晩春

Kehl

晩春

 桜の花が完全に散り、青葉に生え変わる四月の下旬。私が例年の様に大学の講義には出席せず、下宿先のアパートで無為な時間を送っていると、数少ない友人のO君が私の元を訪ねてきた。右手に握られたビニル袋の中には大量の安酒が入っているのが見えた。断る理由もないため、部屋に招き入れると、O君は電源が入りっぱなしのテレビとゲーム機を見てこう言った。


「ゲームばかりしているのなら講義に来ればいいのに」

「違う、ゲーム機で映画を観ていたんだ」

「似たようなものじゃないか」

「本も読んでいた」

「何にせよ、大学をサボっていい理由にはならないさ」


 私がここ数週間の活動の証である積み上げられたDVDや文庫本をO君に見せつけたのだが、彼はそれを一瞥すると呆れたように溜め息を吐いただけであった。


 O君は偏屈で根暗な私と正反対の性格で、誰とでも分け隔てなく接せることができる人だ。外見も真逆であり、年中淀んだ目に、髪を伸ばしっぱなしのだらしない私とは違い、O君は清潔感のある短髪で、大きい黒目はこちらを躊躇させる迫力がある。そんな彼と私は妙に気が合い――もちろん一から十までという訳ではなく、あくまで根底の部分であるが――まるで生き別れた兄弟なのではと思うほどなのだ。いや、これは流石に言い過ぎではあるが、交友関係が続かない私が四年も仲良く出来ているという事はやはりよほどウマが合うのだろうとは思う。


「で、そんなに酒を持って来て一体どうしたんだ?」

「気づいたら俺の家に何本もお酒が溜まってしまっていてね。」

「僕が酒に弱いことを知っているはずだろう」

「何だか久しぶりに君のように堕落したい気分になってしまってね。ただ君の家を訪れただけでは堕落しきれないだろうから、こうしてお供を持ってきたわけさ」

「僕は堕落しているわけじゃない」

「高尚な生活をしている訳でもないだろう」

「なら小鳥でも飼って、舞踏の鑑賞を楽しむ生活でも送ればいいのか?」

「相変わらず口が減らないな」


 O君は笑いながらローテーブルに安酒を一本ずつ並べていく。私は発泡酒を手に取る。O君はチューハイ缶の栓を開け、こちらに差し出してくるので私はそれに応じる。安酒に似合った安っぽい音が部屋に響く。


 私は酒に弱い。それも極端に。たった一杯のビールで顔中が真っ赤になってしまうのだ。飲み始めはまぁ、顔色の酷さほどには辛くないため、私も陽気な気分に連られてニコニコと笑って周りの話題にも着いて行けるが次第に頭が痺れてきて、ただ黙っている事しか出来なくなる。だからと言って断るのも場を白けさせるだけであり、畢竟、私は酒を飲むしかないのである。


「それで大学は卒業できるのかい?」

「分かっていることを聞くもんじゃないよ」

「ははは。君に四年は短かったみたいだね」


 O君はグイッとチューハイ缶を傾けると、瞬く間に一本目を飲み乾してしまう。満足そうに息を吐くと、僅かに顔を赤らめていた。


「俺の方が先に卒業してしまうという訳だ」

「別に競争をしている訳じゃない。それに大学を一年、二年、長く在籍をしたほうが、社会を俯瞰視点で仔細に観察出来て、人間として成熟する」

「成熟と来たか」


 O君は物が散乱している私の部屋を一通り見渡すと、口元を歪めて嫌らしく笑う。


「厭世的になって部屋で腐っているの間違いじゃないのか?」

「うるさいなぁ。君は僕を馬鹿にしに来たのか」

「いやいや、そうじゃないよ。俺は君の生活に憧れているんだ。自堕落な生活を継続して続けるのはかなり勇気がいるからね。なかなか出来ることじゃない。今日、堕落したいと言ったのも憧れからだよ」

「何を訳の分からんことを……」


 私が疑っていると、O君は次々に缶を開けて私に勧めてくる。私の手の中には発泡酒がまだ半分も残っているのに。残りを一気に胃に流し込むと、炭酸特有の喉に纏わりつく感覚につい顔を歪めてしまう。O君はそんな私を見て、手を叩いて喜んでいる。


「で、そういう君はどうなんだ? 僕のことを笑うくらいだから、さぞ有意義な大学生活を送っていたんだろう?」


 そう問うと、O君は得意気だ。それもそうか。基本的に私の対極に立っている人間だ。華々しい経験をしてのも一つや二つではないだろう。ムキになって聞くんじゃなかったと私は即座に後悔した。


「もちろん。俺は大学で青春していたと言っても過言じゃないだろうね。サークルに合コンにバイト。俺が四年間に経験した全てはどれも青春だ」

「青春ねぇ。僕の嫌いな言葉の一つだ」


 青春なんて言葉を聞くと、何だか身体がむずがゆくなってきて居ても立っても居られなくなってしまうのだ。現にO君の口から青春という言葉が飛び出した瞬間から落ち着かなくなり、胡坐をかいた姿勢で無意識に身体を左右に揺らしていた。


「そんなことを言わなくてもいいじゃないか。君だって青春を経験してことはあるはずだろ?」

「そんな経験は一切ない」

「またまた。よく思い返して見なよ。青春とは往々にして気が付かないものなんだ。過去を振り返った時に、あぁ自分は青春していたんだなとようやく分かるものなんだ。言い換えればそうだな、春の終わりに花びらが散っているのを見て、自分が満開の花を咲かせていたのを知る、と言った所だ」


