入り鍵を掛けると、スラックスを履いたまま便座に腰掛ける。深いため息を一つ吐く。


もう、とにかく帰りたかった。彼らにとって楽園かもしれないが、僕には豪奢な監獄だ。逃げ道が無い。


 膝の上に鞄を乗せ、尻のポケットから財布を出す。縁が僅かに剥げている。いつ何処で買ったのか忘れてしまったほど使っている黒色の革の財布が一段と草臥れて見えた。


奢りとはいえ、全て出してもらうのは申し訳無かった。足りなかったら、どうしようか。あの調子だと、自分達が今どのぐらい飲んでいるか分かっていないだろう。そんな不安が過ぎるのも後輩が心配だからではなく、こんな年齢になっておきながら金が足りないという恥をかきたくないというところが大きかった。


 僕は鞄を開け、もう一つの財布を取り出した。そして、落ち着いた光沢感のある表面をそっと撫でる。


 世界で一つだけの財布。


 特別に誂えてもらったラウンドファスナーの長財布だ。機能性よりも見た目に重点を置いて誂えてもらったお陰でとても美しい仕上がりだった。


茶とオレンジの中間ぐらいの色合い、全体に広がるムラが独特な雰囲気を醸している。時間、天気、僕の心理状態、その時々によって財布は表情を変えた。


初めてそれを手にした時の衝撃は忘れない。僕は心の底から惚れ直した。


 しかし、これを作った革小物の職人は、この依頼を最後に店を畳んでしまった。初めて店を訪れた時には既に高齢だったが、それを差し引いたとしても異様に顔色が悪かったのを覚えている。


年齢を理由にオーダーは控えていると言ったが、土下座をも辞さない気持ちで頼み込んで半ば強引に引き受けてもらったのだった。帰り際、作業机の一点を見つめ続けるおやじさんがうっすらと口を開いた様に見えたが、そう見えただけだった。


 仕上がった財布を受け取り、一ヶ月ほどしておやじさんの顔を見に店へ向かうと、シャッターの下りた店先に不動産屋の看板が置いてあった。どうやら店ごと売却してしまった様だった。


店の隣近所に所在を聞いて回ったのだが、おやじさんの行方を知る人はいなかった。職人仲間に冗談めかして自分が入る施設を自分で探している、と言った事もあったそうだが、本当にそうしたかどうかは誰にも分からない。ある日、周りに何の挨拶も無く、ふっと消えてしまったかの様におやじさんはその姿を隠してしまったらしい。


 おそらく最後の一点。だから、尚一層大事にしている。


 この財布にはクレジットカードと予備の金を入れてあるのだが、まじないでもかかっているのか、本当に必要な時にしか口を開いてくれない。これまでに外食ばかりして手持ちが足らず、力任せに開けようとしてファスナーが壊れてしまうんじゃないかと思い、諦めた事が二、三度ほどあった。スーツや靴なんかを新調した時はすんなりと開いたのだが。


 一抹の不安を感じながら、おそるおそる開けてみる。



 ギチッ。



 ギチギチッ。



 もう一度やってみるもやはり開かない。むしろ開けようとすればするほど、ファスナーの歯がきつく噛み合ってゆく様だった。子供の頃の綱引きを思わせる、まさに駆け引きだった。


 亡き妻の形見であるこの財布に、今も僕は紐を握られ続けている。そう思わずにはいられなかった。


 今は亡き妻。


 病魔は妻を僕の手の届かない所、目に見えない所へ連れ去ってしまった。僕はこんな理不尽な事で妻を手放したくなかった。僕達の時間はまだ沢山あるはずだった。


声を発せなくなり、痩せこけてしまった頬をそっと撫でる。


動く事の無い小さな左手を両手で包み込み、そうする事で辛うじて呼吸する妻と少しでも話が出来無いかと願い続けた。生きている証を、妻がここに居る証が欲しくて堪らなかった。


しかし、時は無常だった。交わす言葉も無いまま冷たくなった身体を置いて、ここではないどこかへ妻は攫われてしまった。


数日して、僕はそう思い込んでいただけだった事に気付いた。


遥か遠くへ消えた妻は、攫われた時と同じ静かさで僕の側に戻ってきたのだ。生きていた頃の温かさと、それ以上の光を持って。


見るに見かねたのか、どこか頼り無い僕に優しさだけでなく厳しさもある手を差し伸べてくれる。僕は独りになった訳じゃなかった。


思わずため息をつき、今回も諦めて財布を鞄に仕舞った。本当に壊してしまったらリペアに出せる店はもう何処にも無い。あの店のあのおやじさんにしか頼めない、これはそんな品物なのだ。


 ひとしきり飲んで結局、後輩の言葉に偽りは無く、全て支払いを済ませてくれて正直ほっとした。

 僕はもう一軒行こうとする彼らと店の前で無理矢理別れ、駅へと向かった。


 繁華街のネオンは日付が変わったこの時間でも煌々と輝き、引き止めようと道行く人に手招きをしている。スーツ姿の男は携帯電話に大声で話し掛け、短いスカートを履いた女の子達は互いに腕を組み、覚束無い足取りで歩きながらひたすら笑っていた。


空車のタクシーの列。クラクションと緊急車両のサイレンが夜を切り裂くが、誰も振り向かない。コンビニ前に置かれたゴミ箱に背を預け、ぐったりと項垂れ座り込む茶髪の男を横目で見ながら先を急ぐ。


 人がいなくなり夜が明け眠れば、薄汚い一角に戻るのだ。


 信号待ちで鞄からあの財布をもう一度取り出し、右手で握った。すると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。酔って火照った身体に吹き抜ける夜風が気持ち良い。


 信号が青になった。人の波が一斉に動き出す。


 いつもより手を振って歩く。白線だけを選んで、踏み、跳ねる様に歩く。


 妻はいい歳になっても丈の長いスカートを軽やかに翻しながらこうして歩くのが好きだった。いつも控えめな妻が少女の時間を取り戻したかの様な表情はとても可愛らしく、温かで柔らかい。


 初めて手を繋いだ日の事は今でも鮮明に覚えている。もう三十年も前の出来事なのに。こうしてこの財布を握っていると色々と思い出してくる。


 人混みにはぐれてしまわない様に、華奢な手首を掴んだ事。


 この手を離してしまったら、何処かに行ってしまうんじゃないかと不安になった事も。


 振り返ると少し困った様な、謝る様な笑顔があった。


 穏やかな記憶を反芻する度、手に妻の体温が甦ってくる気さえした。僕は立ち止まり、思わず財布に頬擦りをする。


 妻はここにいる。




 ああ、やっぱり妻革は最高だ。

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