 そう言われて、天井を見つめながら自分の四年間を思い出してみたが、私が春を迎えたようなことは殆ど無かった。私の四年間はこの部屋の中で完結している。青春の経験が無いと言ったのも嘘でも何でもない。


「やっぱりそんなものはない」

「無いのか? 一つも? なんだかもったいないね」


 O君は目を丸くして心底、意外そうな顔をして見せるが、私の日常を知っておきながら、どうしてそのような顔が出来るのか不思議でならない。

 私は徐々に苛立ちが腹の奥底で募り出すのを感じていた。比例して酒を口に入れるペースが速くなる。アルコールが回り始めて頭が痺れてくる。


「別にもったいなくないさ。それより僕は君の方が心配だ。君は青春という言葉に騙されている。青春は人の辛い経験や悲しい出来事までも青く染めて、あたかも素晴らしいことであったかのようにすり替え、誤魔化し、誤認させる。人がその時、その場所で覚えたオリジナルの感情を劣化させる。青春はまやかしに過ぎないからダメなんだ!」

「酔っているね」

「酔っている? そうとも、酔っているさ!」


 私はいつの間にか興奮していたようで、立ち上がって演説まがいのことをしていた。次々と空き出る言葉を抑えられなかったのだ。しかし、私の熱弁空しく、O君に私の言葉は届いていなかった。


「でも、ひねくれた考え方はよくないね」

「違う、ひねくれてなんかいない。これは真理だ」

「そんなものが真理であってたまるか。ただの屁理屈だよ」

「屁理屈も理屈だ。間違っていると言いうのなら僕の誤謬を突けばいい」

「また無茶を言う、けれど、そうだね……」


 O君は蹌踉と立ち上がる。彼もそれなり酔っているらしい。いくら安酒とは言え、六本も七本も飲んでしまえば、流石に素面ではいられないというわけだ。


「君は一つ、勘違いをしている」

「勘違い何てあるもんか。これが僕の二十二年間でたどり着いた答えなんだから」

「まぁ、とにかく聞きなよ」


 左手を胸に当てて、右手を鷹揚に広げるO君は、熱を込めて演説していた私とは正反対で冷静さ、余裕さを所作に漂わせていた。私が感情的な演説者であったなら、O君は理詰めで答える弁護士と言った所か。


「君は青春が嫌いなんじゃない。青春という枠組みで過去を切り取った時、必ず枠外に零れ落ちてしまっている君自身が、青春に参加することが出来なかった君自身が嫌いなだけなんだよ」

「っ――⁉」


 O君の言葉はいとも簡単に私の心――誤魔化しの言葉の壁で幾重にも守られた――を一撃で貫いてしまった。私はしばらくの間、呆然としていたが、O君のしてやったりな顔を見ると、反論しなくてはと思い、頭を巡らすが、


「違う、違う!」


 と言う以外に、口に出すことは出来なかった。どんな言葉を探してもそれは自己弁解へと繋がる。自己弁解、すなわち敗北である。


「違わないさ。本心では青春を羨んでいるだけなんだよ。俺は知っているよ。大学で君がいつも俺らのことを横目で伺っていたことを。ほら、もう少し素直になればいいじゃないか。今からでも考えを改めれば、君らしい青春を手に入れることが出来るかもしれない」

「違う、違う! 青春なんて下らない唾棄すべきものだ。僕には決して必要のないものだ! そうに決まっている!」

「うわっ!」


 O君に酒が掛かり、O君の白シャツには赤い斑紋が出来ていた。どうやら頭に血が上っていてしまっていた私は、右手に持っていた酒缶をO君に投げてつけてしまっていた。場は白け、O君は私を睨む。


「やりやがったな!」


 O君は仕返しとばかりに自分がされたように酒缶を私に投げつけると、そのまま私を壁際に置いてあるベッドへと突き倒す。O君は私に馬乗りになりながら殴りかかって来る。頭に来ていた私もされるままでいるはずもなく、右、左と順序よく繰り出されるO君の拳から顔面を守ると、隙を見てO君を押しのけて、形勢逆転とばかりに反対側の壁へと強く押し付けた。


 それからは無茶苦茶に、ワンルームの狭い部屋で暴れまわった。家具という家具に身体中をぶつけ、主導権を奪いあいながら、息を切らしながら、ひたすらに殴る。勢いよく暴れまわるものだから、至る所から物が落下し、汚い部屋がより酷い有様になっていく。それでもお互い相手に致命的な傷を与えるようなことも無く、健全な喧嘩を続けること数十分、唐突に部屋の呼び鈴が鳴り、私とO君は同時に動きを止めた。


「誰か他に人を呼んだのか?」

「まさか」


 思案していると更に二度、三度としつこく呼び鈴が鳴らされるので、私は乱れた服装を正して表に出ると、そこには中年の警察官が立っていた。


「あぁ、お兄さん、ここの人? ちょっと近くの人がうるさいから見てきてくれって苦情が入ってね。一体、何をしていたの?」


 中年の警察官はそう言いながら、首を伸ばして私の背後、つまり部屋の様子を伺う。どうやら暴れすぎて警察に通報が言ってしまったらしい。流石にやり過ぎてしまったか。私はこの警察官に事情聴取なるものを受け、何があったのかを包み隠さず話した。すると、


「喧嘩ねぇ。なんというか青春じゃないか。うらやましいよ」


 と言われてしまい、私は小さく息を呑むと、その後はただただ赤面するしかなかった。

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